~筋肉史学~
よし、全員席についたな。それでは今から皆さんと一緒に筋肉史学について学んでいきたいと思う。
なんだ、田中くん。いきなり手をあげて。
「筋肉史学って何ですか」だと?
書いて字の如しだよ。だいたい分かるでしょう。ひねり潰してやろうか。
筋肉史学とは、筋肉映画の歴史を研究する学問に他ならないよ。筋肉に見る映画史というか、映画史に見る筋肉というかね。
「お前が筋肉を覗くとき、筋肉もまたお前を覗いているのだ」とニーチェは言いました(筋肉ではなく「深淵」だったかもしれないが、まぁどっちも似たようなもんだ)。
とにかく筋肉映画というのは極めてアカデミックな研究テーマなので、映画が好きな皆さんには「筋肉史学」の単位を取ることをぜひお勧めします。
先に報告しておかねばならないことは、これから筋肉映画の歴史を語ろうとしている筆者はBMI測定不能なほどガリガリだということ(だからこそスクリーンのアクションスターを憧憬するのです)。
そして筋肉映画というのが完全なる私の造語だということです。
それでは闇の授業を始めます。
第1章 筋肉映画とは?
筋肉映画とは、主に80~90年代に量産されたアクション映画のうち、とにかく筋肉だけで問題を解決するIQ0の映画群を指す。
筋肉映画をよりリスペクトした筋肉バカ映画という呼び方や、反対に筋肉映画を揶揄した脳筋映画という呼び方もあるが、いずれもアクション映画のサブジャンルである。
息子との絆を取り戻すべく腕相撲大会で腕力を誇示する父親の雄姿を描いた『オーバー・ザ・トップ』。これぞ筋肉映画。
第2章 筋肉映画の歩み
80年代に筋肉映画が台頭した背景には、60年代~70年代中期のアメリカン・ニューシネマが、70年代後期に出てきたブロックバスター映画(超大作映画)によって駆逐されたという映画史的変遷がある。
60~70年代中期までは、ベトナム戦争や公民権運動によりアメリカ全体が政治不信に陥り、若者の間ではヒッピー・ムーブメントを始めとした反体制運動が盛んに行われていた。
そんな若者たちの怒りを映画で代弁したのがアメリカン・ニューシネマ。自由を求める若者たちの刹那的な生き様を描き、大抵の場合、ラストシーンでは体制によって圧殺されるという憂鬱で虚無的な物語が当時の人々の共感を得た。素人同然の監督・俳優による低予算映画が熱烈に支持されたのだ。
だがベトナム戦争が終結した1975年、映画会社はアメリカ全体を覆う暗いムードを跳ねのけるようにブロックバスター映画を作り、政治や戦争の生々しい記憶を断ち切ろうとした。
そこで現れたのが『ジョーズ』(75年)と『スター・ウォーズ』(77年)。
この2本の映画は、アメリカのみならず世界中を熱狂させ、映画は再びエンターテイメントと化した。映画だけではない。空前のディスコブームやポップカルチャーの黎明が訪れたのもこの時代だ。
人民は「毎日が楽しい。ヤッホーって言いたい」とか「前向きになれる。気分は最高」などと言って、そうしたポップカルチャーに喜々として飛びついた。
まさに超娯楽主義。70年代後期から80年代は、娯楽主義が年々エスカレートした時代だ。
悪くいえば快楽だけを追い求めしブタどものファンファーレとも言えよう。
絵に描いたような80年代。青春を謳歌するガールたち。
そして、その勢いに便乗して現れたのが筋肉映画である!
まさに筋肉の夜明け。
思えば、70年代以前のアクション映画は、クリント・イーストウッド主演の『ダーティ・ハリー』(71年)のように善悪の狭間で葛藤したり、チャールズ・ブロンソン主演の『メカニック』(72年)のように主人公が死んじゃったりする。
つまり主人公は生身の人間だった。
対して、筋肉映画の主人公は一国の軍隊に匹敵するほど強い。そして絶対に死なない(主人公が撃った銃弾は百発百中なのに、大勢の敵が放った銃弾はかすりもしない法則)。善悪の狭間で葛藤することもないし、そもそもモノを考えない。それが筋肉映画の主人公の基本条件である。
筋肉映画において、身体とはいわば物質や時間を超越する永遠そのものなのだ。神秘~。
もはや神秘。
第3章 筋肉図鑑
それでは、筋肉スターを見ていきましょうね。
生ける伝説
『ドラゴンへの道』(72年)でブルース・リーと拳を交えたことでお馴染みの元祖・筋肉スター。
代表作に『地獄のヒーロー』(84年)、『野獣捜査線』(85年)、『デルタ・フォース』(86年)など。
チャック・ノリス・ファクトと呼ばれる彼を称えるジョークが数多く存在することでも有名。チャック・ノリスが地上最強の生物であることを端的に表している。
以下はその一例。
・アメリカ合衆国の主な死因は 1.心臓病。 2.チャック・ノリス。 3.癌である。
・チャック・ノリスはにらめっこで太陽に勝つ。
・地球は太陽の周りを公転しているのではない。太陽がただ必死にチャック・ノリスとの距離を維持しようとしているのだ。
・チャック・ノリスはタマネギを泣かせる。
・チャック・ノリスは呼吸するのではない。空気を人質に取るのだ。
・チャック・ノリスは腕立て伏せをするとき、自分の身体を押し上げるのではない。世界を押し下げるのだ。
・チャック・ノリスは銃の下に枕を敷いて寝る。
・防弾チョッキは、身を守るためにチャック・ノリスを着る。
・チャック・ノリスは、殺しの仕事を一日休んだだけでノーベル平和賞を受賞した。
・チャック・ノリスは以前、無限まで数を数えたことがある。しかも2回…。
もう聞いてるだけでIQが下がってきそうだ。
鋼鉄の戦士
ボディビルから俳優に転身した鋼鉄の戦士。言わずと知れたターミネーター、言わずと知れたコマンドーである。
この二作以外の代表作に『プレデター』(87年)、『トータル・リコール』(90年)、『トゥルー・ライズ』(94年)など多数。
デビュー当時は、あまりに現実離れした肉体美から『SF超人ヘラクレス』(69年)や『コナン・ザ・グレート』(82年)など、ファンタジーや神話に出てくる英雄の役しか回ってこなかった。
ちなみにシュワちゃんという愛称は「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ!」でお馴染みの『日曜洋画劇場』の解説者だった映画評論家・淀川長治さんが命名したもの。
ゲイとしても有名な淀川さんは、大好きなシュワちゃんに会って開口一番「一緒にお風呂に入りたい」とわけのわからないことを口走り、大いにシュワちゃんを困惑させたという。
シュワちゃんに抱かれてたいへん満足な淀川先生。
エイドリアン連呼男
永遠の好敵手・シュワちゃんと二党制を築いた筋肉スター。言わずと知れたランボー、言わずと知れたロッキーである。恋人はエイドリアン。
この二作以外の代表作に『コブラ』(86年)、『オーバー・ザ・トップ』(87年)、『クリフハンガー』(83年)など。
愛称はスライだが、日本では一向に定着しない。
単なる脳筋俳優ではなく、監督や脚本を手掛けるなど映画作家としても評価は高い。
ちなみに私個人としては、シュワちゃんも好きだけど断然スタローン派。
家柄もよくボディビルダーとして既に大成していた勝ち組エリートのシュワちゃんに対して、顔面麻痺と言語障害を抱えてスラム街に生まれたスタローンはハンディキャップのデパートだ。映画のオーディションに行けば「シチリア系丸出しの顔だ」とか「訛りが強すぎるし、よく見ると口も歪んでる」と言われ、54回も落とされる。
おまけにどん底の極貧生活。日銭を稼ぐためにポルノ映画に出たりボディガードをして口に糊しながら、一発逆転に懸けて書き上げた脚本が『ロッキー』(76年)なのだ。
『ロッキー』はボクシング映画ではない。ボクシングというのはあくまでメタファーであって、スタローンの人生そのものを刻み込んだ自伝映画なのである。だから感動するんだよ!
でも実は『ロッキー』よりも『ランボー』(82年)派です。
私は「『ランボー』は遅れてきたニューシネマであり、PTSDを描いた反ベトナム戦争映画である」というガチ論考を持っているが、余計に暑苦しい文章になるので割愛。
沈黙の男
スティーブン・セガール
好きな人には申し訳ないが、単なる脳筋俳優である。
日本の配給会社によってよく沈黙させられる。日本通としても有名。
代表作に『沈黙の戦艦』(92年)、『沈黙の要塞』(94年)など。
スタローンやシュワちゃんとは違い、デビューから一貫してアクション映画だけに出続けている。
もはや今の時代、セガールを観るのはおっさん世代しかいない。
セガールを観ているJKなんているのだろうか?
そんなJKがいたらまじ卍(まったく意味を知らずに使っています)。
ヴァンダホー!な
ベルギーといえば何ですか。
チョコですか? ビールですか?
違います。ジャン=クロード・ヴァン・ダムですね?
ベルギーが生んだ最終兵器、機動戦士ヴァンダム。蹴り技の美しさに定評がある。
代表作に『サイボーグ』(89年)、『ユニバーサル・ソルジャー』(92年)、『ハード・ターゲット』(93年)など。
何かにつけてヴァンダム映画を放送していた木曜洋画劇場の悪意※により「スーパー・ヴァンダミング・アクション」や「ヴァンダホー!」といった意味不明語が乱造される。
※番組前の予告映像で「ジャンジャン、ジャジャン…ジャン=クロード! ヴァンヴァン、ヴァヴァン…ヴァンヴァヴァンダム!」とか「同じ筋肉、大激突! どっちが勝ってもヴァンダボー!!」 といったキチガイ沙汰のナレーションがよく挟まれる。
ネクストジェネレーション坊主
ブルース・ウィリスに続くハゲカッコイイアクションスターとしてゼロ年代以降に人気急上昇。通称イサム君。
筋肉映画の後継者として、世界中の筋肉ウォッチャーから注目されている。坊主マニアの女性からも根強い人気を誇るネクストジェネレーション坊主と言えよう。
代表作は『トランスポーター』(02年)と『アドレナリン』(06年)のシリーズだが、『デス・レース』(08年)や『メカニック』(11年)など往年のアクション映画のリメイクにも積極的。
スタローン主催による筋肉の祭典『エクスペンダブルズ』(10年)シリーズでは準主役扱いされるなど、スタローンにいたく気に入られている様子。
その他、カート・ラッセル、ウェズリー・スナイプス、ドルフ・ラングレンにも言及したいが、長くなりそうなので割愛。
近年では線の細い俳優がチャラチャラしたアクションをしているが、筋肉映画はより重く、より厚く、よりパワフルなのだ!
いわば筋肉映画とはヘヴィメタルである。
グーググーグーグー!
第4章 アメリカの筋肉事情
アメリカ人はマチズモ(男らしさ)への憧憬が強い。
学校ではジョックと呼ばれる体育会系がヒエラルキーの頂点にいるし、日常的にステロイドを打ちまくっている。ボディビルはフォルムへの美意識そのものが自己目的化した競技だし、ラッパーはやたらと脱ぎたがる。
肉体の誇示。それは極めて映画的なアプローチだ。
本稿では筋肉筋肉としきりに騒いでいるが、決して私はマッチョが好きなのではない(むしろ文化/芸術を愛する身として、体育会系は軽蔑の対象ですらあります)。
ただ、映画はあくまで被写体の運動に依拠した映像メディアであり、それに於いては魅力的な身体性を持つ役者は圧倒的に優位なのだ。
映像=運動という意味では、もともと映画の歴史は馬と列車に始まっている。運動のダイナミズムを最大限に表現しうるモチーフが馬と列車なのだ。そして運動のダイナミズムが、馬と列車だけでなく人間でも表現できるようになった時代こそが80年代、すなわち筋肉映画なのである!
実際、ボディビル出身のシュワちゃんは、従来の映画界に男性の肉体美という概念を持ち込んだだけでなく、我々のような現代人がなんとなくイメージしている男はタフであらねばならないというイデオロギーをたった一人で築き上げた人物だ。
極端な話、10年ほど前に日本でも流行ったビリーズブートキャンプや、女性にも人気のフィットネスクラブ、果ては松本人志が肉体改造したのも、もとを辿ればすべてシュワちゃんによる影響といっても過言ではない(もしかすると過言かもしれない)。
ひとり筋肉革命で肉体に対する人々の意識を根本から変えたシュワちゃん。
第5章 筋肉神話の揺らぎ
だが、「映像革命」として持てはやされた『マトリックス』(99年)以降、21世紀のアクション映画はスタイリッシュこそが美徳とされている。
腕っぷしではなく頭脳、筋肉量ではなく運動神経、ガチムチではなく細マッチョ。
カット割りまくりのザク切り編集。SFXからCGが主流の凝った映像。
悪党を鮮やかに成敗する主人公は、もはや体育会系から理系へと変わった。
我が国に目を移すと、日本のアニメや漫画は筋骨隆々の男よりも華奢な少年少女の方が強いという文化的法則がある。
少年ジャンプでいえば、80年代の筋肉漫画『北斗の拳』が終わり、劇画が死んで、90年代には『るろうに剣心』、『ONE PIECE』、『NARUTO』など、華奢なイケメンたちが機敏にマッチョな敵を倒すようになる。
このあたりからマッチョ=悪役という図式が出来上がった。悲しい。
12歳の女の子でさえギャングを血祭りにあげる時代…『キック・アス』(10年)。
思えば、筋肉映画の余命宣告は1988年の時点ですでに言い渡されていた。
『ダイ・ハード』(88年)で、ヒロイズムともマチズモとも無縁のおっさん(ブルース・ウィリス)が文句を垂れながらも頭を使ってテロリストを撃退してみせたのだ。
つまり80年代筋肉映画以降のアクション映画史は二度塗り替えられる。一度目は『ダイ・ハード』で物量戦から頭脳戦へのシフト、そして二度目が『マトリックス』が広めたスタイリッシュな映像である。
最終章 筋肉の終末期
そして2010年代の現在、筋肉映画はほぼ絶滅している。
ヴァンダムやセガールなど、かつての筋肉スターたちは今なお映画に出続けているものの、その多くはVシネ同然のB級映画で日の目を見ない(その点ではザ・ロックことドウェイン・ジョンソンは絶滅危惧種として筋肉・最後の砦を守り続けている英雄と言えるかもしれない)。
唯一、メインストリームで筋肉映画の復権を声高に叫び続けているのは『エクスペンダブルズ』シリーズだが、このシリーズ自体、定年を迎えたかつての筋肉スターたちが老体に鞭打つという自虐的なコンセプトだし、私を含めた『エクスペ』ファンも年寄りの同窓会というメタ視点で見てしまっている。
それに、スタローンやシュワちゃんはもう70代だ(ぎゃあー!!)。
恐らくあと10年もすれば筋肉映画はほぼ完全に淘汰されるので、スタローンやシュワちゃんたちが現役でどうにかやってる内に筋肉に触れておきましょう。