15/17
5:00/誰も知らない犬の赤
私が真実を知ると同時に、ジェヴォーダンの獣が地を蹴った。
振り返った私は長く伸びた鼻の先に世界を見る。
視界は昼のように明るい。
部分的に崩落した塔内部、無数の瓦礫、寸断された通路、散らばった古い品々。
その一つ一つが燐光を発しているかのようにくっきりと目に映る。
人間には闇に見える世界も、狼にとっては昼と何ら変わりない。
たしっ、たしっ、たしっと必要以上に強く地を蹴り、オオカミが迫る。
灰黄色の体毛に覆われた怪物は私より一回りも巨大だった。
鮫と鰯。
虎と猫。
狼と子犬。
絶望的なまでの体躯の差に本能が警鐘を鳴らす。
警鐘は鼓動と重なり、全身に新たな血が巡る。
逃走のために巡る血を、私は立ち向かうことに注ぐ。
「 」
四肢を突っ張り、顎を床につける。
不器用な足先で地を掴むように踏みしめる。
濁った色の獣は涎をまき散らしながら迫る。
憤怒。歓喜。憎悪。焦燥。
体臭からは虹色の感情が読み取れた。
私は姿勢を低く保ったまま、番えられた矢のごとく力を込める。
あと五歩。
三歩。
二――
「 」
時間が凝縮される感覚の中、私は地を蹴った。
空気は泥のごとく粘り、音は水の膜でも張ったかのようにこもる。
私は一本の征矢となって宙を跳ぶ。
すれ違いざま、牙と牙が激突する。
顎から頭蓋にまで衝撃が伝った。
「 」
「 」
ルビーずきんの秘薬によって私とオオカミの肌は硬質化している。
どちらの牙も互いに立たず、どちらの爪も互いに刺さらない。
すなわち、重量差が結果に直結する。
「 」
高速で衝突した私は弾かれるように吹き飛ばされ、瓦礫に叩き付けられた。
視界は確保できたが、この体格差は覆しようがない。
さりとてのんびりしていれば私の『硬質化』が解け、八つ裂きにされてしまう。
どうする。
牙や爪では殺せない。
剣も通らず、旗棒のような道具も用意できていない。
奴を斃す方法はほぼ無い。
――『ほぼ』無い。
つまり、『ある』。
砂礫の中で身を起こす。
私を轢いたオオカミは既に急停止からの急旋回を挟むところだった。
長い尾が火の輪のごとくぐりんと回る。
私が矢なら、奴は大砲だ。
どう、と空気の膜を突き破るように駆け出したオオカミは瞬く間に私の眼前に迫る。
私は受けて立つ。
「 」
「 」
交差。
ざざああ、と四つ足で地を擦り、振り返る。
短い助走を経て、また交差。
今度はすれ違うことはなく、私たちは石床の上でもつれ合う。
異様な熱と獣臭さに地獄を幻視する。
「 」
ぐあっと顎が開く音。
私は首を振り、致命的な咬撃をかわす。
がちんと歯が噛み合う。ジェヴォーダンの獣は罪人の首を落とし損ねた処刑人のごとく嗤う。
私は身をよじり、奴から離れた。
「 」
呼吸は乱れていたが、ひと吸いごとに周囲の風景が鮮明に感じられる。
石の落ちる音。赤ずきんの身じろぎ。赤子の泣き声。
入り乱れる感情。舞い散る粉塵。金皿に残った脂の匂い。
――――この階に落下した秘薬の場所。
「 」
私はオオカミを迂回し、秘薬の籠へ向かって走った。
背後に迫るジェヴォーダンの獣は私より遥かに重いが、敏捷性に劣るわけではない。
自分より遥かに速く、重い爪音に追われる恐怖。
しかも縄張り争いや雌の取り合いではなく、敵の追跡は殺意に裏打ちされている。
肝が冷え、血が冷える。
秘薬にたどり着いた瞬間、ぐんとオオカミが速度を上げた。
奴は今まで手を抜いていた。
それを理解すると同時に、巨体が私を捉える。
「 」
重い。
脚がもつれる。
奴の前肢はこれほどまでに力強く獲物を押さえつけるのか。
これでは抜けられな――
首の後ろに噛みつかれた。
「 」
牙は皮膚に通っていないが、万力に締め付けられるようだった。
ルビーずきんの秘薬は皮膚を護るが骨は護れない。
みきみきと筋肉が潰され、その下の頸椎にまで震動が伝わる。
「 」
奴は咥えた私を軽々と持ち上げた。
四肢が床を離れ、地面が遠ざかる。
このままで首の骨を折られる。
だが。
だがどうすれば。
私は四肢をばたつかせたが、薬はおろか床にすら手が届かない。
赤ずきんの助けは望めない。
打つ手が、無い。
「 」
オオカミが勝利の予兆に身を震わせた。
口顎が笑みの形に歪み、口の端から新たな唾液が滴る。
これでは――
何の前触れもなく床が崩落した。
「 」
「 」
オオカミの口腔に残っていたザクロずきんの秘薬が唾液と共に滴ったからだ。
私がそれを理解したのは、凶悪な顎から解放され、宙に投げ出された瞬間だった。
遠ざかる灰色の夜空を見つめながら私は四肢をばたつかせた。
地が消え、どこにも体重を預けられない恐怖。
全身を包む毛がぴいんと立った。
空中で数度回転しながら、私は見た。
二階の床のあちこちに亀裂が入っていることを。
「 」
私は吠えた。
あらん限りの力で。
逃げろ、と。
次の瞬間、瓦礫の一つにしたたかに背を打ち付ける。
がふっと小さな肺から空気が漏れたが、私の身体は更にもう一度跳ねた。
ごふっ、と地に打ち付けられた私はそのまま数秒、四肢を投げ出していた。
脚。
まだ折れていない。
内臓。
まだ損傷していない。
頭。
正しく動く。
動ける。
私は動ける。
「 」
一度踏まれた昆虫のごとき惨めさで立ち上がる。
全身がずきずきと痛み、頭はくらくらする。気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「 」
真っ逆さまに落下したジェヴォーダンの獣が呻く。
空中で回転することもなく、ただずしんと落下したオオカミは衝撃で動けなくなっているようだった。
首の骨でも折れていれば儲けものだが、私が無事である以上、奴も無事と見るべきだ。
そして攻撃手段が無い今、奴に近づくのは危険だ。
私は首を巡らす。
一階は瓦礫と砂礫の山だった。
中庭には死臭を放つ穴が一つ。地下へ続く階段は水没している。
門扉の前には瓦礫が積み重なり、櫂船も落石でボロボロの状態だった。
「 」
私は中庭の穴へ向けて駆け出す。
そうしている間にも上階から石が落ち、砂が落ち、ばちばちと音を立てている。
すんすん、と軽く匂いを嗅ぐ。
それだけで一階の状態が手に取るように分かった。
進路をふさぐ瓦礫や、どこをどう通れば前へ進めるのかまで。
四人の赤ずきんは、まだかろうじて二階に踏みとどまっているようだった。
――――気づいてくれるだろうか。
「 」
私は一度大きく天に吠えた。
そして穴へ飛び込み、死した獣の真上に着地する。
子オオカミが立ち上がる気配。
奴もまたほんのひと嗅ぎで一階の現状と私の位置を把握する。
その足取りに迷いは無かった。
奴は私を殺さない限り、自身に安寧が訪れないことを悟っている。
じゃりっ、じゃりっ、じゃりっと朽ちかけた塔の中をジェヴォーダンの獣が駆ける。
私は思い切り口を開き、死んだオオカミの口腔に噛みついた。
むっと匂う死者の口から舌を引き抜き、柔らかい粘膜に覆われた頬肉を内側から食い破る。
みちみちと肉が裂け、筋が露出する。
私は顎を血と脂で濡らしながら、天から降り注ぐ様々な秘薬を感じ取っていた。
カエデずきんが作った青灰色の膏薬。ルビーずきんが作った鼠色の鼻薬。
バラずきんが作った淡黄色の香水。ザクロずきんが作った白い水薬。
リンゴずきんが作った黄褐色のリンゴ。
容器に収められた秘薬とリンゴは次々に獣の身を叩き、落とし穴の底をカラカラと叩いた。
どうやら私の意図は正しく伝わったらしい。
素早くオオカミの口から顔を出し、必要な薬の元へ駆け寄る。
手は使えない。私は二種類の薬を噛んで使った。
私が秘薬に辿り着いてから十秒足らずでオオカミが穴の中に降り立つ。
奴は当然秘薬の存在に気付いていたが、私に背を向けはしなかった。
自信から出た行動ではない。秘薬と私を放置して赤ずきんの元へ向かえば、確実に背を刺されると感じての行動だ。
奴は私の覚悟に気付き、恐怖を抱いている。
私は秘薬から顔を上げ、灰色の血に濡れた顎を奴に向けた。
ジェヴォーダンの獣は私を威嚇するかのごとく、長く大きく吠えた。
「 」
耳の奥に張った膜がびりびりと痺れる。
死した獣の体毛が震えていた。
距離、二十。
いや、今の脚なら三十歩。
私と私は同時に走り出した。
槍を手に向かい合った騎兵が馬の腹を蹴るように。
ざくっ、ざくっ、ざくっと地を蹴る。
近づくにつれ、奴の姿が大きくなる。
何もかも押し潰すような存在感。
かつて私の殺めた人々が見た、私の姿。
十歩。
五歩。
三歩。
奴の口が開く。
( )
奴の攻撃部位は「口」のみ。
オオカミは私を殺す時、必ず口を開ける。
私は開かれた奴の顎に鼻先を突っ込んだ。
「 」
オオカミは僅かにたじろいだが、それはほんの一瞬のことだった。
ばくんと口が閉じられ、私の鼻面と下顎が上下からの暴威によってひしゃげる。
骨が軋み、内部で血が噴き出し、激痛で目から涙が溢れる。
そこで初めて、口を開ける。
ぶふうう、と。
口腔に溜めていた甘酸っぱいモノを噴き出す。
「 」
がぶっと奴は呻いた。
そして私を解放するが、もう手遅れだ。
たったひと口。
私が摂取したのと同じ、ひと口。
リンゴずきんの秘薬はひと口でも効果がある。
まるで猛毒のように。
「 」
奴は首を振り、たった今飲み込んだものを吐き出そうとした。
そして同時に、なぜ自分が気づけなかったのかに思惟を巡らせていた。
私が口腔に収めたリンゴの匂いは鋭敏な嗅覚で察知することができたはず。
なぜそれができなかったのか。
「 」
――答えが出たらしい。
だがもう遅い。
いつだってそうだ。答えは出るのが遅い。
「 」
剛毛が抜け、代わりに小さな白い毛が生えていく。
ジェヴォーダンの獣は知らない。
自分が『何に』変わるのか。
大きな生物なのか、小さな生物なのか。
陸上生物なのか、水棲生物なのか。
前肢は手になるのか、それとも脚のままなのか。
モノを掴めるのか、掴めないのか。
背は伸びるのか、縮むのか。
感覚は何が残るのか。そしてどの感覚に頼る生物なのか。
変異しながら狼狽するオオカミ目がけ、私は飛びかかった。
奴に食わせたのは――――『カモメ』の刻印が残されたリンゴ。
選んだわけではないが、いきなり前脚が翼になったことでオオカミは激しく動揺していた。
体重を支える後足がもつれ、顔からべしゃりと床に落ちる。
その細い脚を。
ルビーずきんの秘薬でいくら硬質化しようと、脆いカモメの二本脚を。
――――私は噛み砕いた。
「 」
私の全身を包んでいた剛毛が抜け落ちていく。
糸よりも細く脆くなった体毛は僅かな空気の流れに溶け、消える。
耳に水膜が張り、鼻が粘液で詰まるような感覚があった。
鋭敏な嗅覚と聴覚を失うことに大きな喪失感を覚える。
視界が徐々に色彩を取り戻していく。
「っ」
鼻と頬、それに下顎は内出血しているらしい。
軽く手を触れた私は疼痛に呻き、気づく。
髪が露出している。
「……」
一糸纏わぬ姿になった私はすぐ近くに落ちていた自分の帽子を見つけ、頭に乗せる。
それでも半分ほど髪が見えていたので、誰のものとも分からない赤い頭巾で頭部の残り半分を覆った。
下半身は裸だったが、このままでも構わない。見られて困るものは過去だけだ。
ぽう、と。
一階に火が灯る。
一つ。二つ。
時間を置いて、また一つ。
私は七色の世界に感動すら覚える。
「りょうしさん……?」
「ああ」
私は灰色の髪を持つカエデずきんを見上げた。
彼女は穴の縁から恐る恐る顔を出し、私を見下ろしている。
私のすぐ近くには両足を砕かれ、翼をへし折られたカモメが惨めな姿を晒している。
死んではいない。
今はまだ。
「やっつけたんですか」
「ああ。終わったよ」
「ほ、本当ですか!?」
ルビーずきんが顔を出す。
彼女は危うく落ちそうになった茨の冠を掴み、慌てて頭に乗せる。
続いて顔を出したザクロずきんは困ったように頬を赤らめた。
その胸元では金色のカエルが光っている。
「……っ。ちょっと。何か着たら?」
「その前に水をくれないか。傷口をすぐに洗いたい」
「ん。ちょっと待ってて」
赤い光沢のある黒髪を流した血みどろずきんだけは私を見ても何も言わなかった。
「……」
彼女の腕には赤子が抱かれている。
今は泣き止んでいるようだが、いつまた泣き出すとも限らない。
ざああ、とカエデずきんとルビーずきんが穴へ滑り降りる。
続いて襤褸布と水を手にしたザクロずきん。
最後にゆっくりと血みどろずきんが――――
「そこで止まれ、血みどろずきん」
穴に降り立った少女はその場に縫い止められた。
私はザクロずきんに渡された水で傷口を清めながら、問う。
「……いつからだ」
「何のこと?」
血みどろずきんの顔から笑みが消えている。
赤ん坊はじっと彼女を見つめている。
「いつからだ」
「……」
たった今質問の意味が分かったとばかりに、女の顔に笑みが広がる。
「言ったじゃない。『最初から』だって」
「!! 猟師さん!!」
見ればカモメが赤黒く変色していくところだった。
まるで染料を浴びたような急激な変化だった。
剛毛が全身を覆い、目玉が膨らみ、嘴が顎に変わる。
体躯が伸び、四肢に筋肉が纏わりつく。
ただし、奴の脚はすべてズタズタに引き裂かれていた。
骨も肉の内側でへし折れている。走ることはおろか身を起こすことすらできないだろう。
こちらに目を向けたジェヴォーダンの獣が恨みがましそうに呻いた。
途端、血みどろ以外の三人が動き出す。
カエデずきんは見えない『何か』を手に駆けた。
ルビーずきんは剣を引き抜く。
ザクロずきんは水薬を獣の足元向けて投げつけようと構える。
赤子が泣き、血みどろが口を裂いて嗤う。
「動くな!! 『 』!!」
私は彼女の名を呼んだ。
そいつはぴたりと動きを止め、残りの赤ずきんが私を見る。
「……お前が魔女だ」
襤褸布を纏った私は冷たい穴底に腰を下ろし、すべてを語った。
かつてこの塔に住んでいた姫君、『oenarillan』。
若返りの秘薬とはじまりの赤ずきん。
効果を延長するために自らも秘薬の生成に手を出した『お后様』。
赤ずきんによって地位を脅かされるという鏡の予言。
そして生まれた『ジェヴォーダンの獣』。
鼻を持たず、言葉を持たず、ただ魔女への憎悪だけで赤ずきんを殺し続けるオオカミ。
予言への恐怖から自らは赤ずきんに手を下さず、しかし、鼻を持たないオオカミが標的を見失わないよう『秘密の合図』を送り続けた『魔女』。
その魔女に付き従った野心高い召使。
「……ちょっとまってください」
カエデずきんの唇から怒声に近い疑問が飛び出した。
「オオカミは私たちの匂いを嗅いでいなかったんですか?!」
「そうだ」
「それじゃ、バラずきんの薬は……」
「何の意味も持たなかったことになる」
「……」
でも、とザクロずきんが言葉を差し挟んだ。
「じゃあ、そこで死んでるソイツはどうやって私たちを追跡したの? 音と目?」
「いや、それは無理だ。狼は確かに人より優れた聴覚を持っているが、音だけで君らと他の人間を区別することはできない。……それから、こいつらは人間より遥かに夜目が利くが、その代わりに動かないモノを判別する能力はそこまで高くない」
「どういうこと?」
「外部の状況把握は鼻だけで事足りるからだよ。目が必要になるのは急に襲い掛かられた時や獲物を追う時、つまり機敏な動作が必要になる時だけ。だから狼の目は動かないものを曖昧にしか認識できない。数十歩も離れた位置にある『動かないもの』はほとんど見えていない」
それに、と私は重要な事実を加えた。
「これはたぶん犬にも当てはまる特徴だが――――」
私は死した怪物をちらと見た。
「狼は青と黄色、それに灰色ぐらいしかまともに知覚できていない」
「え?」
「本当だ。さっき見た。彼らの見ている世界には蛾の羽みたいな黄色と、濁った青と、灰色ぐらいしか存在しない」
信じられないのなら、リンゴずきんのリンゴを齧ればいい。
私はそう勧めてみたが、誰も首を縦には振らなかった。
私は小さな火皿に指先を近づける。
「人間はほとんどのモノを目で認識するだろう? 狼の鼻は人間の目に近い働きをしている。鼻を潰された狼というのは、人間で例えるなら目隠しをされた状態だ。ジェヴォーダンの獣はその状態で君らを追いかけていた。追跡の時、奴が何よりも頼っていたのは濁った色の風景や音じゃない」
「まじょの合図」
「ああ」
私は当初、その方法についてあれこれと思い悩んだ。
誰にも知られずに音を出し続けることはできないし、何かに文字や印を刻めば必ず誰かが発見してしまう。
手早く発することができ、決して誰にも知られず、後片付けが不要で、それでいて正確に赤ずきんの位置を伝える『合図』。
そんなものがあるのかとずいぶん悩んだ。
悩んだ結果、『そんなものは無い』という結論に至った。
そう。
無いのだ。秘密の合図などというものは。
より正確に言えば、『私の知覚の中には』無い。
これまでも。
そしてこれからも。
「血みどろずきん」
「なあに?」
「最初からだったのか」
「ええ。最初から。だって私、死ぬほど怖い目に遭うの大好きだし」
血みどろずきんは赤ん坊をあやし、踊るように舞った。
私は言葉を続ける。
「血みどろずきんは『合図』の外にいた」
「?」
「こいつは最初から死のうとしていた。つまり、『オオカミから身を護る方法』を放棄していたんだよ」
「体臭……!!」
ザクロずきんが柳眉を釣り上げた。
「やっぱりコイツ、香水使ってなかったの……?! じゃあコイツが……。ぇ……、でも……」
ああ、と私は少女の沈黙を引き取った。
「血みどろずきんはバラずきんの香水を一度も使ったことがないんだよ」
しばしの沈黙の後、カエデずきんが私を見つめた。
「……それはわかりました。でも、使っても使わなくても結果は同じなんですよね? オオカミは鼻を剥がれていたから」
「いや、同じじゃない」
「?」
「同じじゃないんだよ。なぜなら――」
私は狼の姿をしていた時に視た彼女達の姿を思い起こす。
鮮血に濡れたかのように真っ赤な輪郭。
頭巾も、髪も、スカートも、靴も。
彼女達は赤に濡れていた。
そして目と口だけにぽっかりと白い穴が開いていた。
「あの香水は確かにあらゆる匂いを消していた」
ただし。
匂いを消すと同時に。
「『狼にしか見えない赤』を君らに付着させていた」
空が白み始める。
どこかで気の早い鳥が鳴き、水面をちゃぽんと魚が跳ねる。
「狼の見ている世界には淡い黄色と薄い青と灰色しか無い。その中で、君らだけが真っ赤に染まって見えるんだ。ジェヴォーダンの獣はずっとそれを追跡し続けていた。……この『赤』は人間には決して知覚できないから、使った者はただ『匂いが消えた』だけだと思い込む」
だから今まで誰も気づけなかった。
オオカミに立ち向かった者たちが全員『人間』だったから。
真実に最も近い位置にいた召使も狼に変身することだけは忌避していたから。
「ああ、だから――――」
血みどろずきんは納得した。
「使わなかった私だけがいつも助かるのね」
私は先ほど狼に姿を変えた時、一人だけ体臭が消えていない赤ずきんがいることに気付いた。それは血みどろずきんだった。
そして体臭の消えている三人は例外なく真っ赤な姿をしていた。
つまり、そういうことだ。
臨死の興奮を味わうために香水を使わなかった彼女だけが、皮肉にもオオカミの索敵を免れていた。
血みどろずきんの家の前で私たちは香水を使った。
その時、私たちの全身にべっとりと『狼にしか見えない赤』が散布された。
私たちは荷車に乗ったが、霧状の秘薬は赤い痕跡を点々と残していた。
そこへジェヴォーダンの獣が現れる。
オオカミの視界はくすんだ黄色と青色で濁っているが、本来そこに存在しえない『赤』だけは遠くからでも容易に視認できる。
奴は私たちの残した赤を辿り、進路が魔女の塔であることを察知した。
そこから先は――――私が経験した通りだ。
一定距離まで近づいてしまえば点々と残された『赤』に頼る必要は無い。
現に塔に着いてからの奴は音を頼りにこちらの行動を探っていた。
ただ、奴が明らかに視覚に頼ったことが一度ある。
膏薬で透明化し、香水で匂いを消した鍋だ。
最後の攻防の中、奴は『透明で』、『匂いが無く』、『静物なので音が立つこともない』鍋、つまり『絶対に知覚できないはずの物体』を知覚していた。
オオカミはあの時、『赤』を見ていたのだ。
私たちには見えない『赤』。
誰も知らない赤を。
「え、え。でも」
ぱくぱくと魚のように口を開閉させていたルビーずきんが言葉を絞り出す。
「それって魔女が姿を隠すことには繋がらないんじゃ」
「ああ。いくら視力が人間に劣ると言っても、オオカミは目が見えないわけじゃない。それに音もだ。遠目に血みどろずきんの姿は見えづらくても、声は聞き取れる。それに近づけばきちんとその姿を目視できる。結論を言えば、オオカミは魔女を襲うことができた」
ただ、と私は付け加えた。
「『追跡』ができないんだよ」
狼は鼻を塞がれている。
かつ、遠距離の静物を視覚で受容する能力が低い。
その状態で、背景に溶け込んでいる魔女や召使と、化け物じみた真っ赤な姿を持つ赤ずきんを直視することになる。
赤ずきん達が動いた跡には赤い血煙のようなものが残る。
魔女と召使の動いた跡には何も残らない。
自分の目や耳を騙す赤ずきん達は一刻も早く、一人でも多く殺さなければならない。まして自分には夜明けまでという時間制限がある。
だからオオカミは優先的に前者を攻撃していた。
もし赤く染まっていないのが魔女だけだったなら、オオカミはその正体を看破していただろう。
魔女と召使の二人だけでも、いずれは真実に気づいただろう。
だが配布する香水の中身を操作することで、魔女は『赤』に染まる赤ずきんの数を毎回変えることができた。
三人目、あるいは四人目の「赤くない赤ずきん」の存在によって、オオカミは「赤くない赤ずきんこそが魔女」というごく当たり前の思考を狂わされる。
オオカミを無力化してしまうと「誰かの手で赤ずきんを殺させる」という本懐が遂げられない。
さりとて自分だけ完全に襲撃を免れれば、血みどろずきんのようにあらぬ嫌疑を向けられる。
だから魔女は自らに向けられる『追跡』の目だけを潰した。
狡猾な魔女は一見するとごく自然にオオカミから逃げ惑っていた。
一つ誤算があったとすれば、血みどろずきんが一度も香水を使わなかったことだ。
そのせいで、こうして思わぬところから真実が漏れ出した。
魔女は血みどろずきんを殺しておくべきだったのだ。
彼女の望みのままに。
空が白んでいく。
「――――ここまで考えた時、私の前には二つの結論があった」
私たちの視線を浴びたジェヴォーダンの獣が、姿を変えていく。
傷んだ四肢が縮み、毛が抜ける。
一糸纏わぬ裸体は水も弾くほどきめ細かい。
「一つは君に薬の作り方を教えた者こそが魔女だという考え方。もう一つは、君自身が魔女だという考え方」
今夜を最後の夜だと見定め、用済みの召使いに『本物の』秘薬を与えてオオカミの餌とした女。
「正直に言って、分かったのはついさっきのことだ。君は一度も不用意な発言をしなかったし、ここ数時間に限って言えば完全に口を噤んでいた」
密かにリンゴずきんに作らせていたのだろう。
狼ではなく『ジェヴォーダンの獣』に変身するリンゴを摂取し、夜明けまで効果時間を長引かせていた女。
「……ただ、君は一度だけ不用意な行動を取った。だから途中から私はこちら側の彼女達を全面的に信頼することができた」
姑息にも、自らの死を偽装した女。
「魔女はお前だ」
指を差す。
「バラずきん」
怒りに形相を歪めた金髪の少女が、私を見上げていた。
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