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6:00/誰も知らない姫の赤
「一応、聞いておくが」
両手両足を無惨に傷つけられた魔女は犬のように横たわり、私を睨みつけている。
傷口から流れた血は赤い酒のように筋を作っていた。
少女の裸体はしっとりと濡れていた。
乱れた金髪は細い腰やまろやかな背に広がり、抜け落ちた数本が腿にも絡みついている。
「誰かの差し金でオオカミに変えられたわけではないんだろう、バラずきん?」
私以外の生存者は微動だにしない。赤子ですら息を呑んでいるように思えた。
ただ一人、血みどろずきんだけが胸に抱いた赤ん坊の口元に人差し指を添えている。まるで芝居でも観ているかのように。
長い沈黙が漂った。
「……りょうしさん」
ようやく口を開いたのはカエデずきんだった。
「せつめい、してください」
「……今夜、赤ずきんを一網打尽にできると考えたコイツはまず用済みの召使――リンゴずきんに『本物の秘薬』を渡した。リンゴずきんは香水を使わない血みどろずきんと並んでいたせいでオオカミの目に留まり、殺された」
もっとも、あの時私たちは移動していた。
石橋に辿り着いたオオカミは血みどろずきんの姿も視認していたはずだ。
赤い痕跡を残すリンゴずきんではなく、これから知覚しづらくなる血みどろずきんを殺していた可能性もあった。
その場合、魔女はより有利に立ち回ることができただろう。
なぜなら今夜、『赤』が付着していないのは血みどろずきんと魔女の二人だけ。
私がこうして真実に辿り着くこともなかったに違いない。
「それからお前は何食わぬ顔で私たちと共にオオカミから逃げ惑った。……。お前は私たちより有利な立場に置かれていたが、オオカミに襲われないわけではない。お前は本気で私たちに協力した。その必死さがお前の嘘を男の目からも女の目からも完全に覆い隠していた。……だがジェヴォーダンの獣が死んだことだけは完全に想定外だった」
魔女に目を向けた私は痛む脚に鞭打って歩き出した。
こつ、こつん、と靴音が響く。
「ジェヴォーダンの獣が死ぬというのはお前にとって最悪の事態だった。何せお前は『赤ずきんによって地位を脅かされる』と予言されている。……方法はどうあれ自らの手で赤ずきんを殺めようとすれば、正体を見破られる可能性はぐっと高くなる。この状況で正体を見破られることは、即、身の破滅を意味する」
私は魔女を見下ろしながら歩いた。
傷だらけの手で何かが掴めるとは思えないが、油断してはならない。
「だが背に腹は代えられない。朝になれば私たちは塔を立ち去ってしまう。だからお前は決断した。『今だけ別の生き物に変身してしまえばいい』と。地位を脅かされると予言されていたのは『お后様』であってオオカミじゃない。死体さえ偽装してしまえば正体を見破られる可能性は低いし、見破られても力押しできる生物に変身すればいい」
「……」
「お前は全員が寝入った後、隠し持っていたリンゴで『ジェヴォーダンの獣』に変身した。そして――」
「待って」
ザクロずきんだ。
「あの時私たちはその子の悲鳴を聞いたんだけど。オオカミに化けていたのなら悲鳴なんて上げられないんじゃない?」
「血みどろの湿布だ」
「ぁ」
私は覚えている。
オオカミを迎撃する用意を整え、赤ずきん一人一人と話した時のことだ。
バラずきんは壁面を飛び上がるオオカミを見て悲鳴を上げた。
あの時、こいつは音を記録していた。
「オオカミに変身したこいつは効果時間も調整することにした。一時間では少なすぎるし、あまり長く変身していると『生き残ったバラずきん』として村長たちの前に姿を現せない。効果は『夜明けまで』に設定した。そして穴の中にそっと忍び込んで――」
ザクロずきんはオオカミの動きの怪しさに気付いていた。
彼女より狡猾で、ジェヴォーダンの獣の正体を知る魔女は膨らんだ腹の中身が何なのか悟っていたに違いない。
「――――オオカミの腹の中にいる子供を引きずり出し、その場で噛み殺した」
その惨劇は眠る私のすぐ傍で引き起こされていた。
あの時私が目覚めていたら、魔女の牙は私をも八つ裂きにしていたかも知れない。
ただしその場合、『バラずきんの死体』が見つからない。
私は赤ずきんの中に魔女がいることを暴露していたので、残る四人はオオカミの正体をバラずきんだと見定め、一致団結する。正体を知られた上に赤ずきんに敵意を向けられる。予言を知る魔女にとってその状況は好ましくない。
彼女は私には手を出さず、偽装を優先することにした。オオカミの子だけを寝室に連れ去った。
そして頃合いを見て湿布を開き、自分自身の悲鳴を聞きながら子オオカミを派手に噛みちぎった。
そこから先について、私と赤ずきん達の見聞きした情報は一致している。
「……いつだ」
魔女は肩を上下させていた。
顔は可憐なバラずきんのままだったが、目つきと声が違う。
「いつ気付いた……?」
耳に氷の槍を突き立てられるような感覚があった。
その凄みに私は微かにたじろぐ。
「私が不用意な行動を取ったと言いましたね、お前」
「……」
「私は証拠なんて残さなかったはず。『赤い薬』のことを知っているのも私だけ。……お前はいつ、私を魔女だと疑った?」
私は息を吸い、過去の光景を思いだす。
「お前に追われて部屋に飛び込んだ時――」
場所は二階。背景は暗闇。
状況は今と同じだ。四人の赤ずきんを背に、私はオオカミと対峙していた。バラずきんの腸を咥えたオオカミと。
「私は無我夢中で一つの部屋に赤ずきんを避難させた。お前が私に飛びかかったが、目測を誤って仕留め損ねた。私は部屋に飛び込んで扉を閉じた」
重要なのはそこからだ。
「血みどろずきんがこう言った。『オオカミが薬を使うかも知れない』と。現にあの時お前はそうしようとしていたはずだ。体当たりで破れない扉をザクロずきんの薬で崩そうと考えたところだった」
「……」
「だが私がそれを否定した。『ついさっきまで腹の中にいた奴が薬の効果と使い方を知っているわけがない』と。お前はそこで気づいた。自分は『生まれたての子供』を装わなければならないことに」
魔女が唇を軽く噛む。
一糸纏わぬ身体がぶるりと寒そうに震えたが、生憎と私は紳士ではない。
「お前は自分を無知な子供に見せかける必要があった。だから最善手である『ザクロずきんの秘薬で扉を破る』という方法を選ぶことができなかった。そして次善の手も打てなかった。次善の手とはあの部屋の壁面に空いた穴から中へ飛び込むことだ。ほんの三部屋隣から、お前は何の苦もなく室内に侵入できた。だがお前は生まれたての子供だから壁に穴が開いていることなんて知っているわけがない。ゆえに、この方法も選べない」
「……」
「どちらを選んでも私たち全員を殺せるとは限らない。そして生き残った奴は『あのオオカミは本来知らないはずのことを知っている』と考え、自分の正体に辿り着く可能性がある。それは予言の成就が近づいていることを意味する」
魔女は無言のままだった。
無言のまま、私の言葉を待っていた。
「お前は三番目の善策を選ぶことにした。親と同じく、火や水といった道具を使って私たちを追い詰めることだ。確かにそれなら不自然ではない。お前はジェヴォーダンの獣の子供だからだ。私たちもおそらく違和感なくその状況を受け入れるだろう」
だが、と私は続けた。
「そこで私は不審に思った」
「何……?」
「分からないか? お前はあの状況で『鼻』をまったく使わなかった」
「っ」
魔女の顔に初めて小さな汗が浮いた。
脂汗と呼ばれるそれは彼女の柔肌をなかなか伝おうとせず、額で玉となっている。
「犬は人間がまばたきをするのと同じように、鼻をすんすんやって周囲の状況を確認しようとする。なのにあの時お前は完全に足を止めて『思考』に入った。生物としてありえない行動だ」
私は犬や狼の嗅覚がどれほど強力な感覚器官であるかを知っている。
あの状況、もしオオカミが本当に『狼』なら嗅覚を駆使するはずだ。
床をほんの少しくんくんやるだけで、奴は壁の穴に気付けたはず。
飼い犬ですらその程度のことはやってのけるというのに、奴はなぜかその場を離れ、『最も合理的な行動』を選択した。
そこで私の胸中に違和感が萌した。
オオカミの見せた行動は確かに合理的だった。
合理的過ぎて、生物らしくなかった。
「私はあの時こう考えた。『コイツ、実は人間なんじゃないか』と」
「……」
「子オオカミが人間だとしたら、それに成り代わっている可能性のある奴は二人しかいない。リンゴずきんか、お前」
秘薬の効果だけ考えるとリンゴずきん。
偽装の可能性を考えるとバラずきん。
秘薬は譲渡できる。
召使から魔女へ。
「狼に変身した時、私は既にお前を疑っていた」
魔女は嘘が巧かった。
ただ、嘘に頼り過ぎた。
嘘は一つバレた瞬間、他の嘘もバレるように出来ている。
腰に生まれた生地のほつれが襟や脇を伝って袖へ至るように。
ぱん、と手を叩く。
「話は終わりだ。弁護人を呼んでほしければそう言いなさい。私が裁判の準備を整えてやってもいい」
もちろんその時は棺桶の準備も進めておくが。
「……」
魔女は顔を伏せていたが、やがてくつくつと笑い出した。
身の毛もよだつような悪魔の笑いではなかった。
いたずらが発覚した子供のような、どこか余裕のある笑い。
「驚きました。まさかお前のような若造に見破られるとは」
「……リンゴずきんの記録があったお陰だ」
「そうね。つまるところ、私の身から出た錆……ということかしら」
正体を見破られ、悪行を暴露され、今まさに予言に近い状況に置かれたにも関わらず、魔女は余裕の態度を崩さなかった。
その雰囲気に嫌なものを感じた私は赤ずきん達を手で制する。
――――近づかない方がいい。
「賞賛してあげましょう
魔女はしどけなく崩した体勢を少しだけ整えた。
まだ恋も知らない年頃の少女の顔に妖艶な微笑が浮かぶ。
未成熟な肉体の胸元を手で隠した魔女は、明るい青の瞳で私を見据えた。
心の底まで覗き込むような目。
背に冷たい汗が浮かぶ。
「弁解はしません。もちろん、謝罪もしない。私はあなたが知っている通りのことをした」
「……」
「そしてそれを数十年、隠し通した。この意味が分かるかしら?」
分かる。
分かり過ぎるほどに、分かる。
予言に怯えていたとは言え、こいつは本物の『魔女』だ。
人智を超えた存在。
――――人を見下すことを許され、人に見上げられることを当然とする存在。
「取引をしてあげてもいい」
「取引……?」
口にした直後、私は後悔した。
今のは一蹴すべき場面だった。なのに私は不用意にも――――
「お前は名誉に飢えているでしょう?」
「っ」
「私を助けなさい。そうすればオオカミ殺しの名誉はお前のものです」
誰かが唾を呑んだ。
私かも知れなかった。
「『永遠の若さ』」
「!」
「手にしてみたいとは思わない? 心は大人のまま、子供になって人生をやり直すことができる。愛しい女を若返らせ、無限に睦み合うこともできる」
「馬鹿な。そんなもので――!!」
「『そんなもの』で、お前は千年語り継がれる英雄になれる」
魔女の言葉は振り下ろされる斧のごとく私の怒声を断ち切った。
「理解していると思うけど、私は既に百に迫る種類の秘薬を作り出すことができる。香水に『見えない赤』を足して使っていたのは、あくまでも証拠を残さないため。『炎を生物にする』『水の上を歩く』『触れた生物を脱力させる』『動物の声を聴く』『触れたものを金にする』。私は王侯が夢にまで見た奇跡の秘術を、ごく些細な材料から作り出すことができる」
そのすべてを、と赤い唇が動いた。
艶めかしく。軟体動物のように。
「お前に差し出してもいい。お前の思うままに使わせてあげましょう」
「……」
「私を助ければ、私はお前の望むすべてを与えてあげる」
しかし、と魔女は私の肩越しに赤ずきんを見た。
冷ややかな目だった。
「そちらにつくのなら、お前は何も手に出来ないまま生涯を終える。なぜならその子たちはお前に秘薬の作り方を教えはしないし、村の連中はお前に分けるほどの財産を抱えてはいないから」
魔女の視線が横に動き、私を捉えた。
「危険な獣を殺し、皮を剥いで、臭い脂と血を浴びて。腑を分けて、重い肉を担いで、汗水たらして売り歩く……そんな人生を死ぬまで続けたいの? そんな人生をあなたは望んでいたの? そんなことのためにあなたは生まれてきたの? ……違うでしょう?」
横たわる魔女が手を差し出した。
脚の傷口から流れ出す血はまるで紅玉の鎖のように手足を飾っている。
「私と共にいらっしゃい。そうすれば、人の身では決して味わえない幸福を味わわせてあげる」
差し出された手から血が滴った。
手の平からワインが滲み出したように見え、私は僅かにふらつく。
「……バラずきん」
渇いた喉から声を絞り出すのに、数分の時間が必要だった。
「……。……」
魔女は悠然とした笑みを浮かべていたが、徐々にそれを強張らせた。
「私は確かに今でも名誉が欲しい。人にちやほやされたいし、喝采を浴びたい」
白状してしまえば。
私は今夜の出来事に誇らしさを感じていた。
ジェヴォーダンの獣を討ち取ったこと。
魔女の正体を見破ったこと。
四人の赤ずきんを護り切ったこと。
そのすべてを吹聴して回りたかったし、称賛されたかった。
私は私の罪を直視しながらも、それを生んだ私自身の浅ましい性格だけは変えることができなかった。
贖罪に伴う暗い喜びと、己の功を声高に叫びたい欲望。
私はその二つと死ぬまで戦い続けなければならない。
「だがもういい。そんなものは私には要らない。私は……」
ひと固まりの唾を呑む。
砂の混じったそれはひどく苦かった。
「私は、他人に褒められるような人間じゃない」
「……」
それに、と私は続けた。
「仮に私の身の上が潔白だったとしても、お前の力など授かるつもりは無い」
魔女の秘薬。
魔女の知恵。
魔女の力。
そんなものを使って得た名誉が私に属するわけがない。
誰かの力でのし上がり、誰かを騙してのし上がっても、結局私は惨めなままだ。
「卑怯な力で成功するぐらいなら、自分の力で失敗した方がマシだ」
その瞬間、私の胸の奥で誰かが呻いた。
気のせいか、そいつの声は私に似ているようだった。
名誉のために誇りを捨て去った愚かな頃の私に。
それに、と私は呟いた。
「お前が本当に何でもできるとは思わない」
私は魔女の顔を窺った。
金髪が枝垂れたせいで、その表情は影に覆われている。
「お前と一緒にいた王子様とやらはどうした? どうしてお前と一緒に若返っていないんだ?」
私はそっと、言葉を添えた。
「お前を見捨てたんじゃないのか?」
「……!」
「お前はそれを老いのせいだと思っているのか? ……違う。お前に女としての魅力が無くなったから見捨てられたんじゃない。お前の男はお前の人間性に失望したんだ」
「……黙れ」
金髪が炎のように揺らめいたが、私は怯えなかった。
「分かっているはずだ。自分が若さを理由に見初められたのでなければ、いくら若返っても男の心は戻らない」
「黙れ……!」
「愛しい相手のために誰かを踏みにじるような恋情に美しさは無い」
「黙りなさい!!」
黙らなかった。
私は断じた。
「お前は醜い女だ」
数秒の間を置き、魔女の顔から怒りが消える。
そこには取り繕うかのような無表情だけが残された。
「……そう」
魔女は興ざめだと言わんばかりの目で私を見つめていた。
(……!)
その所作に異様な気配を感じた私は駆け出そうとしたが、手遅れだった。
魔女は既に『何か』を手にしていた。
透明の『何か』。
そうだ。
こいつは秘薬の効果時間を延長させる薬を持っている。
こうして追い込まれた時、その場を切り抜ける方法を数時間前から『仕込む』ことだってできる。
しゃくりと魔女が何かを口にした。
この音。
リンゴだ。
別の生物に化けるリンゴ。
(しまっ――――)
私がルビーずきんから引ったくり、鞘を払って振り下ろした剣を、魔女はにょるんと避けた。
その白い肢体は不気味にうねり、細長く伸びている。
「くっ」
満身創痍の中、ろくに踏み込まないまま切り付けたせいで脚がもつれた。
落ち着け。
あいつは両手両足がダメになっている。特に足はカモメに化けた時、完全に噛み砕いた。
今更どんな生物に姿を変えたところで逃げ出すことはできない。
だから落ち着
「猟師さん! 何かおかしいですっ!」
はっと剣を振り下ろした姿勢から顔を上げる。
魔女の体色は緑褐色に染まり、口は耳まで裂け、肌はテラテラと輝き始めていた。
手足は体側にぴったりとくっつき、腹部には白い筋肉らしきものが広がっている。
「まさか」
私は血の気が引くのを感じた。
「蛇だと……?!」
蛇に手足は無い。
負傷した部位は身体を動かす上で障害にならない。
「へ、蛇? こんな場所で蛇になんて化けて一体何を……・」
違う。逆だ。
この場所で蛇はまずい。
私は激痛に剣を取り落しながら叫んだ。
「捕まえろ! 蛇は外の掘を泳げる! 逃げられるぞ!!」
私たちは一斉に駆け出したが、ふた呼吸は遅かった。細長く伸びた魔女は既に土壁を這い上がるところだった。
穴を出られたらその先は瓦礫の山。蛇が身を隠すには格好の環境だ。
「愚か者共」
金髪をうじゅうじゅとくねらせながら、私たちを見下ろす魔女は哄笑を上げた。
腹部が壁面にへばりついている。
「そこで待っていなさい。ありとあらゆる恐怖の雨をお前たちの頭上に降り注がせてやる」
今や頭部が丸まり、体側に折りたたまれた手足も緑褐色に変わりつつあった。
「生まれて来たことを後悔しながら殺してあげ――」
ぼたり、と。
魔女が穴に落下した。
それは寿命を迎えた虫が樹上から落下するような、滑稽さすら感じさせる光景だった。
「ぇ。あ……?」
魔女は縮んでいく手足を見つめながら愕然としていた。
手が、ヒレに変わっている。
蛇にヒレは無い。
そして魔女の両目は徐々に左右に離れていく。
頬の辺りからは弾力のある針のようなものが伸び、しなり、揃えられた脚にひらひらとした布のようなものが広がった。
髭だ。それに鰭。
蛇にはそのどちらも無い。
これは――――
「な……んで……」
魔女は自らの身体が押し潰された革袋そっくりに変わっていくのを呆然と見つめていた。
ナマズだ。
魔女は蛇ではなく、ナマズに変身している。
口にするリンゴを間違えたのだろうか。
いや、そんなはずはない。
こいつは数時間前からこの逃走を頭の片隅に留めていたに違いない。口にしたのは間違いなく『蛇』のリンゴだ。
ただし、それを作ったのはおそらく魔女ではない。
「あ、いつ……!!」
私の脳裏にリンゴずきんの控え目な笑みが浮かんだ。
『恥を承知で記します。もしお后様が死ねば――私が最後の赤ずきんになれるかも知れない。それは私にとってあまりにも甘美な響きでした』
『赤ずきんは大勢いました。私もかつては一人の名も無き赤ずきんに過ぎなかった。でも赤ずきんはオオカミによって数を減らし、時代を下る毎に稀少価値を得て、可愛がられ、珍重されるようになった』
『私は――私はいつもあのお方の影に隠れていました』
『それは仕方のないことです。私はただの乳母に過ぎないのですから。でも――』
『でも、こう考えない日はありませんでした。お后様の隣におわしますあの王子様が、私のものにならないか、と。私だって誰かにあんな目で見つめられ、大切にされ、褒めそやされたい、と』
『お后様が死ねば私が赤ずきんです。私だけが赤ずきんです』
『どうか笑ってください。私は――私は、命を奪われること以上に、お后様の知る若返りの方法を知り、彼女に成り代わって人生をやり直し、幸せになりたくて今日まで生き延びて来ました』
『私も――――誰かのお姫様になりたかったのです』
リンゴずきんもまた、少女だった。
少女は少女を装う。
あの淑やかな佇まいの奥底には、おぞましいほどの野心が隠されていた。
追い詰められた魔女が自分のリンゴを使って逃亡することを予期していたのか。
彼女は『ナマズ』のリンゴに『蛇』の刻印を施していたのだ。
「ア、かっ……!」
見る見るうちに魔女が姿を変えていく。
身体は縮み、顔は魚のそれへと変わり、歯が口内に引っ込んでいく。
その喉から、身の毛もよだつ咆哮が上がった。
「×rkうmrおォォォォォォッッッ!!!!!」
それが、魔女の最期の言葉となった。
全身を覆う緑褐色の皮膚。
ずんぐりした体躯。
頬に伸びた髭。
土の上に放られたナマズはびちっびちっと惨めに跳ねた。
「 」
ナマズは口をぱくぱくさせていたが、もはやできることなど何も無い。
恨めしそうな顔にも、乞うような視線にも、人間らしさは残されていない。
「――――」
私が魔女に伸ばした手を、誰かが払いのけた。
そして一人の赤子が胸に押し付けられる。
「ぁ――」
四人の赤ずきんの影が哀れな魚を覆った。
カエデずきんが、ナマズの口を両手でこじ開けた。
ザクロずきんが、大量の顆粒を胃袋に流し込んだ。
ルビーずきんが、その口を縫い合わせた。
最後に血みどろずきんがナマズを抱え、軽くキスをする。
「さようなら。とっても愉しかったです」
赤い光沢を持つ黒髪の赤ずきんは、冷笑のようなものを浮かべた。
「私たちからのお礼です。最後の一時間、たっぷり楽しんでください」
腹を膨らませたナマズは二階の窓から堀へ投げ込まれた。
緑褐色の魚はヒレで水をかいていたが、ほとんど前へ進むことなく水底へ沈んでいった。
魚類は痛覚を持たないと言われている。
最期に残された一時間、彼女は必死に知恵を絞るのだろう。
泳ぐことのできない魔女へと戻り、腹の中に詰められた小石が元の大きさに戻る、その時まで。
「……」
見れば白んでいた空は紫から水色へ変わっていくところだった。
星々が眠たそうに瞬き、鳥が元気よく鳴いている。
じきに日が昇る。
赤ずきん達は目に涙を浮かべ、がちがちと歯を鳴らしながらこの恐ろしい一夜のことを語るのだろう。
だが今の彼女達にそんな様子は無い。
影に覆われた顔にどんな表情が浮かんでいるのか、私にはわからない。
私は炎に照らされ、長く伸びた赤ずきんたちの影を見つめていた。
黒く長い影は、何かに似ていた。
私はそこに、私への罰を見たような気がしていた。
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