沖縄戦・激戦の地を歩く、その1
沖縄戦・激戦の地を歩く
2010年にこの文章をブログにアップしたが、ダウンロードしないと全文が読めない形式だったので、そのまま全文が読める形でアップする。
沖縄県シルバー人材センター連合が、観光ガイド養成のため開いた講習を受講した。太平洋戦争で、唯一激しい地上戦がたたかわれ、県民の4人に1人が犠牲になるという未曽有の受難の地である沖縄では、県外から訪れる観光客を案内するのに、沖縄戦の戦跡はぜひ見てほしい場所である。それだけに沖縄県民自身がガイドとして、沖縄戦の実相と戦跡をよく学ぶことをとっても重視している。だから、合計11回にわたる講習のなかで、4回は沖縄戦にかんする講習であり、とくに激戦の地を現地で実習するフィールドワークは、南部と中部の2回にわたり、実施した。沖縄に住んで3年を超え、いくつか戦跡を見たけれども、まだ有名な場所しか見ていない。今回、なかなか自分だけでは見学にも行けないような戦跡にも、案内してもらえたのは、とても貴重な体験だった。まだまだ沖縄戦の実相や戦跡の現状も、県外では十分知られていない。そこで、自分で歩いた戦跡をいくつか紹介したい。
住民が遺骨収集して建てた南北乃塔
「沖縄戦のなによりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上回っているところにあり、その数は10数万におよびました」。県立平和資料館・設立理念にはこう記されている。県民の犠牲がとくに多かったのは南部だ。中部の読谷から北谷にかけての海岸に1945年4月1日、上陸した米軍が、沖縄守備軍(第32軍)の司令部のあった那覇市首里に迫ると、第32軍は司令部を摩文仁に移した。中南部に住む県民も、南部にこぞって避難したからだ。
もし、首里陥落の5月末に日本軍がいさぎよく降伏していれば、どんなにたくさんの県民の命が救われたことだろう。しかし、現実には米軍の本土への攻撃を遅らせる時間稼ぎの「捨て石作戦」のために、日本軍は南部に撤退し、県民はさらに地獄に突き落とされたのだった。避難していたガマ(洞窟)から日本軍に追い出され砲弾に撃たれる、軍民雑居のもとで、スパイ扱いされたり、ガマからの追い出しや食糧強奪に少しでも抵抗すれば虐殺される。さらには集団自決に追いやられる。数知れない悲劇が生まれた。
2008年12月10日、沖縄平和学習ガイド友の会会長の大城藤六さん(78歳)の案内で糸満市を中心に戦跡を巡った。大城さんは、沖縄戦の体験者であり、元校長先生や糸満市教育長も経験した人だ。最初に行ったのは糸満市の真栄平(まえひら)。「このあたりは日本軍の山部隊の陣地があり当時800人くらいいた。向こうに見える海は米軍艦がたくさんつながっていて、もう海が見えないほどだった。6月19日にはここまで米軍が進攻してきた。日本軍による虐殺事件で7,8人やられたこともあります」。
ここに「南北之塔」が建っている。真栄平では住民の6割がなくなり、兵士と合わせて6000人の犠牲を出した激戦地だという。戦後1946年、収容所から戻ってきた住民は家を建てる前から遺骨収集をしたそうで、ここに納骨堂を建て、66年に改築するさい、現在の塔を建立したという。
ちょっと複雑なのは、この塔がいまアイヌ兵士を祀っていると誤解され、アイヌの人々が定期的に来て「イチャルパ」(供養祭)を催し、祈り、踊りなどしていることだという。塔の片面に「キムンウタリ」と彫られている。アイヌ語で「山の仲間」という意味だそうだ。大城さんによると、山部隊にアイヌ兵士が一人いて、戦後20数年ぶりに沖縄を訪ねて来た際、塔を建てることを知り250ドル(当時は大金だった)寄付をしたので、片側のデザインを任せたら、この字を勝手に彫ったという。ところが、その後、アイヌ兵士と住民の交流があり、「アイヌの墓」があるという話になって伝わり、本になった(橋本進『南北の塔 アイヌ兵士と沖縄戦の物語』)。そして、あたかもこの塔が「アイヌの墓」であるかのような誤解が生まれたという。「アイヌの墓というのはまったく嘘なんです」と大城さんは言う。誤解をもとにして祀りを行うのはアイヌの人にとっても不本意だろう。こんな問題によって戦争で被害を受けた人々の対立が生まれるのは不幸なことだ。はやく互いに納得できる形で解決するように願うばかりだ。
塔の横には「山三四七八部隊故将兵霊」という第二四師団の慰霊碑がある。「山」というのは日本軍の秘匿のために、この名称で呼ばれた。他の部隊にも「石部隊」「武部隊」などの別称がある。「この碑は住民に相談なしに勝手に作ったんですよ。地代も払っていない」と大城さんはにがにがしげに話す。塔の裏にはガマがあり、そのそばにも軍関係の個人墓、碑が建っている。これも勝手に作られたと言う。
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