推定無罪という言葉は刑事司法の大原則です。それくらいはたぶんみんな知っているのでしょうが、その推定無罪についてどうにも奇怪な解釈が蔓延しているようです。

 政府に対する推定無罪?
 学校法人・森友学園(大阪市)との国有地取引をめぐり、財務省の契約当時の決裁文書と、その後に国会議員に開示された文書の内容が異なっている問題で、2016年の売却契約時の文書では1ページあまりにわたって記されていた「貸付契約までの経緯」という項目が、その後の文書ですべてなくなっていることがわかった。この項目には、財務省理財局長の承認を受けて特例的な契約を結ぶ経緯が記されていた。
 森友文書、項目ごと消える 貸付契約までの経緯-朝日新聞
 政府が森友学園に対しあれこれ便宜を図っていた問題で、朝日や毎日が立て続けにその便宜があったことを示唆するスクープを飛ばしている昨今です。
 あったとされる便宜の有無をはっきりさせるために文書を開示しろと迫る側とどうにか誤魔化そうとする政府とその支持者というやり取りの中でそれは唐突に降ってわいてきました。
 自由法曹団の弁護士が「推定無罪」を否定-togetter
 きっかけは上掲のツイートとそれをまとめたページでしょうか。
 実際のところ、ツイートにある指摘はまっとうなものなのですが案の定政府支持者は推定無罪について独自の解釈を生み出し、政府が関わった証拠がないのだから無罪を推定しろと反発しています。

 推定無罪は刑事訴訟の原則
 推定無罪という文字列からしか意味を推察しないと、この言葉が単に「証拠がないなら無罪」程度の意味にしか見えないでしょうが、実際にはもう少し深い意味があります。
 刑事訴訟において被疑者は検察という国家権力と対峙しなければいけません。また裁かれる場所も三権分立があるとはいえ国家権力の一部ということもできます。そのような状態での裁判は被疑者に著しく不利であり、この上「無罪を主張するならばお前が証明しろ」という難題を吹っ掛けれられれば被疑者が無罪を勝ち取ることは不可能です。
 よく誤解されるのですが、無罪の証明が悪魔の証明、つまり不可能だからそういう原則が存在するというわけではありません。そもそも無罪の証明は不可能ではないので。あくまで検察にそれをするだけの権力と資源があるから、検察に証明の義務を課しているというだけです。

 この推定無罪の原則は行政の適切な執行を確認するという文脈では一切かかわりません。理由は2つあります。
 1つは、行政の執行が適切かどうかを省庁の外の人間、ましてやただの一般人に確認するのがまず無理だからです。役所の中でどういう相談が行われているのかを公文書なしに市民が知ろうと思えば、これはもう役所の部屋一つ一つに盗聴器をつけて回るくらいしか方法がありません。そんなことをすれば当然逮捕されますし、そんな証拠は無効と言われれば行政は無敵のまま好き勝手することができます。刑事訴訟とは力関係が逆転しているので、パワーバランスの調整も当然逆転します。
 もう1つの理由は、法律で行政がどういう仕事をしたのかを公文書に残す義務が課せられているので、その文書を出しさえすれば話がすぐに終わるからです。通常の業務を遂行すれば当然残っていて、当然開示できるはずの文書が出てこない、あるいは改竄された可能性があるとすれば「政府がそうしたほうが都合がいいからじゃない?」という推測がなされるのは道理でしょう。そう思われるのが嫌なら文書を出せばいいんじゃないでしょうかね。

 推定無罪しかり、あるいは積極的平和しかり、ここ数年である概念が政府の都合のいいように歪曲されて使用される事例がいろいろと出てきました。それを見分けるコツは、政府の都合がいい概念が登場したらとりあえず疑うことです。現代の社会というのは政府のような権力者とどうやって渡り合っていくか模索した歴史でもあるので、市民に都合のいい概念は生み出されても政府に都合のいい概念はあまり創出されていません。なので政府に都合のいい言葉が登場したときは、まずその言葉の元来の意味を確認するところから始めるべきでしょう。