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2018-03-09

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・ざっくりと人類50万年の歴史とか言っちゃうけれど、
 それだけ長い間、ずっとやってきたことがある。
 食うこと、こどもをつくること、死ぬこと。
 食うためのさまざまな行動があった。
 こどもをつくり育てるためにいろんなことをした。
 死ぬことについては、そのためになにをする
 ということじゃないけれど、たぶん死は、
 「これはなんなんだ?」という永遠の問いを生んだ。

 人間は進化してきたとか、進歩してきたとか、
 わりと気楽に考えられているかもしれないけれど、
 それは使う道具やら、生きていくための方法が、
 便利になったり広まったりしてきたというだけで、
 人間そのものが進化しているわけでもないだろう。

 人間は、じぶんを生かすために食う。
 じぶんのような人間を残すことをする。
 そしてどうしても死んでしまう。
 することは、だいたい以上に尽きるとも言える。

 あれやこれやが、どれだけ変わったか言いたがるけれど、
 いろいろ発見したり発明したりの積み重ねについては、
 すばらしいことだと敬意を感じることもあるけれど、
 それは、「ものすごい付け焼き刃」である。
 50万年ずっとやってきて、これからも続けることは、
 そうそう変わるものではないだろう。

 だとすれは、ほんとうにしつこく深く考えるべきは、
 「生きるにつながる食うこと」とその周辺について、
 「人間を残すにつらなる番うこと」の関係について、
 「必ず死を迎えること」の謎について、
 この三つだけでいいのではないだろうか。 
 いっしょにめしを食うことは、どういうことか。
 恋をすることのうれしさと怖さ。
 死ぬことは生きていることと矛盾しているのか。
 なんでもいい、このへんのことをぐるぐる思い考える。
 50万年もずっと先祖たちがやってきたことだけに、
 考えてきたことの質も量も、膨大にある。
 そして、それがじぶんの身体に刻まれていたりもする。
 葬式のお経も、猥談も、食いしん坊話も資料である。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
機能や目的のない文章を、もっと読んだり語ったりしよう。


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