2018-03-07

多様性」って実は格差を隠すものなんじゃないの?

花粉症でとてもつらい。

こんな中で就職活動をしなければいけないというのが、きつい。

もうやめようかという精神だ。

一時期、「多様性」とかい言葉が用いられた気がする。

自分が好きではない「経営」やら「ビジネス」やらと言った分野においてもだ。

障害者LGBTや女やら年寄り労働市場に突っ込もうという話だ。

恐らく、賃金の値上がりを抑えようということを綺麗な言葉にしたものだ。

ただ、それ以上に「多様性」というのはタチが悪い。

それは、別に障害者年寄りとか関係がない新卒市場においてもだろう。

幅広い人材採用しています企業アピールをしたとしよう。

その時に、見てくれのいい人間採用したり、見てくれが悪くてもスキルがある人間採用するとする。

そうすると、どうなるだろうか。

この会社は顔だけじゃないものを見るというようになるだろう。

しかし、顔が悪くてスキルもない人間はどうなるだろうか。

ただ、途方にくれるだけである

ここで、格差階級隠蔽が行われる。

顔採用をしたとしても、容姿という階級存在しないことになるのだ。

容姿が悪い人間絶対採用されないというわけではないために、「容姿以外を磨け」とかふざけたような話が出てきたりするのだ。

しかし、現実的スキル習得だって曖昧もので、どうにもならないことがある。

見てくれがいい人間スキルを身につけなくていいのだから、アホらしいったらありゃしない。

なんだかんだ、企業やら社会の「多様性」というもの格差やら階級曖昧にさせて孤立させやすくするものではないかと感じる。

まぁ、容姿が醜いと格差がハッキリしていても団結できないものだけど。

  • anond:20180307041239

    身体能力における多様性、美醜における多様性、知能における多様性が存在するほうが世の中は良く回るのよ 同じ価値のやつが何種類もあるようなのよりは、上下がはっきり決まってる...

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