マイナーとは言っても、日本の信者は100万人ほどいるはずで、考え方の違いはわかりやすく存在している。
もっとキリスト教は日本人に寄っていくべきであると考える牧師がいて、つまり八百万の神でもいいから存在し続けたほうがいいという考えである。
彼は、日本社会にとって穏健派であり(日本文化を壊すべきではないと考えているから、言い換えれば信仰を理由に友人をなくさないほうがいいと考えているから)、でもキリスト教にとっては革新派(見方によっては過激派)である。
この穏健派であり過激派というポジションを取らざるをえないことが、日本のキリスト教の苦しさなのだろう(伝統派は、キリスト教伝統思想からみれば正統派〔穏健派〕であり、日本にとっての過激派になってしまう)。
「キリスト教には何となく好意は持っているが、その内容には関心がありません」という人たちに囲まれて生きているのは、考えるよりも大変なのだとおもった。
「私ははっきりキリスト教の教えを拒否します」と表明しているほうが、キリスト教に近い人だと感知されてしまう、というのが悲しい現実に驚いたというお話。
これはこれで、日本ならではの「キリスト教の受難」ということかもしれない。残念ながら信者を広げるきっかけとならない受難ではあるが。