どうも、「世の中取扱説明書」です。
日本の教育改革をフィクサー風(フィクサーとは黒幕の意味)に語ってみようと思います。
さて教育を語るには世の中をまず熟知する必要があります。
世の中を熟知してこそ世の中で活躍できる人材育成という視点から語ることができるからです。
シリーズの記事を読むことで得られるメリット。
1 日本の教育改革の全貌を知ることができる。
2 有能な社会人とはどのような人材か?がわかり、社会人になる際に非常に役立つ。
ターゲット読者。
1 子供を持つ親御さん。
2 高校生、大学生、社会人。
では世の中を分析してみましょう。
PART5です。
目次。
2 世の中のその他の分類視点。(G型とL型。マクロ経済とミクロ経済)
3 未来と現状から逆算した教育改革が大事。
4 未来を担う子どもたちが身につけるべきスキルや力。
5 教育改革の見取り図(全体図)を作るために必要な視点。
日本の教育改革の見取り図(全体図)を作るための必須な視点がその執筆者は「全ての国民の職業や体験や能力などを体験できない」ということを認識している点です。
「数え上げるだけでも、医療系の全仕事、スポーツ系の全仕事、法律系の全仕事、金融系の全仕事、コンサル系の全仕事、IT系の全仕事など職業は果てしなくあり、しかも一流レベルに到達するには長年の年月がかかる」ことから、1人の人間が全ての職業を体験することは不可能です。
そう考えると、教育改革の全体図(見取り図)を作るには現場からの情報や有力者や専門家からの伝聞がかならず入るのです。
伝聞ということは執筆者が全て直に経験したことではありません。
ですがそれは「全ての国民の職業や体験や能力などを体験できない」という構造上の仕方ない問題なのです。
よく大学受験や社会人の経験もないのに教育改革の見取り図(全体図)が作れるのか?という指摘がありますが、そうなったらノンフィクションライターの仕事を否定することになりますし、そもそも先ほど挙げた構造的欠陥があることをわかっていない方の指摘だと思います。
ノンフィクションライターは取材によって本を書きます。(経験していないことも多いでしょう。ルポは除く)
経験者から聞いて、その経験者からの情報が正しければもはや教育改革の意思決定において問題はないのです。(その執筆者が経験していなくてもです)
以下の動画でイチローはこう述べています。「名言「僕が読書をしない理由」というタイトル動画です。
簡単に要約します。
本は何かのスタンスや生き方を問いかけてきて、答えも提示してくるのですがイチローはその本を読んで何となく共感し、身につけた気になるのが嫌だから読書をしないと言います。
本の執筆者の生き方であってイチローの生き方ではありません。
イチローは狭い野球の世界で自分なりに経験したことが「自分の言葉」であり、「野球から自分で本当に経験したことを語りたい」ということです。以上、ここまで。
いきなり言いますが、この視点は教育改革の見取り図(全体図)や経営者には通用しません。
何回も言いますが「誰も全ての職業や体験や能力など体験できない」からです。
また経営者も現場の全て(従業員の体験含む)を体験できません。
つまり、「自分が直接体験していない伝聞や助言からの意思決定をしないといけない」のです。
またイチローの視点が極端になって「自分が経験したこと以外信じない」となると危険です。
人生には限りがあり自分では経験してない、できなかったことなど腐るほどあるからです。
そうなると「自分で経験したこと以外は信じない」という視点の人は他人への理解がなくなります。(そういう視点や経験もあるよねと認めないのです)
さらに言うと首相にせよ経営者にせよ伝聞がかなり入りますが、その現場や助言者からの伝聞はその人たちのポジショントークが入り込む余地があるという点が問題です。
現場が自分たちを楽にさせるために上に嘘をつくのです。
伝聞での意思決定は上の人ほど不可欠ですが、その伝聞が当てにならないときがあるのです。
正しい現場からの伝聞(知識や情報や体験など)を上は取捨選択し、全体図(見取り図)を作らなければなりません。
話を戻しますが、教育改革の全体図(見取り図)を作るには私の思想や手法がないと作れないのです。
「「資質・能力」と学びのメカニズム」という上智大学の教授の本を読みましたが、正直学者が教育改革について全体図(見取り図)を作るのは非常に危険だと思いました。
なぜなら社会人目線が抜けているからです。
私は以下の記事でも書きましたが、主に民間の社会人という逆算思考から教育改革を作るべきだと述べました。
そうなると学者なら大量の民間に関する本を読んだり、民間の経験者からのかなりの意見を聞かないといけないのです。
しかし、どうも学者はその逆算思考が理解できず、大学内の狭い視野(または教養人目線)だけから教育を語っている気がしてならないのです。
私は民間のビジネス書を大量に読み、他者を想像できる感覚的能力がある上に民間の社会人の意見も聞いているので、教育改革の全体図(見取り図)の骨格を作れたと思っています。
本当は現場の教師も大学からそのまま直行で教師になるのではなく、民間の社会人を経験してから教師になった方がいいのです。
そのほうが民間をある程度知った上で子どもたちに教えることができます。(単なる科目の授業を教えるだけの役割じゃなくなるのです)
また民間の人に関与してもらって教育改革を練った方がいいです。(民間の社会人になる人が大半ですからね)
「学者や官僚や研究者を育てる場所」が一流大学というなら、それは大学人が一番熟知していますから結構なことですが、大半が民間の社会人になるのにそのポジションから大学構想を考えるというのはずれているように感じます。
ともかく、教育改革を語るにはどのような哲学や知識や考え方が必要なのかを述べてきました。
この思想なしに教育改革を語るとおかしなことになります。
「誰も全ての職業や体験や能力など体験できない」という考えの重要性の認知や「自分が経験したこと以外信じない」という考えの危険性について認知した上で教育を語らないとですね。
PART6へ続きます。