mizzyと申します。フリーランスのソフトウェアエンジニアで、ServerspecというOSS(オープンソースソフトウェア)の開発者として少しだけ知られています。
私の好きな言葉に「Openness is our driver for excellence(オープンさは卓越性の原動力)」というものがあります。これは元々、ある海外の地方自治体に関するコラムのタイトルにあった言葉です。
自分自身の経歴を振り返ってみると今のところ満足なキャリアを築けており、これはひとえにOpennessがdriverになった結果だと考えています。このコラムでは、Openness(オープンさ)が私のキャリア形成にどのような影響を与えたのかを振り返ってみたいと思います。
小学〜中学時代(1985〜1990年/10歳〜15歳)
私のソフトウェアエンジニアとしてのキャリアの原点は、小学生の頃にパソコンを手に入れたことです。確か小学5年生、1985年頃のことだったと思います。機種はNEC PC-6001mkIIでした。プログラミングに対する興味もあったのですが、それ以上にゲームがやりたい、という思いの方が強かったです。
とはいえ、ゲームを買うお金がなかったので、マイコンBASICマガジンのプログラムコーナーに投稿されたゲームプログラムを入力して遊んでいました。また、入力したゲームで遊ぶだけではなく、コードを修正してキャラクターの移動速度を上げたり、スコアを稼ぎやすくしたり、無敵にしたり、といったことを通じて、プログラミングを覚えていきました。
現在IT業界にいる私と年齢が近い方は、同じような経験をされた方が多いのではないでしょうか。
オープンなプログラムに触れるという原体験はここから始まっています。
大学時代(1993年〜1997年/18歳〜22歳)
高校時代は事情によりパソコンから離れていました。
高校卒業後の進路を決める際に、大学へ行くことは決めていたものの、特にやりたいことがなかったので、受験科目が少なくて楽だし、就職時に潰しが利きそう、という理由で、近くにある大学の経済学部へ進みました。
3年からゼミが始まったのですが、その直前、2年の時に参加したゼミの卒論発表会で、先輩がWebに関する研究発表をしていて、そういったものがあることを初めて知りました。1995年頃ですね。
「お、なんだこれ、面白そう」と思ったところ、ゼミの同期が既にネットサーフィンしていたり、自分のウェブサイトをつくったりしていたので、ブラウザの使い方や、ウェブサイトのつくり方を教えてもらったり、ゼミのWebサーバーをその同期と一緒に管理したり、といった形で、再びコンピューターに触れることになり、インターネットにも接するようになりました。
大学では日立のワークステーションを使っていたのですが、家でも同じような環境をつくりたい、と思い、PC/AT互換機を購入し、Linuxをインストールして遊んでいました。ディストリビューションはSlackwareでした。そして、片っ端からフリーソフトウェアをダウンロードし、コンパイルして動かしてみる、といったことをやっていました。
当時はOSSやFLOSSといった言葉はなく、フリーソフトウェアやパブリックドメインソフトウェアなどと呼ばれていましたが、そういったものに触れはじめたのがこの頃でした。
SIerへの就職(1997年〜2004年/22歳〜29歳)
特にやりたいことはないけど就職時に潰しが利きそう、という理由で経済学部に進んだわけですが、大学で再びコンピューターに触れ、インターネット面白い、という体験を得たことで、インターネットに関わる仕事がしたい、という思いが強くなり、大学卒業後の1997年4月にSIerに就職しました。
私が配属されたのは、企業へインターネットやサーバーの導入を行う部署で、その中でもNetscape社のブラウザやサーバー製品を担当するグループでした。こういったソフトウェアは、今でこそ当たり前のように使われていますが、当時は企業への導入はまだ始まったばかり、という段階でした。
製品はプロプライエタリなものでしたが、使われているプロトコルはHTTP、SMTP、POP3、IMAP4、LDAPなどオープンなものでした。これらのプロトコルに関する知識は、その後のキャリアでも役立っているので、オープンなプロトコルを実装したソフトウェアの担当部署に配属された、というのは、とても幸運なことだったと思います。
この会社の最終役員面接の時に、控え室にいた就活生の中で私だけが別室に呼ばれ、役員面接とは別に技術者との面接を受けました。そこで大学のゼミのWebサーバーを管理していることや、Linuxを触っていることなどを話しました。入社して配属されると、面接官だった技術者がその部署にいました。この面接の時から配属は決まっていたのかもしれません。
ですので、配属部署が良かったのは運だけではなく、学生時代からフリーソフトウェアに触れていたこと、それについて履歴書などでアピールしていたことがプラスに作用したのだと思います。
入社した当時はまだOSSという言葉はありませんでしたが、その翌年あたりから、マイクロソフトの内部文書であるハロウィーン文書が公開され話題になったり、オープンソースに関する論文「伽藍とバザール」が発表されたり、担当製品でもあったNetscapeのブラウザ製品のソースコードが公開されたりするなど、ビジネスの世界でOSSが徐々に存在感を増してきました。
プロプライエタリな製品にもOSSがバンドルされたり、OSSが担当製品の競合に位置づけられ、お客様から比較説明を求められたり、といった状況の中で、プライベートでOSSに触れていたことは役に立ちました。
別のSIerへ転職(2004年〜2006年/29歳〜31歳)
Netscape社はブラウザ部門がAOLへ、サーバー部門がSun Microsystemsへ買収されたものの、担当していたサーバー製品の開発や販売は継続していたので、そのまましばらくはサーバー製品の担当エンジニアとして仕事をしていました。
就職してから7年ほど経った頃、ずっと同じ仕事をしてきて飽きてきたな、と思ったのと、そろそろ課長になる頃合いだけど、自分が課長になってエンジニアリングから離れる姿が想像できないな、と考えていたタイミングで知り合いから声がかかり、別のSIerへと転職しました。2004年のことです。
転職してから担当していた製品は、オープンなプロトコルなどを使っていないプロプライエタリな製品で、製品の出来もお世辞にも良いと言えるようなものではありませんでした。ですが、立場上、これは良いモノです、と言ってお客様に売らないといけない。
そういった仕事に疑問を感じているなか、その製品の販促のために、幕張で行われている展示会に神奈川から始発で向かい、夜は会社に戻って製品の提案資料を作成して終電で帰宅、そしてまた次の日は始発で幕張へ、という、とても忙しい日が何日か続きました。
なぜ、自分が良いと思えない製品を売るためにこんなしんどい思いをしないといけないのか、と思い、まだ転職してから1年経っていないけど、また別の会社に転職しよう、と決意しました。
Web系企業へ転職(2006年〜2014年/31歳〜39歳)
1社目はオープンなプロトコルといえど製品はプロプライエタリ、2社目は完全にプロプライエタリな製品を担当していました。プロプライエタリな製品は、何か不具合等が発生した時にはベンダーに問い合わせをして待つしかなく、もどかしい思いをしていました。
また、2社目のSIerにいた頃、プライベートではSledgeに出会い、ウェブ開発おもしろい、と目覚め、ブログに技術情報を書いたり、CPANモジュールにパッチを送ったり、Blosxomのプラグインを書いて公開したりと、OSS活動っぽいことをしてました。
学生時代からOSSに触れていたこともあり、また、プロプライエタリな製品にもどかしい思いをしていたこともあったため、OSSでウェブ開発ができる仕事がしたい、と思い、2006年にpaperboy&co.(現・GMOペパボ)に転職しました。
ペパボへの転職を決めた直接のきっかけは、当時社長だった家入さんが、はてなブックマークの投げ銭機能で、自分の技術ブログに1000ポイントくれたことでした。
ペパボには開発者として入社したものの、1年ほどで技術責任者のポジションに就きました。これは入社前から技術情報をブログに書いたり、自作のプログラムを公開したり、といったオープンな活動をしており、それを家入さんが評価してくれていたことが大きいと思います。
また、ペパボはウェブサービス事業だけではなくホスティング事業も行っている会社ですので、SIer時代に培ったサーバーに関する技術や知識を高く買われた、という側面もあると思います。
ペパボで技術責任者になってからは、技術基盤の整備、新規サービス立ち上げやサービス大規模リニューアル時のアーキテクチャ設計、エンジニア評価制度の立ち上げや運用、エンジニアの採用活動など、いろいろやっていました。これらの活動については、できる限りオープンに、ブログで公開したり、外部で発表したりするようにしていました。
また、仕事で書いたコードも、オープンにできるものはできる限りOSSとして公開するようにしていました。その中のひとつがServerspecです。
このようなオープンな活動は、個人としては技術者としての自己ブランディングに役立ちました。また、ペパボ社員としては、会社の技術面や技術文化を外部に広く知らせることになり、技術者コミュニティ内でペパボという会社の存在感を高めることに役立ったと思います。
そしてフリーランスへ(2014年〜現在/39歳〜43歳)
ペパボには8年ほどいたのですが、2014年2月末で次の職が未定のまま去ることになりました。なので、2014年3月は職探しをしていたのですが、40歳手前での職探しも、それまでのオープンな活動により培った自己ブランディングと人脈により、スムーズに進んでいきました。
と言っても、最初からフリーランスになろうと思って活動していたわけではありません。正社員として就職する前提で活動していたのですが、入社しようと決めた会社側の都合で、半年間は業務委託契約でお互い様子見しませんか、と提案され、それを受け入れました。
その業務委託という立場が自分にとって割と居心地が良い、ということに気づき、そのまま正社員にはならずに業務委託を継続することにしました。なので、フリーランスになるぞ、と思ってなったわけではなく、いつの間にかフリーランスになっていた、というのが実情です。
その会社でサーバインフラ整備のお手伝いをしつつ、他の会社でミドルウェア開発をしたり、新しいOSSの研究開発をしたり、技術顧問をしたり、といった形で、フリーランスを続けてもうすぐ丸4年になります。
特に営業活動らしい活動はしておらず、たまにTwitterで仕事くれと呟くぐらいなのですが、これまでのオープンな活動で得られた知人から仕事を紹介してもらうことによって、今のところ仕事が途切れることなく、安定して収入を得ることができ、妻と5人の子供を養うことができています。基本的に自分のことを知ってくれている人から仕事を依頼されることが多いので、仕事内容や金額にミスマッチがなく、お互いに良い関係が築けています。
おわりに ― Opennessが私のキャリアに与えた影響
以上、Openness(オープンさ)が私のソフトウェアエンジニアとしてのキャリアに、どのような影響を与えたのかを振り返ってみました。ここで簡単に要約してみたいと思います。
- 就職と配属に役立った
- 学生時代からオープンなソフトウェアに触れていたことが、就職と配属に役立ちました。
- オープンな技術・プロトコルを仕事で学ぶことができた
- オープンな技術・プロトコルをベースに仕事ができる部署に配属され、そこでの経験をその後のキャリアでも活かすことができています。
- OSSで仕事ができる会社へ転職でき、責任あるポジションに就けた
- 仕事でオープンな技術・プロトコルを学んでいたことや、プライベートでオープンな活動をしていたことが、OSSで仕事ができる会社へ転職し、そこで技術責任者のポジションに就くことにつながりました。
- 所属会社の技術プレゼンス向上に役立った
- 所属会社の技術面や技術文化をオープンにすることで、技術者コミュニティ内での会社の存在感を高めることに役立ちました。
- エンジニアとしての自己ブランディングに役立った
- 現在フリーランスとして活動して収入が得られているのは、オープンに活動していたことが一番大きな要因だと思います。
私が社会人成り立ての頃と今とでは、OSSを取り巻く環境がまったく異なるので、私がしてきたことそのものは、今の若い人たちにはあまり参考にはならないかもしれません。ですが、オープンにすることによって得られるものがある、ということは、時代が変わっても真理であり続けると思います。
現在私は43歳ですが、この先もできる限りエンジニアとして生きていきたいと考えています。そのためにも、「Openness is our driver for excellence」という言葉を忘れずに、この先のキャリアを積み重ねていきたいと思います。
執筆者プロフィール
宮下 剛輔(みやした・ごうすけ)mizzy
@gosukenator