昨秋にクリスマスの新書を出した。
講談社現代新書の『愛と狂瀾のメリークリスマス』である。
クリスマスのことを書いたから、当然、キリスト教のことも触れる。
イエスが生まれた日でもないのに12月25日がクリスマスにされる経緯から、徳川政府によってキリスト教は日本から徹底的に叩き出されたこと、信者は増えないのに明治末年から日本ではクリスマスに浮かれていた、そういうことも書いた。
キリスト教のことはあまりよく書いていない。
もともと私は、キリスト教については好きでも嫌いでもなかった。
しかし資料を読み込んでいると、何なんだこの人たちは、とおもう箇所がいくつも出てきた。あきらかに日本文化を破壊しようとしていたから(それも信念と善意でもって破壊していたから)、彼らを日本から追い出してよかった、とおもうようになった。そう正直に書いた。
鎖国とは、日本人を誰ひとりとしてキリスト教信者にしないための政策であり、私はその鎖国政策を断固、支持する、と書いた。
どう読んでも、キリスト教のことをよく書いていない。
キリスト教徒がこの叙述を見て、うれしいはずがない。怒り出してもしかたがないとおもう。
しかし、実際の反応は少し違った。細かい反応はわからないが、私に届いたのは意外な反応だった。
たとえば、キリスト教の新聞、クリスチャントゥデイで書評で取り上げてくれた。クリスチャンのみなさんも読まれてはいかがですか、という紹介である。
また、ありがたい指摘である、といって、対談をしてほしいという牧師さんからの依頼もあった。
少々驚いた。
と同時に、彼らの大変な状況も想像できた。
日本のキリスト教信者は全人口の1%足らずだと言われる。
かなりマイナーな存在だ。国内においてマイナーでもあるし、また「キリスト教信者の割合」の世界ランキングでもとてもマイナーである(キリスト教信者の少なさでは世界有数の国であるらしい)。
私はべつだんそれでいいとおもうが、1%たらずの日本人信者は、いろいろともどかしいのだろう。
想像するに、彼ら彼女らは、日本人の無関心さに困っているのだ。
日本人は、(自分たちはあまり気がついていないようだが)キリスト教に対して徹底的に無関心である。何の興味も持っていない。
「洒落た感じ」という気分でしか捉えていない。
それは、ミッション系のお嬢様学校、と聞くと、なんかいいねえ、という好意的だが中身を何も想像していない態度などによく現れている。
信者ではないけどキリスト教教会で結婚式を挙げたいとか、立教、上智、青学って聞くと、早稲田や明治や日本大学よりお洒落な学生が多そうに想像してしまう(早明日のみんなごめんなさい)。
キリスト教の外側だけを眺めて微笑んでいる。ただの「西洋はなんかかっこいい」という大雑把な憧れを、キリスト教に投影しているにすぎない。
これが、キリスト教信者にすれば、キリスト教を無視しているように感じるのだろう。クリスマスの新書を書き、日本のキリスト教の歴史を調べたあとだと、そうおもう。
いまの日本人はキリスト教に対して敵意は持っていない。どっちかというと軽い好意を持っている。道ですれ違ったら軽く会釈はする。でも、何を考えているのか、どういう人なのか、まったく関心を示さない。
国民の約99%がそういう態度をとっている。