親ナチスのイギリス人部隊を創設した男
ジョン・アメリー(1912-1945)はイギリス・ロンドン出身。
エリートの家に育つも若くしてファシズム体制に心酔し、イギリスを出国して各地を放浪。反共イギリス人を組織してイギリス人による部隊を創設するという彼の構想に感銘を受けたヒトラーに受け入れられてドイツに移住。ナチスのプロパガンダに協力します。そしてイギリス人による反共軍団「セント・ジョージ・イギリス軍団」を創設し東部戦線で戦おうとしますが、人が全然集まらずに失敗。
その後北イタリアでムッソリーニのサロ共和国(イタリア社会共和国)にてプロパガンダ活動に当たるも、捕まって死刑となりました。
1. エリート一家の落ちこぼれ
ジョン・アメリーは1912年にロンドン・チェルシーの生まれ。父は保守党の国会議員レオ・アメリー。弟のユリアンも成長して保守党の下院議員になったというエリート一家です。
しかし兄ジョンは子どもの頃から何をやってもダメな劣等生。
父と同じくロンドンの名門ハーロー校に入学するも「素行不良につき」わずか1年で退学になってしまいました。寮長いはく「私が今まで出会った中でもっとも管理が難しい子ども」だったそうです。
ジョンは父と同じ道は進めないと悟り、映画プロダクションなど様々な会社を作りビジネスで成功しようと試みました。が、すべて失敗に終わりました。そのせいで20歳ですでに破産してしまいます。
にも関わらず、21歳の時にウナ・ウィングという名の元娼婦と結婚。
しかし生活費さえままならず、たびたび父親を訪ねてはカネを無心する有様でした。
2. ヨーロッパ放浪
優秀な父と弟に対する劣等感の裏返しか、ジョンはファシズムの思想に共鳴するようになっていきました。
1936年に再度の破産を宣告された後、ジョンはイギリスを離れて内戦中のスペインに渡り、フランコ将軍の元でイタリア人義勇軍の諜報責任者として活躍。名誉勲章を授与されます。この時、フランスのファシストであるジャック・ドリオとも親しくなっています。
内戦終結後は各地を放浪した後ヴィシー・フランスに住みますが、1942年にベルリンに講演に赴く際に、ドイツ人の担当者に「反共イギリス人の部隊を創設する」という構想を語りました。するとこの話がヒトラーの耳に届きます。ヒトラーは感銘を受け、ジョンを「国賓」として迎い入れたのでした。
チャンスを掴んだジョンは、「反ボリシェビキ・ヒトラー支持」をラジオで表明しました。
文明に対する罪が犯されている…我々の父親・水兵・そして帝国の遺産がイギリスの利益に奉仕する戦争によって破壊されるだけでなく、イギリスの同盟者スターリンは祖先の遺産の破壊だけを夢見ている…。
1942年末には、ジョンはイギリス人捕虜の中の反共思想で共感する者のみを集めた部隊を作り、東部戦線でドイツ軍と共に戦う構想をぶち上げました。彼の想定では5,500名ほどが反共の旗のもとに集うはずということで、ジョンは支援を求めてベルリンに赴き部隊創設のための許諾を求めました。
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3. 反共イギリス人部隊創設へ
大失敗したセント・ジョージ・イギリス軍団
1943年、ジョンは「セント・ジョージ・イギリス軍団」の創立を宣言。ドイツ当局にイギリス人捕虜収容所に出入りする許可を与えられ、捕虜たちに軍団に加入するように呼びかけました。
ジョンは「戦うのは母国イギリスではなく、ボリシェビキのソ連だから、祖国に弓を引くことにはならない」と説得するのですが、数ヶ月かけて応じたのはわずか2人。しかも1人は入隊前に辞めてしまい、軍団と名乗ることすらできない有様。
そうこうしているうちに、フランス人の愛人とどんちゃん騒ぎをしている際、愛人が泥酔しゲロを喉に詰まらせ死亡するというスキャンダルを起こしてしまう。
法廷に出廷し罪に問われることはなかったものの、これにより周囲からの信用を一気に失ってしまい、イギリス人の反共部隊のリーダーの座を辞退せざるを得なくなりました。
ジョンはドイツを去り、ムッソリーニがいる北イタリアのサロ共和国(イタリア社会共和国)に向かいました。
イギリス自由軍団の創設
ジョンがドイツから去った後、イギリス人による義勇軍創設の試みはSS(突撃隊)により継続されました。SSは名称を「イギリス自由軍団」に変更し、SSの部隊の一つと位置付けられました。
SSはイギリス人捕虜の中から、反ボリシェビキ・親国家社会主義の思想を有する男を探し志願を求めますが、状況は全く芳しくありませんでした。
長期間の募集にも関わらず、イギリス自由軍団に参加したメンバーはわずか20〜30人。
彼らはドレスデン近くの施設でSSによって約4ヶ月間訓練され、1945年3月に東部戦線で戦うために送られました。適切なイギリス人将校がいなかったので、ドイツ人のSS親衛隊大尉によって率いられました。
部隊は主に北欧出身の志願兵から成る第11SS義勇装甲擲弾兵師団(通称ノルトラント)に配属されますが、約300名の兵数の中でイギリス自由軍団は10%にも満たず、ほとんど活躍らしい活躍はしませんでした。
この部隊はベルリンの戦いまでドイツ軍と共に戦い、最後の2人は1945年5月2日に第121歩兵連隊のアメリカ軍に降伏。ドイツに協力したイギリス人がいた事実に、当時のイギリス人は大きなショックを受けたそうです。
4. 連合軍に捕まって処刑
北イタリアに渡ったジョンですが、彼はそこでファシストのプロパガンダのラジオ放送を続けていました。しかし、イタリア人パルチザンに捕まってイギリス人ジャーナリストのアラン・ウィッカーに引き渡され、イギリスに送還されてしまいます。
▽イタリア人パルチザンに捕まった直後のジョン・アメリー
ジョンは裁判にかけられ、彼が精神病であったという弁護士からの主張や、ジョンの弟ユリアンから戦争前にスペインの国籍を取得しているため叛逆ではないなどの主張がありますが、裁判長は反逆罪で有罪判決を下しました。公判の開始から判決まで、わずか8分間だったそうです。
ジョン・アメリーは1945年12月に絞首刑で死亡しました。33歳でした。
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まとめ
何というか、才能にも運にも恵まれなかった男の悲哀のようなものを感じます。
出来ないなら出来ないで、自分の力量を悟って大人しく暮らす道もあったと思うのですが、優秀な父と弟に比較されるのがコンプレックスだったのか、あるいはそれでも自分が「ひとかどの人物」であることを信じていたのか、名を上げるために一世一代の賭けに出たのです。
本人はそれしかないと思っていたのでしょうが、賭けた先がヤバすぎた。
それが分からなかったという時点で、その程度の人物だったということなのでしょうが。
参考サイト
"The British soldiers who fought for Germany in the world wars" HISTORY EXTRA
"British Volunteers in the Wehrmacht in WWII" Feldgrau.com