梅を見に百草園に行ってみた
そうだな、梅を見に行こうかなと思った。梅を見るのがそれほど好きというものでもないし、私も年を取ったのだけどこれは年寄り趣味というほどでもないつもり。それに梅の花を見るだけなら、けっこう東京各所にあったり、少し郊外に行けば梅の畑みたいなのもあり、そこは満開。逆にいうと、梅畑みたいじゃないほうがいい。それに梅というのは、花や香り以外に枝ぶりを見るものだし、と思い巡らしていて、そうだ、百草園に行こうと思った。随分昔に行ったことがあるように思うのだけど、しかと記憶にない。ついでに近くの高幡不動にも行こうかと思ったが、結局、そこは行かず。
百草園は梅の名所である。だから梅を見に行くという単純な話でもある。いろいろな梅もあって楽しい。場所は、東京の郊外、多摩地域にある。新宿からは京王線。京王八王子線の急行に乗って聖蹟桜ヶ丘駅で各駅停車に乗り換え一駅で、百草園駅に付く。すごくべたな駅名だから、駅から降りたらすぐ百草園だと思うと、いやいや、けっこう坂道を15分くらい登る。どこからとなく梅が香る。途中、「あと少し」とかいう表示があって、そこからがきつい。歩行に障害がある人だと、自動車とかでないと無理かな。
入場料は300円(子供100円)。園内は、新宿御苑とかに比べると小さい。そして全体が山なので園内も坂が多い。美しい庭園かというと、美観にもよるだろうけど、最近流行りの外国人旅行者にも人気スポットとはいかない。梅も、そんなにあるかなあという印象。ついて人をを見渡すと、子供連れ、老夫婦とかが目につく。
園内に入ると蝋梅が美しく、香りがいい。これ見るだけでも来たかいがあったな感。ミツマタやマンサクも美しい。この季節だけだろうか、梅の盆栽も展示されていて、これがなかなかにいい。他、園内には梅は当然多く、梅の香りが、やりすぎなくらいする。ただ、梅50種500本とも言われているほどの印象はない。
ところで百草園については、梅と言えば、百草園だろうくらいは東京人として知っていても、その由来とかはあまり関心なかったのだが、あらためて関心を持つと、いろいろ感慨深い。
百草園の由来がややこしい。江戸時代中期の享保年間に、小田原藩主大久保加賀守忠増の側室である寿昌院殿慈覚元長尼が、徳川家康の嫡男信康追悼のためにすでに戦火で失われていた松連寺を再興したことが百草園の由来らしいが、そのときに百草園という名前はない。この再興によって江戸時代の名所にはなった。というあたりで、なぜ江戸の名所?という疑問も湧く。江戸名所図会を見るに、「茂草 松連寺」とあるので、百草園の「百草」は、江戸時代には「茂草」だったのだろう。
疑問なのは、松連寺を再興というのだから、それ以前に松連寺があったはずだが、これがよくわからない。わかるのは、『吾妻鏡』にも記載されている、平安時代から鎌倉時代にかけてこの地にあったらしい大寺院・真慈悲寺である。真慈悲寺が廃寺となり、寿昌院の松連寺となったのか、それ以前に松連寺があったか、よくわからない。真慈悲寺については、比較的近年になって考古学調査でわかってきた面が大きいようだ。
百草園のある日野の歴史としてみると、日野市の解説にあるように、「平安時代後期、京から来た日奉宗頼が日野に土着して、西党と呼ばれる武士集団の祖となり」「西党日奉一族は多摩川沿いに展開」ということなのだろう。近所の高幡不動との関係はというと、「鎌倉時代後半から戦国期にかけては、高幡高麗氏の一族が高幡不動周辺を始めとする浅川流域を支配」とあるので、西党日奉の後に高麗氏ということのようだ。私は、高麗氏が古代からあったかなと、逆に思っていたので、へええと思う。
さて、江戸時代にはすでにこの地は名所なのだが、これが廃仏毀釈で廃寺になる。徹底的い壊したのだろうが、そのあたりの情報はあまりなさそう。余談になるが、明治時代の廃仏毀釈運動はまさに革命とも言えるくらい日本をめちゃくちゃにしたと思うが、それほど学校の歴史などでは重視されていない印象がある。また、廃仏毀釈が注視されても、その背景エートスについての研究もまだ十分ではないのかもしれないとも思う。この話はいずれということにしたいが、百草園がむしろ廃仏毀釈の遺物というのは今回感慨深かった。
現在の百草園だが、廃仏毀釈で壊滅した松連寺を現在の百草園として整備したのは、生糸貿易商の青木角蔵。彼は幕末横浜でイタリア人から生糸貿易を学び一財を成し、その財の一部をここに投じ、「百草園」として開放し、文人などを寄せ集めた。多磨霊園に眠る。
百草園の戦後だが、戦前にすでに荒廃していたらしく、私が生まれた昭和32年に京王電鉄が買い取り整備し、現在に至るということで、今は京王電鉄の所有らしい。
坂が多いのが難儀だが、のんびりとした地域なんでまたこの近辺を散歩してみたい。
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