墓碑に新たな花を添え、私は胸に手を当てた。
僅かに灰色を帯びた冬の青空を見知らぬ鳥が飛んでいく。
陽は差しているが、風は氷のように冷たい。
じきに雪の季節がやって来る。
(……)
オオカミの巨体に見合う墓碑を立てたにも関わらず、添えられた花の数は少なかった。
同情すべき事情があったとは言え、彼女――『ジェヴォーダンの獣』こと『はじまりの赤ずきん』はあまりにも多くの命を奪っている。とても被害者とは呼べない。
だが私は彼女の魂の安息を願った。
獣の姿に貶められた彼女にこれ以上の罰が必要だとは思えない。
『死は一切を終えるに非ず』
私は墓碑に刻まれた言葉を指でなぞった。
それから帽子を目深に被り、忌まわしい墓に背を向ける。
数羽の小鳥が墓碑の上に降り立ち、死者を慰めるかのように鳴いた。
小高い丘を下りきったところでザクロずきんに出くわした。
彼女は少し前から私を待っていたようだった。
「傷はもういいの?」
「ああ。もう大丈夫だ」
私は軽く片腕を回した。
顔と顎の傷にはたっぷりと膏薬を塗らなければならなかったが、手足の筋や骨に異常は無いようだった。
「……お墓、ね」
紅い粒を髪に散らしたザクロずきんは、少しだけ不満そうに丘の上を見上げていた。
胸元のカエルが金色の光を照り返す。
「必要なことだよ。どういった形であれ、決着をつけるというのは」
「魔女はどうするの?」
「堀の水を抜いて、骨を探す」
私とザクロずきんはどちらからともなく歩き出した。
初めは三歩分ほどの距離があったが、彼女の方から二歩分ほど距離を縮めて来た。
私の肩の高さで長い髪が揺れている。
「ザクロずきん。他の子たちはどうしてる?」
「どうしてるって……毎日会ってるでしょ」
ザクロずきんはふっと相好を崩した。
彼女がまだ二十にも満たない子供であることを私は久しぶりに思い出す。
「私の知らないところで何か苦しんでいるかも知れないだろう? オオカミが夢に出て眠れないとか、リンゴを食べられなくなったとか」
「んー……そういう話は聞かないかな」
「そうか。何かあったら教えてくれ。あんな夜の後だ。心が乱れて病気になったりするかも知れない」
「お父さんみたいなことを言うのね、あなた」
それを嫌がっているようには見えなかった。
丘を下ると右手には鬱蒼とした森が見えて来る。
腐臭を放つ沼や人骨の散らばる洞窟がいくつもあると噂される暗い森だ。
成長した赤ずきんの多くはあの不穏な森に住んでいるという。
反対側には背の低い草に囲まれたあの村がある。
村へ続く道を歩き始めると、ザクロずきんが袖を引いた。
「ねえ」
「ん?」
「魔女は七色の髪を持ってるって話……あれって本当なの?」
私は地下に刻まれていた文字を思い出した。
成長すると共に魔女の髪色は七色に変化したという。
焦げ茶色、黒、砂色などその色合いは様々だ。そのせいで私は魔女の特定にずいぶん時間が掛かってしまった。
ただ、召使はこうも書き残していた。
『ただ、瞳の色と小さな頃の髪色は誤魔化せません。たとえどんなに姿を変えても、お后様の瞳は明るい青です。髪は――――です』
「……金髪だ」
「金髪?」
「金髪が成長と共に色を変えるのはそう珍しいことじゃないらしい」
魔女は何度も若返りを繰り返していた。
その度に内外の様々な要素が変化した。
食事。運動量。睡眠時間。
日に当たる時間。心労や緊張の量。喜んだ数や怒った数。――もしかしたら、悲しんだ数も。
若返る度、魔女は必ず金髪の少女に姿を変えた。
だが成人するとその髪色は七色に変わった。
「それ、知ってたの?」
「いや、塔を出てから村長に教えてもらった」
村の敷地に入ると、枯れ草が靴の下でひしゃげた。
行き交う人々が私に軽く会釈をし、子供たちはどう反応すべきかを親に目で問うている。
まだよそ者の私は曖昧に目礼しながら進んだ。
工房の前で枝細工に精を出すルビーずきんを見つけた。
顔を上げた彼女は嬉しそうに私に駆け寄り、手を握る。
「猟師さん!」
「こんにちは。ルビーずきん」
私は彼女の頭を撫でようとしたが、そこには茨の冠が乗っていた。
仕方なく白い頬を撫でると、少女は嬉しそうに喉を鳴らす。
「これからバラずきんのところに行くけど、都合はつく?」
ザクロずきんがやや億劫そうに言葉を投げた。
ルビーずきんは少しだけ不満そうな表情を見せたが、素直に頷く。
「ご一緒します」
「ありがとう」
少女は大きな剣を吊るし、私とザクロずきんに従った。
途中、彼女は思い出したように「あの」と告げた。
「何だい?」
「……」
ルビーずきんはやや躊躇いがちにザクロずきんを見た。
見られた方は微かに目を細め、早足で私たちを追い抜く。
十分に距離を取ったところでルビーずきんが私を見上げた。
「塔の三階に石の像がありましたよね」
「ああ」
「カエデずきんにそっくりな像がありませんでしたか?」
「あったな」
「あれは……何だと思いますか?」
質問と言うより確認だった。
私は小さく頷く。
「カエデずきんの母親は魔女だ」
「……」
特段、驚くようなことではない。
何十年も生きていればふらりと身分の高い男や見目麗しい男がこの村を訪れることもあるだろう。
魔女が菓子を口に含むような感覚で男と交わり、身ごもったとしても不思議はない。
その後に彼女が取った行動は蛇と大して変わらないが。
奴は生まれたばかりのカエデずきんを村のどこかに棄てたのだろう。
ルビーずきんは何かを考え込んでいるようだった。
生真面目に過ぎる彼女にとって、『魔女の娘』という存在は厭わしいものに違いない。
「親が誰であろうとカエデずきんはカエデずきんだ」
彼女は私たちを助けてくれた。
重要なのはそこだ。
「……そうですね」
ルビーずきんが安堵に近い溜息を漏らす。
と、先を行くザクロずきんに当のカエデずきんが合流するのが見えた。
「りょうしさん」
灰色の髪の赤ずきんは小さな籠を抱えていた。
中には薬ではなくパンと葡萄酒が見える。
「こんにちは。カエデずきん」
「……こんにちは」
表情に乏しい少女の声には微かな緊張があった。
私とルビーずきんの会話の内容を察しているのかも知れない。
「何か……ありましたか?」
「いや、大したことじゃないよ。そうだろう、ルビーずきん」
「はい。大したことじゃありません」
私は三人の赤ずきんを連れ、歩を進める。
途中、カエデずきんがととと、とヒヨコのように私に近づいた。
「文字のこと……」
私は彼女に歩幅を合わせながら目で続きを問うた。
「きんいろの髪のこと、リンゴずきんが書いてたんですよね」
「ああ。その部分だけ読めなかったけどね」
私たちは鄙びた村に立つ幾つかの家屋を通り過ぎた。
その中にはリンゴずきんの家もあった。
戸口には看板が立っていたが、ひどい癖字で何と書いてあるのか分からない。
確かカエデずきんはこう教えてくれた。ここには「リンゴずきんの
金の家と書いてあります」と。
「……ああいう字でしたか」
「……」
見覚えのある筆致だった。
確か地下で見た『金』の文字も今の看板と同じように乱れていた気がする。
だからあの時、妙な違和感を覚えたのか。
私は既に一度、召使いの書く『金』の癖字を目にしていたのだ。
私は額に手を置き、嘆息した。
カエデずきんは無表情のまま、私を横目で見上げている。
「もう少しはやく気づいていれば、ですね」
「ああ。年を取るとそんなことばかりが積み重なるよ」
「まだわかいじゃないですか」
血みどろずきんは既にバラずきんの家の前に佇んでいた。
彼女が振り返ると黒髪に赤い光沢が生まれる。
「あら。皆さんお揃いで」
言葉の裏側に「私だけ仲間はずれね」といった文字が透けて見えるようだったが、咎めているようには感じられなかった。
彼女はおそらくこの先もずっとこうなのだろう。
血みどろずきんは私たちに背を向け、目的地を見上げた。
「……いつ見ても素敵なお家ね。グレーテルちゃんのお家は」
いつだったか、バラずきんは自分の家を「かわいいお家」と表現した。
小さな川に臨む彼女の家は確かに可愛らしい家だった。
焼き菓子そっくりの壁。
白い砂糖をまぶした屋根。
蜂蜜の垂れた庇。
バラずきんは『お菓子の家』に住んでいた。
――――いや。
魔女が、お菓子の家に住んでいた。
「昨日まで調査員が入っていたそうですけど、中の品物はそのままだそうですよ」
「調査員?」
「お国の人ですよ。お得意様ですからね」
血みどろずきんは指で扉を差した。
「中、入ります? 村長さんはいいって言ってくれたんですよね?」
「ああ。……」
もはや魔女は死に、魔女の放ったジェヴォーダンの獣も息絶えた。
私たちの未来に憂いは無い。
ただ、油断はできない。
狡猾な魔女が自分の死後に何か起きるよう罠を巡らしていたら一大事だ。
あの一夜の後、村人の多くは目覚めを待つ怪物や解き放たれるのを待つ毒水が無いか村中を捜索している。
「調査の人も入ってますし、村長さんたちも入ったって言ってましたから今更何も見つからないと思いますけど」
「それならそれでいい」
重要なのは赤ずきん達に『もう危害を及ぼすものはない』と確信してもらうことだ。
決着はつけなければならない。
私は網目状の焼き色が入ったドアを開ける。
家の中はよく整頓されていた。
よく伸びたシーツには花の刺繍が施され、花瓶には青い花が活けられている。
暖炉には冷たい灰が積もり、鍋は逆さにされていた。
私たちは誰ともなく顔を見合わせ、家探しを始めた。
何かを探すわけではなく、何も見つからないことを確認するために。
ベッドがめくれる音。
花瓶の花が引っこ抜かれる音。
暖炉の灰がかき分けられる音。
「ねえ。猟師さん」
腰をかがめ、箪笥の一つを検分していた私の頭上に血みどろずきんの言葉が降りた。
水差しを手にした彼女は私の両肩に両肘を乗せている。
「結局、魔女の名前って何だったの? 自分で名乗ってたグレーテルじゃなくてウナなんとかって聞いたんだけど」
「読み方は分からない」
「?」
「私が見たのは文字だけだよ」
私は差し出された血みどろずきんの手の平に文字を書いた。
あの壁に書かれていた通り、「o」と「e」はぴったりとくっつける。
この国でしばしば使われる、『合字』と呼ばれるものだ。
『oenarillon』
「……。……」
血みどろずきんは少し考え込んでいたが、やがて唇を開く。
「地下に書いてあったんですよね? もしかしてその文字ってナイフか何かで刻まれてました?」
「ああ」
「じゃあ、見間違えても仕方ないですね」
「?」
「手、出してくれます?」
私は
抽斗を一つずつ検めながら片手を差し出した。
血みどろずきんの鋭い爪が私の手の平に文字を書く。
『cendrillon』
「こんな文字だったんじゃないかなって思います。最初の文字は合字じゃなくて、普通に「c」と「e」なんですよ。途中のは「a」じゃなくて「d」」
「――魔女のことを知っていたのか?」
「いいえ。私も昔、おばあ様に『お姫様の塔』のことを聞いたことがあって。その時にちらっと耳にしただけです」
私が説明した時は驚いた振りをしていたが、彼女はおそらく魔女の正体に気付いていた。
聡明な血みどろずきんが、『香水を振らない自分だけが助かっている』という事実に何年も気づかないわけがない。
時計に隠れ、じっとしていたカエデずきんが助かった話と組み合わせれば、『オオカミの嗅覚は死んでいる』という事実にも気づけたはずだ。
なのに、私たちに教えなかった。
理由は聞くまでもない。
『オオカミの弱点と魔女の正体がばれてしまったら、ぞくぞくするような一夜を過ごせないから』だ。
「……隠し事が多いな、血みどろずきんは」
「それは猟師さんもじゃありません?」
彼女の肘が帽子に触れた。
私は思わず抽斗から手を離し、その肘を掴む。
ごとりと木製の引き出しが床に落ちた。
「っふふっ! 何もしませんよ」
「……」
私は抽斗を掴み、箪笥に押し込んだ。
そこで気付いた。
抽斗が箪笥の奥で何かに触れている。
「――?」
がこがこと何かにぶつかる音。
私は木製の抽斗を再び手前に引っ張り出し、中を覗き込んだ。
そこには小さな木箱が隠されていた。
カエデずきんやルビーずきんが私の所作に気付く。
「猟師さん、それは……?」
「分からない」
「なか、とうめいにしましょうか」
「……。いや、音で分かる。危険なものが入っている感じじゃない」
「それにそんな分かりやすい場所にあるものなら、村長や調査員も気づいてるでしょ。たぶん危険なものじゃないと思う」
「ふふっ。でも面白そうね。開けてみましょう?」
私は鍵のついていない箱の蓋をそっと開けた。
赤ずきん達が私の左右から中を覗き込む。
箱の中には、美しいガラスの靴が入っていた。
(……)
装飾用のようにしか見えないが、実際に舞踏の場で使われたらしい傷痕が残っている。
もしかするとバラずきんはかつてこの靴を履いていたのかも知れない。
王子様とやらが求婚したバラずきんはきっと見目麗しい少女だったのだろう。
だが彼女は老い、手にした幸福の喪失に怯えるお后様になった。
自分の幸福が、誰かの幸福によって奪い去られてしまうと思い違えた。
そして、魔女になった。
「――――」
私は魔女の安息を祈らなかった。
ただ、そっと箱の蓋を閉じた。
ガラスの靴に注がれる赤ずきん達の視線を遮るように。
幾つかの季節が私たちを通り過ぎた。
ある日、水を抜かれた堀の底から魔女の死体が発見された。
肉を魚に吸われた魔女はすっかり白骨化していた。
落ち窪んだ眼窩がどこか悲しそうに見えたのは、私が同じ穴の貉だからだろうか。
骸骨の検分に立ち会った私はぎょっとした。
泥に埋もれた小さな骸骨は、ひと回り大きな骸骨にきつく抱きしめられていた。
大きな骸骨には、首が無かった。
小さな肋骨には手骨が滑り込み、逃れようとする魔女が伸ばした手すらも大きな骸骨の手が掴んでいる。
その姿は暴れる我が子をあやす母親のようにも見えた。
あるいは、幸福になろうとする誰かを妬み、憎む、魔女のようにも。
「――――」
私は時間と水の流れが偶然生み出した光景を前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
ぬかるみとなった地面が、私の靴を飲み込んでいくようだった。
それから更に幾つかの季節が過ぎた。
私は当初の約束通り、村を出て行くことにしていた。
猟師の間には不文律が一つある。
それは「一つ所に留まらない」こと。
私は荷物をまとめ、帽子をかぶり、最後の食事を終えた。
贈答品は断ることにしていた。
思い出を形にしても重石にしかならない。
私などは特にそうだ。
日課通り手を洗い、口をすすぎ、髭を抜く。
髪に櫛を通し、帽子をかぶる。
真新しい銃の調子を確かめ、それから家を出る。
赤ずきん達に挨拶しなければならない。
(……)
あの出会いと戦いの一夜から数百日が過ぎた。
私は赤ずきん達の庇護者のような立場で彼女達と苦楽を共にした。
熱を出す子がいれば看病をしたし、老いた赤ずきんが訪れた時には茶会に同席した。
共にジャムを作ることもあったし、本物の狼を追い払ったりもした。
小さかったルビーずきんとカエデずきんは背が伸びた。
ザクロずきんはますます身体つきが女性らしくなっている。
血みどろずきんは何故か私に懐くようになった。
「――――」
彼女達に何と言葉を掛けたら良いだろうか。
さようなら。
いや、ありがとうか。
私は――罪滅ぼしのつもりで彼女達と接してきた。
彼女達の笑顔を見る度に、私は私の罪悪感が少しだけ薄められるのを感じていた。
そのことに礼を言わなければならないだろうか。
「!」
草を踏む音がした。
私は振り返る。
「りょうしさん」
カエデずきんだった。
彼女は長い灰色の髪を紅のリボンで結び、少しだけ大人びた表情で私を見つめている。
もう私が膝を折る必要はない。彼女は少しだけ背伸びをし、私の目を覗き込んだ。
「……行っちゃうんですか」
「行くよ」
ここは心地良い場所だが、私に安寧は許されていない。
私は自分が幸福になる以前に、誰かを幸福にしなければならない。
罪人にとっての前進とは、そういうものだ。
罪滅ぼしに終わりは無い。
「世話になったね」
「……」
カエデずきんは少しだけ俯き、ややあって顔を上げた。
その目に涙が溢れていた。
「……」
「……」
私がいなくなることで、彼女達が困りはしないだろうか。
秘薬を求める国の重鎮や貴族は一向に減る気配を見せない。
悪者が現れはしないだろうか。
村人が欲を出し、赤ずきん達を奴隷にしたりしないだろうか。
野生の狼が彼女達を襲いはしないだろうか。
考えれば考えるほど、この土地を離れることが恐ろしくなってくる。
そこで気づく。
私もまた、幸福を喪うことに怯えている。
「猟師さんが私たちを助けてくれたのは、何かの罪滅ぼしなんですよね?」
「……ああ」
「他の人を幸せにしないといけないってことですよね?」
「ああ」
「猟師さんが行っちゃったら、私たちは不幸せです」
「……」
少女の流した清らかな涙が頬を伝う。
「一緒に居てください」
「……」
私は帽子を目深に被り、逡巡した。
罪滅ぼし。
魔女。
赤ずきん。
どこかで苦しんでいる誰かのこと。
置き去りにされる彼女達のこと。
私はどちらへ進めば良いのか。
私は――――
「……そう言えば」
私は思い出した。
昨夜酒を酌み交わした時、酔った村長に泣きつかれたことを。
「この村に産業を興せないかと相談されていたんだった」
「ぇ」
「私もそれなりの家の出だから、そういったことを全く知らないわけでもないんだよ。人々の暮らしを『上から』支えることを」
事実、これまでも何度か助言をしてきた。
村人たちもまた、赤ずきんに依存していることを多少は心苦しく感じているようだった。
私は灰色の髪に手を乗せる。
「……少しだけだよ。少しだけ、君らが楽になれるよう彼らに仕事を覚えてもらう。暮らしの基盤を整えて、色々な制度を用意して、それから――出発しようかな」
「……!」
カエデずきんの手が私の手を包んだ。
私は少女の顔に広がる笑みを見つめていた。
それはバラずきんの味わった感動や幸福に比べればずいぶんちっぽけなものかも知れないが、幸福には違いない。
私は彼女達の幸福を見届けなければならないのだろう。
「他のみんなにも教えてあげないと……!」
「ああ。そうしよう」
私は彼女の手を握り、ゆっくりと歩き出す。
「ねえ、猟師さん」
「ん?」
「猟師さんはどうして、いつも帽子をかぶっているの?」
「……頭に怪我をしているからだよ」
「猟師さんにはどうして眉毛が無いの?」
「傷を負った時に剃り落としたからだよ」
手を繋いだカエデずきんの表情に曖昧な笑みが浮かぶ。
「猟師さんはどうして、お髭を伸ばさないの?」
「――――」
私は適当な言い訳を思いつけなかった。
なので、帽子に手をやった。
これからしばらく身を置く村だ。
隠し事は少ない方が良いだろう。
「それはね――――」
私は帽子を取った。
肩に乗るほど長く伸びた髪がはらりと風に梳かれる。
その色は――――
「青い、髪……?」
カエデずきんは呆然としていた。
私を取り上げた産婆も同じ顔をしたと言う。
「珍しいだろう? とてもじゃないが、帽子をせずに道を歩くことはできないんだ」
昔は色々あった。
家族はそれなりに私を愛してくれたが、教育係や乳母は金で口を封じなければならないほど不気味がっていた。
床に落ちた私の毛髪を高値で売り、里へ追い返された召使も数人いた。
私はこの髪が、嫌いだ。
私自身より目立つこの髪が。
「きれい」
踵を浮かせたカエデずきんは私の髪を手で梳いていた。
「きれいだと思いますよ、私は」
「……」
私は片手で髪をまとめ、押し込むようにして帽子を被ろうとした。
だがその手をカエデずきんの手が止めた。
「……猟師さんはどうして、いつも帽子をかぶっているの?」
「……。この青い髪を誰にも見られたくないからだよ」
「どうして眉を剃っているの?」
「青い眉なんて気味が悪いからだよ」
「猟師さん」
「ん?」
「誰もそんなこと、言いませんよ」
「……」
「猟師さんも、しあわせになってください」
胸が詰まるようだった。
私は何度か頷き、腰を折った。
そして灰色の髪を撫でてやった。
カエデずきんは嬉しそうに目を細め、最後にこう聞いた。
その手は私のつるりとした顎を撫でている。
「猟師さんは、どうしてお髭を生やさないの?」
「……髭を伸ばすと、皆が私をこう呼ぶんだ」
私は恥ずかしながら白状した。
「――――『青ひげ』と」
「青ひげ?」
ああ、と私は頷いた。
「気持ち悪い名前だろう? それに青い髭なんてみっともない。だから」
わたしは、とカエデずきんは思い切ったように告げた。
「伸びたところ、見てみたいです」
「……」
「そっちの方が、すてきです。髭が伸びるまで、一緒にいてください」
まるで求婚を申し込むような口ぶり。
少女が顔を赤くし、私もまた赤面してしまった。
「……」
「……」
私たちは先ほどまでより強く手を握り、村へ向かって歩き出した。
そうだ。
産業を興すことができたら領主としてあの塔に住んでもいい。
もう魔女はいない。そのことを示すためにも私自らがあそこに住もう。
あの忌まわしい地下もきれいに掃除をしてしまおう。
誰も立ち寄ることのないよう、死体のあった部屋には鍵をかけて。
もしかすると赤ずきんの誰かを娶ることがあるのかも知れない。
その時は彼女を。
いや、彼女達を――――
「青ひげさん」
「ん?」
「幸せに、してくださいね」
「ああ」
私は少女の頬を両手で包んだ。
「きっとみんなを幸せにするよ」
見上げれば天には太陽が昇っていた。
私の影は長く伸び、カエデずきんの影の半分を飲み込んでいる。
その影は、どこかオオカミに似ていた。
<了>
