橫須賀散策

京急本線橫須賀中央駅で下車、昨日で懲りていたので、駅横のモアーズシティというビルで昼食を取る。海軍カレーの店がなかったのは残念であった。橫須賀は坂道の町である。文化会館、博物館、中央公園への道は長くはないがかなりの急坂である。文化会館では何か催しがあるらしく門前を人の列が取り巻いていた。
最初の目的地の橫須賀市自然・人文博物館は人影少なく落ち着いた雰囲気であった。入り口にナウマン象の全骨格標本があった。最近飼育中のアフリカ象がマルミミ象と判定された事件があった。マルミミ象は小さく身長2mほどと聞く。ナウマン象はだいたいそれに近い。三浦半島を代表する昆虫の1つにモンキアゲハがあがっていた。九州在住の時はごく当たり前に見たアゲハ蝶だったが、関東ではあまり見たことがない。この夏に我が家の近くで目にして驚いたことを覚えている。本HP に紹介しているが、千葉県立中央博物館には常設展の中に、ウラナミシジミではなかったかと思うが、毎年暖かくなると北上するシジミ蝶の展示がしてあった。モンキアゲハも陽気とともに北上しているのかもしれない。あの飛翔力はなかなかのもので、昔々自然の驚異とか言った本の中に、瀬戸内海を大挙して越えてゆく蝶の群れの写真を見たことがある。でも食草は南方の限られた位置なのだろう。食草も温暖化で北上していようが、羽がないからゆっくりゆっくりなのだ。
玄関前の庭に小栗忠順と栗本鋤雲の胸像があった。ともに幕末に幕府の重職にあった実力者で、橫須賀製鉄所を創設したという。その詳細を館内に展示している。打ち込まれた杭の実物、工業用水は7kmも遠くから土管で運んだ。明治30年でも水売りの水屋がいたというから、水に恵まれない土地なのである。お抱えフランス人技師の官舎の写真がある。私は東北の横手でお雇い英語教師のための木造洋館を見たことがある。現在も現役で使われている二階建てであった。彼らは本土の生活をそっくり日本に持ち込めないと来てくれなかったのだろう。それは致し方がないとして、お雇いで来た外人の記念館を建て、強引に開国を迫った砲艦外交の主に対しても記念館とはどういう「友愛」精神なのか、少々劣等感が過ぎるように思う。近年では日本から技術指導に出かけるケースが多くなった。でも我ら技術者に対するこんな厚遇を聞いたことがない。それどころか、「目立たぬように」「トラブルを避けて」と相手文化への遠慮を言い渡されて、現地に赴いた人が多かった。展示からは、あのころの近代化への涙ぐましい努力が伝わってくる。なお製鉄所とは造船所のことである。当時の町の模型が置かれていた。
ペリー来航のコーナーにペリーが食べた日本側歓迎宴のメニューがあった。動物性食品を眺める。鯛、イカ、鴨、白魚、ヒラメ、蒲鉾、アワビ、糸赤貝、エビなどがあるが、牛や豚、イノシシ、鹿などの獣肉は出てこない。宇和島市立伊達博物館で見た朝鮮通信使供応膳にあった鶴の肉はなかった。現在の中国の対日姿勢よりももっと尊大な態度で幕府に要求を出した使節団であるから、私は好意を持っていないが、彼らが作った報告書には感心した。何度か見ていると思うが、その分厚さと出来る限りの客観的で精密な描写に対してである。橫須賀は元々漁村であった。実寸大の住まい、漁労具の一式、手こぎ式の漁船など、地引き網漁法を示す模型、それから魚油採油手工業設備と写真など、東京湾を挟んで対岸にいる我々にもなじみ深い風景が並ぶ。千葉県館山市に県立の安房博物館があって、漁労専門の展示がしてあった。中央博物館にも採油や漁法のジオラマがある。ほとんど地理的に同じ場所にいるのだから、展示が大同小異になるのは仕方がないと思う一方で「無駄」をも感じている。ほぼ1時間半ほどの見学であった。
中央公園に登る。昔陸軍の砲台があったという。残しておけばいいモニュメントであったろうが、敗戦で何もかも撤去し平和な姿に作り替えたという。良くても悪くても歴史は覆らない。記念品は記念品として保存すべきである。人影はまばら。空に鷹が舞う。三笠公園を目指す。そこまで20分ほどだったろう。アメリカ海軍の基地に近い。だからアメリカ人に多く出会う。平服だが水兵である。公園近くに帆船の日本丸のマストを模したモニュメントがあった。「三笠」の横に行進曲「軍艦」の碑が建っている。作曲は海軍軍楽隊長であった人という。
記念館「三笠」に入る。観覧料500円。本日のメインイベントである。観覧券に排水量15千トンあまりとある。132X23m。日頃見慣れているクルーズ船に比べてずいぶんと小さい。1万排水トンに達しないイージス艦ほどの外見もない。海フェスタ横浜の見学会で見た「きりしま」は7500トンの161X21mだった。重量比から言えば三笠は喫水が深いはずである。でも書いてない。きりしまは12mだった。速度は三笠が18ノット、きりしまが30ノット。見学コースは上甲板と中甲板、および艦橋である。主砲、副砲、補助砲、上甲板構造物、無線電信室、司令長官室、艦長室、各士官室、会議室等は日本海海戦当時の姿に復元してあるが、その他の内装は改装されて展示室となっている。米軍に占領されて武装解除になった無残な姿の写真があった。トルファルガー海戦で、スペイン・フランスの無敵艦隊を破ったイギリス・ネルソン提督の乗艦ヴィクトリー号は、今も現役艦として記念保存されているという。入ったことがないので知らないが、海戦当時のままであろう。三笠も展示室や講堂(兵員室や治療室であったらしい)などにスペースを作らず、戦闘当時の姿に復元してもらいたいものだ。
講堂で10分ほどの日本海海戦の映画を見た。主力艦の戦いは30分でケリが付いたという。東郷元帥と軍楽隊との関わりが面白かった。阿川弘之の「軍艦長門の生涯」にあったと思うが、艦長クラス以上の食事になると、軍楽隊がワルツなどの快い響きを奏でる。開戦直前にはさすがに軍楽隊も戦備に就く。隊員が最後の演奏を元帥に懇願して入れられるところは、エピソードとして実際にあったことなのであろうか。水兵が岸壁から艦上に石炭袋を人力で運ぶ姿も面白かった。梯子に水兵が連なり上方に袋を順送りする。甲板には石炭穴が石炭庫に繋がっているのを見学の時に見ることが出来た。水はどうしたのだろう。水管のスケーリングを避けるために蒸留水か軟水を貯蔵していったのか。このスケーリングは大切で、海戦で水を切らしたロシア艦が、遁走中やむなく海水を使い、水管の熱伝導を悪化させたために速度が落ち、日本艦に捕獲される事件が起こっている。艦内に設計図があったのでチェックしたが、水回りははっきりしなかった。蒸気機関車のように水が再循環しないと遠征のロシア艦隊は水補給に苦労するはずだ。三笠の展示が軍事史ばかりに重点があるのは残念である。
ノビコフ=プリボイの「バルチック艦隊の遠征」「バルチック艦隊の潰滅」は読んだし、司馬遼太郎の「坂の上の雲」も読んだ。戦後の学校歴史では遠慮気味にしか取り上げていなかったが、戦中は歴史だけでなく国語に音楽に日露戦争は大いに取り上げられた。著名な東郷元帥の艦上の勇姿を描いた絵画でもかなり詳細に記憶している。館内の展示資料の粗筋は我々年層にはほぼ常識的に頭に入っている。三笠保存会が主張するように、日本海海戦の勝利は当時の西欧列強に抑圧され植民地化されていたアジア諸国の国民に希望を灯し、独立への意欲付けをしたことは疑いのない事実である。だが、植民地的存在にされていた諸国の、独立後の日露戦役に対する評価は多分微妙であり、時代とともに変遷するであろう。上記プリボイの歴史小説はスターリン時代に書かれたが、原因となったロシアの中国侵略についてはなんの反省も書かれていなかった。欧米を含めての、たとえば教科書での取り上げ方に関して、資料の整備を勧めたい。
艦橋に上がる。3段になっている。最上段のオープンデッキの手すり付近に防弾嚢を取り付けて元帥が戦闘指揮をしたことは有名だ。第2段は多分普通航海用だ。窓も大きいし、壁も薄い。第3段は戦闘用である。鉄の装甲に取り囲まれたトーチカで、出入り口すら直撃で殺傷を受けないように2重構造になっている。館長とか航海長は開戦時はここにいたのだろうか。幹部全員がオープンデッキでは無謀である。6500mの距離で打ち合ったと言うから、敵艦からも司令長官が豆粒ほどでも見えたと思う。旗艦三笠は集中砲火を浴び、被弾数は日本艦全部の6-7割に達したという。東郷ターンは危ない戦術であった。船尾側にもトーチカ型の観測室がある。観測室と書いたが、本当は何に使ったのか知らない。
艦を出て艦首の菊の御紋章を眺める。作り直してある。東郷元帥の立像を見、JR橫須賀駅へ歩く。海上自衛隊隊員を見かける。米軍基地と隣り合わせに護衛艦の基地がある。橫須賀芸術劇場あたりはなかなかの近代的風景である。

('09/10/02)