“半年間、遺体を野ざらし”はなかった? 薩長の「埋葬禁止令」を覆す新史料

“半年間、遺体を野ざらし”はなかった? 薩長の「埋葬禁止令」を覆す新史料

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  • 更新日:2018/03/08

戊辰戦争で亡くなった会津藩士の埋葬について記された「戦死屍取仕末金銭入用帳」(写真:会津若松市提供)

今も会津に渦巻く、150年前の怨念。最大の要因は、官軍の「埋葬禁止」にあった。しかし、最近、「定説」を覆す新史料の発見があった。

*  *  *

旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。藩校の学びを伝える博物館「会津藩校日新館」の館長、宗像精(むなかたただし)さん(85)は、こう切り出した。

「薩長憎しの理由は、西軍が家財道具を分捕ったり、若い娘を略奪したり、そういう悪行の数々があるからです」

元中学校教師で市教育長も務めた宗像さんによれば、戦前の小学6年の国定教科書には会津藩は薩長に「てむかった」と書かれていた。それはとりも直さず、会津藩は「朝敵」「賊軍」だと言っているようなもの。それを子どもたちが暗記させられたかと思うと、屈辱的な思いは消えない。宗像さんはいまだ「官軍」とは言わず「西軍」と言う。

「官軍といっちまうと、こっちは賊軍になっちまいます」

賊軍とは、政府軍の「官軍」に対する呼び方だ。

会津地方で「戦後」といえば太平洋戦争でなく、戊辰戦争(1868~69年)後のことを指す。賊軍の汚名を着せられ、戊辰戦争での敗戦によって会津藩士は苦難の道を歩むことになるからだ。政府は今年、「明治150年」を唱え、祝賀ムードを全国に演出しようとしている。しかし、会津若松市内には「維新」ではなく、「戊辰150周年」ののぼり旗が立つ。

「逆賊の汚名を着せられた薩長への恨みはいまだにあります」

市内で働く女性(40)は言う。同じ怨念を抱いている人たちが、本州「さいはての地」にもいる。

「薩長への恨みはいまだに消えません」

青森県大間町。この町の小さな商店街にある「斗南(となみ)藩資料館」の館長、木村重忠(しげただ)さん(78)は、静かな口調でこう話す。

館名が示す通り、斗南藩士の末裔だ。斗南藩は1869(明治2)年、戊辰戦争に敗れた会津藩士らが家名再興を許され、立ち上げた藩だ。最後の会津藩主・松平容保(かたもり)の長男で生後5カ月の容大(かたはる)を藩主に担いで起こした。71年までに、会津藩士とその家族1万7300人余が、下北半島に移住した。

木村さんは斗南藩で「史生(しじょう)」(記録係)だった木村重孝(しげたか)の曽孫(ひまご)に当たる。会津藩では会計係を務めていた重孝は70年、妻と4人の子どもたちと一緒に、新潟港から蒸気船「ヤンシー号」に乗ってこの地に来た。

「みんな裸同然でここに来て、どうやって飯を食っていくか大変だったようです」(木村さん)

下北半島は昔から寒冷の地で、農業の生産性は低い。当時、土地は枯れて米はほとんど取れず、死んだ犬肉の塩煮を食べた人もいた。寒さと栄養不足で、多くの移住者が亡くなった……。

悲惨な苦痛の歴史を後世に残すべく2005年、木村さんは150万円近くをかけ、自宅2階を改装し私設の「斗南藩資料館」を開設した。館内には、容保直筆の「向陽處(こうようじょ)」の掛け軸や、ヤンシー号の絵、廃藩置県後に斗南藩士が手放した品など貴重な資料が展示されている。館を訪れた人に、斗南藩の歴史を丁寧に説明する木村さんの薩長への遺恨は深い。

「いまNHKでやっている『西郷(せご)どん』ですか? 薩摩が舞台のドラマなんて全然見る気しませんよ」

この「薩長憎し」の風土を育んだ最たる要因の一つとされてきたのが、戊辰戦争時の「埋葬禁止説」とされる。新政府軍が遺体の埋葬を禁じたため、戊辰戦争で戦死した会津藩士の遺体が半年間、野ざらしにされた、というもの。しかし、この「定説」を覆す新史料が16年12月に見つかっている。詳細をつづった『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実』(歴史春秋社)の著者で、新史料を発見した会津若松市史研究会の野口信一副会長(68)は言う。

「地元の反応は『初めて知った』『驚いた』という声が大部分でした。長州とのわだかまりの最大の障壁が取り除かれたのは大きな意義がある、と自負しています」

新政府軍の汚名をそそぐ「確たる証拠」が残されていたのは、戦死者の埋葬や金銭支払いを記録した「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」。地元在住の会津藩士の子孫が1981年、若松城天守閣郷土博物館(会津若松市)に寄贈した史料の一部だ。市の委託を受けた同研究会が、目録の編纂(へんさん)中に発見した。

この史料によると、明治新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令。翌3~17日、会津藩士4人が指揮する形で567人の戦死者の遺体を計64カ所に埋葬した。埋葬にかかった経費は74両(現在の相場で約450万円)。のべ384人が動員され、1人当たり1日2朱(同7500円)を支給した。家紋などが入った遺体発見時の服装も詳述され、山本八重の父・山本権八の遺体や、白虎隊士と思われる遺体も記録されていた。山本八重は、13年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬はるかさんが主演した女傑だ。

ではなぜ、埋葬禁止が「定説化」したのか。野口氏はこう説明する。

「会津戦争から半年後の1869年2月に、城下の阿弥陀寺に藩士たちの遺体を改葬したことが、『半年間も放置した』と誤認される要因につながったと思われます」

埋葬禁止が流布したのは1960年代以降だと、野口氏は指摘する。

「この頃から敗者である会津側から見た歴史が注目されるようになり、阿弥陀寺への改葬に尽力した会津藩士の町野主水の奮闘を伝える小説やエッセーなどで盛んに『埋葬禁止説』が現出するようになりました。しかしこれらは、歴史的資料に裏付けられたものではありません」

埋葬禁止の浸透と相まって、実直な会津人気質を長州への歴史的怨念と結び付けて「会津の頑固」と称し、これが会津観光のPRにも使われるようになった。こうした会津のイメージが他地域にも広まり、会津人自身の思考や振る舞いを縛っていった面もあると野口氏は解説する。

(編集部・野村昌二、渡辺豪)

※AERA 2018年3月12日号

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