リンク先は、『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』にかこつけてBLOGOSさんにインタビューしていただいた記事です。これからの時代の「大人」について、私の考えを述べてみました。
インタビュー記事の常として、喋った内容を全部載せられるわけではなく、インタビューが終わった後にも考えが膨らんできました。そのあたりについて書き遺したくなったので、ゴチャゴチャとメモを書き残します。
アイデンティティを「買う」のが当たり前の社会
インタビュー記事には、都会で生活する人のアイデンティティについて触れた箇所があります。
付け加えると、都会の人は消費や購買によってアイデンティティを構築しているところがあるんです。
たとえば、都内のタワマンに住んでいるような層のライフスタイルを見てみると、飲むならクラフトビールのあの銘柄がいいとか、子どもに着せる洋服はあのブランドがいいというように消費にこだわりがあって、それがその人の特徴につながっている。
あるいはタワマンに住むこと自体もそうかもしれませんね。「私たちはタワマンに住む夫婦です」というのがアイデンティティの構成要素になっているケースもあると思います。
これはライフスタイルそのものが商品として売られるようになった影響も大きいのではないでしょうか。
どこのどんな住まいを選ぶのか。
どんなクラフトビールを選ぶのか。
子どもに着せる洋服はどこのブランドが良いのか。
いずれも消費に関わることですが、案外、こういうことに現代人はこだわりを持って、そのこだわりによって、自分自身の心理的輪郭を成しているのではないでしょうか。
人間は、自分自身だけでは自己規定や自己イメージをつくることができません。自分が大切に思うものや、「私はこういう人間」と示せるようなものに囲まれているという実感を介して、自己規定や自己イメージをかたちづくっています。それが、アイデンティティと呼ばれるものです。
例えば、誇りに思える出身大学、かけがえがないと思える友達、絶対にやめたくない趣味、等々を持っている人は、それらが自己規定や自己イメージをかたちづくる材料になっていて、それらはその人のアイデンティティの一部と呼べます。
でもって、現代社会では、お金を払って買う・選ぶ行為もまた、自己規定や自己イメージをかたちづくる一端として用いられがちです。自分が買い求めるもの・自分がチョイスするものが、自分が何者であるかを規定する、というわけです。
このことは企業の側もよく心得ていて、ただモノを宣伝するのでなく、消費者が自己イメージを想起しやすいように宣伝し、モノを売るのと同時に自己イメージの材料を売る企業が成功するようになりました。アップルなどはその典型ですよね。アップルの商品を買い求める人は、生活必需品としてそれらを買い求めているのと同等以上に、アイデンティティの構成要素になるような、自己イメージの材料を買い求めているわけです。
この数十年の間に、消費を介した自己イメージの獲得とアイデンティティの補強はごく当たり前になりました。かつての庶民は、ほとんど生活必需品だけを買い求めていたため、買うという行為にアイデンティティを見出す余地はありませんでした。身分、イエ、土地、人間関係、そういったものがそのままアイデンティティと自己イメージをかたちづくっていたわけです。
しかし庶民がいわゆる中産階級化し、職業や土地や人間関係の流動性が高まるとともに、旧来のアイデンティティは少しずつ退潮し、その隙間を埋めるように、買う・選ぶという行為をとおして自己イメージの材料を手に入れ、アイデンティティの一部とすることが珍しくなくなっていきました。モノを買うことで何者かになり、モノを選ぶことによってアイデンティティを補強する風潮はバブル景気の頃にひとつの到達点を迎え、人々は慣れない手つきでモノを買い漁り、ブランド品で自己イメージを肥大化させることに夢中になりました。
バブル景気が終わった後、さすがに成金的な消費は少なくなったものの、消費によってアイデンティティを補強する営みはなくなりませんでした。地縁も、血縁も、勤務先も、ますますアイデンティティの求め先として頼りなくなったことにより、消費を介したアイデンティティ補強の必要性は、むしろ高くなったとさえ言えるかもしれません。
消費によるアイデンティティ補強の是非
モノを買う・選ぶことによるアイデンティティの獲得には、良い面も悪い面もあります。
良い面は、なんといっても自分の意志でアイデンティティを自由に選べる点でしょうか。
どんな住まいを選び、どんな食べ物を愛好して、どんなライフスタイルを演出するか──こういった細々としたチョイスは個人の采配に任されています。アニメオタクとして生きることも、オーガニックな食品にこだわって生きることも、クルマにお金をかけてみるのも、全部個人の自由です*1。アイデンティティを構成するものの多く、たとえば人間関係や仕事や勤務先といったものは、モノを買う・選ぶことほどには個人の思い通りには選べません。モノを買う・選ぶことには、従来からのアイデンティティの構成要素に比べて強制力が少なく、人間関係の状態にもそれほどは左右されません。その人らしさ・自分らしさを自由につくりあげていけるところがあります。
悪い面は、お金がかかること・やり方が拙いと全く安定しないことでしょうか。
消費によるアイデンティティの補強には、多かれ少なかれお金がかかります。お金のかかりにくい趣味を選び、お金のかかりにくい消費を心がけることは不可能ではありませんが、お金をケチるほど実践難易度は高くなり、自由度が低下します。ソーシャルゲームのように、無料を謳ったものがかえって高くつく、ということも往々にしてあります。格差が大きくなっていると言われている今日では、モノを買う・選ぶ余裕を失った人も増えているでしょう。
消費者としての庶民が成立しなくなりつつあるとしたら、モノを買うことでアイデンティティを補強する手法自体が一種の贅沢品になってしまうでしょう。まるで、戦前社会への逆戻りのような話ですが。
また、モノを買う・選ぶことによるアイデンティティの獲得は、ともすれば流行に流されやすく、流されてばかりでは「私はこういう人間」という自己イメージが得られないおそれがあります。ただモノを買う・選ぶのでなく、それらが自分が大切に思うもの、「私はこういう人間」と示せるものにならない限り、消費によるアイデンティティは獲得には至りません。
たとえば、ワインがブームになっている時に高級ワインを飲んだからといって、ワインがアイデンティティになるわけではありません。趣味やライフスタイルや嗜好として、ワインが自分自身に定着してはじめて、ワインは自己イメージの材料たりえるわけです。もちろんこれは、他の趣味や志向にも当てはまります。どんなにお金があったとしても、それらを趣味やライフスタイルや嗜好として定着させられなければ、お金でアイデンティティは買えません。
「モノ」から「コト」に変わっても、ラクになったわけじゃない
21世紀になってからは、「コト消費」という言葉が使われるようになりました。バブルの頃のようなモノの消費はなりを潜めて、これからはコト(=体験など)の時代だ、というわけです。
実際、90年代に比べれば高価な自動車や衣服は売れなくなり、自分がどういう人間であるのかを他人に示す手段として、自分が持っているモノをじかに他人に見せびらかすより、自分がやったコトをSNSやInstagramで見せびらかす趨勢になりました。であれば、「モノ消費」のウエイトが下がって「コト消費」のウエイトが上がったのは事実のように思われます。
しかし、消費によるアイデンティティの本質・本態は、さほどには変化していないのではないでしょうか。
確かにバブル景気の頃に比べればお金はかからなくなったかもしれない。モノを選ぶのとは違ったセンスがコトを選ぶにあたっては必要かもしれない。そういった違いはあるでしょう。
反面、コトを消費するにもお金がかかり、ときにはモノを消費する以上に散財を余儀なくされることもあります。趣味やライフスタイルや嗜好として定着させられなければ、アイデンティティの獲得に至らない点は変わりません。流行に流されてばかりでは何も定着せず何も残らないのは、モノ消費と同じです。いや、モノなら流行の後にもモノが残るぶんマシですが、コトの流行が終わった後には何も残りません。
モノからコトへと消費のトレンドが変わったとはいえ、消費を介してアイデンティティを補強する難易度が落ちたとは、私にはあまり思えません。現代社会において、消費をアイデンティティ確立の一端と位置付けることに異存は無いのですが、まあその、結局は地に足の着いた取り組みが必要なのだなぁと改めて思う今日このごろです。
*1:こうした個人の自由が成立する背景には、家庭のなかで個々人が別々のプライベートを持ち、ほかの構成員の趣味趣向に干渉しないという、これまた現代的な考え方が存在します。消費によるアイデンティティの今日的な在り方ができあがる前に、まず、プライベートという観念が準備されなければならなかったわけですが、ここを書き続けると長くなるのでやめます