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六人の赤ずきん 作者:icecrepe
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14/17

4:00/誰も知らない終の赤

 
 落下した先はまるで真夜中の海のようだった。

 目に映るのは黒。
 前も。
 横も。
 下も。
 靴底が床に触れていなければ浮遊感すら感じたかも知れない。

 吹き抜けの向こうに見える夜空には星一つ浮かんでいない。
 これでは目隠しされているにも等しい。

 ――――いや、違った。

 上階の灯りだけが夜に抗うようにして光を放ち続けている。
 私は水底に潜む鯰が水面を見上げるようにして淡い光を見上げた。

「――――!」
「――!」
「――!」

 崩落の轟音によって三階に残された赤ん坊が泣き出し、赤ずきん達が私にしがみつく。

「大丈夫だ! 私を盾にしろ!」

 闇に蠢くオオカミが一瞬私に視線を向けた――――ように感じた。
 黄色い瞳も、紅の体毛も、闇の中では何一つ判別できない。
 奴の足音は小さく、赤子の泣き声にかき消されている。
 すんすん、すんすん、と匂いを探る音も次第に聞こえなくなる。

 奴が今どこにいるのか。
 いつ、どこから襲ってくるのか。私たちは感知できない。

「固まれ! 壁に背をつけなさい!」

 私は両腕を広げ、少女たちを庇いながら後退した。

「か、壁ってどっち?!」

「こっちですザクロずきん!」

 ルビーずきんの声に導かれ、ざざ、ざりり、と少女たちが後ずさる。

 このまま闇の中に棒立ちしていれば四方からの攻撃に備えなければならない。
 だが壁を背にすれば正面と左右だけに注意を払えば済む。
 警戒する方向が一つ減ることで私は攻撃に転じることもできる。


 ――――という考えは。読まれていると見るべきだ。


 とん、と一人の背が壁に当たった。
 その衝撃が残る三人の赤ずきんに伝わり、一瞬、安堵らしき吐息が漏れる。

 すかさず私は振り返り、四人を押しのけるようにして石壁へ突っ込んだ。
 落下地点から察するに私たちが背を預けたのは塔の内壁ではない。部屋の壁面だ。
 つまり――――

「っ!」

 ぼろろろ、と壁面が一瞬で顆粒化した。

 堆積した顆粒の中からオオカミが飛び出す。
 灰色の粒を纏うその姿は白波を帯びて海原から出現する鯨のようでもあった。

 完全に赤ずきん達の背後を獲ったはずのオオカミが、既に攻撃態勢に入っている私を見て驚愕する。
 ほんの一瞬、奴と私は至近距離で睨み合う。
 私は拳を握り、奴は牙を剥く。
 思い切り振り抜いた拳は空を切り、奴の牙は私の衣服を掠めた。

「っ」
「  」

 私は暗中ゆえに距離感を見誤っており、オオカミは思い切りが悪かった。
 振り抜いた腕から肩に痺れが走り、オオカミの歯ががちんと噛み合う。
 あやめもわかぬ闇の中、私たちはすれ違う。

「――!!」

 短い悲鳴を上げる赤ずきん達を通り過ぎ、人を撥ねた馬車のごとくオオカミが再び闇に消えた。
 獣の臭いが棚引く煙のように残される。

 私は再び赤ずきん達を庇う位置に立った。

「ザクロずきん。薬はあるか?」

「ごめんなさい。……さっき落ちた時――どこかに落としたみたい」

「探さなくていい」

 言うまでもないことだが、釘を刺しておいた。
 すぐ近くでルビーずきんがうな垂れる気配。

「私も……籠ごと落としたみたいです」

「わたしのくすりはあります」

 私はカエデずきんを見た。
 闇の中では灰色の髪も青い瞳も判別できない。
 対面しているのが本当に彼女なのかすら確信が持てない。

「貸してくれ」

「……」

 カエデずきんの沈黙に私は不穏なものを感じ取った。

「あら、まだ私を疑ってるの?」

 血みどろずきんは明らかにこの状況を愉しんでいるようだった。
 声の調子から彼女だけは背を丸めていないのが分かる。

「っふふ。さっき襲われたばっかりなのにね。『私は』」

「……」

「ところでさっき落とした私のナイフって今誰が持ってるの? あれお気に入りだったんだけど」

「血みどろ。ちょっと黙」

「もしかして魔女が拾っちゃったのかしら? それとも魔女を殺そうとしている誰かさんが――」

 たたっとオオカミが右方を駆け抜ける。
 赤ずきん達が一斉に音の方を見やった。
 私はそちらを見ず、二秒後に奴が駆けているであろう場所に目を凝らす。
 ――――見えた。
 いや、消えた。
 奴は私の視線に気づき、再び闇に溶けた。

(……っ)

 目を閉じる。
 どうせ闇なら見ても意味は無い。
 微かにオオカミの息遣いを感じる。
 奴は匂いを嗅ぎ、こちらの様子を窺っている。
 口から漏れた熱い息が、風に煽られた湯気のように移動している。
 ――――が、人間である私に追えるのはそこまでだった。



 ふぶうっと闇の中から粘っこいものが降り注いだ。



 思わず手で手で目を覆った直後、私と四人の赤ずきんの衣服がボロボロと顆粒化する。

「っ?!」
「えっ!?」

 ある者は頭巾を失い、頭を押さえた。ある者は肩の布地を失ったことでぺろんと垂れるブラウスを押さえているようだった。

(――――ザクロずきんの薬……!)

 水薬を浴びた帽子の半分が砂粒となって私の肩を叩く。
 押し込まれていた髪が露出し、ふわりと肩に乗った。
 闇の中なので私の髪に気付く者は居ない。

 再び、くしゃみにも似た音が響く。
 生温かい飛沫が降り注ぎ、頭巾や服の袖、スカートが顆粒化していく。

「これって、わ、私の薬……?!」

「そんなっ! オオカミには手なんかないのにどうやって薬を投げるんですかっ?!」

「口の中だ」

「え」

「口に含んだ薬を噴いている」

 言いながら、私はルビーずきんの肩を掴んだ。
 素肌に触れられた少女は悲鳴を上げたが、私はぐいと彼女を引き寄せる。

「ど、どうするんですか?! このままじゃ」

「どうもしない」

 何も恐れることはない。
 床が崩落した時点で、奴が薬を使うことは分かっていた。
 重要なのは攻め手に回り続けること。
 重要なのは、相討ちを恐れ、こちらの武器を破壊しようとするオオカミに一歩先んじること。

「ルビー。剣だ。剣はあるか」

「あ、はい。拾いました」

「床に置きなさい」

 鞘に包まれた剣が床に置かれる。
 私は懐に片手を入れ、それから長剣の鞘を払った。

「……薬を浴びたのか」

「え?」

 私は刃に指を這わせた。

「折れてるぞ……!」

 声が震える。
 刃は中ほどで途絶えており、僅かに指数本分の白刃しか残っていない。

「そ、そんな! 鞘は平気だったのに……!」

「その鞘、素材は革なのか」

「ちが、え? そ、そうなんですか?!」

「私に聞かないでよ! ち、血みどろ! あなた何か持ってないの?!」

「この状況で音を増やして攪乱になるかしら?」

 こちらの動揺を察知してか、オオカミが動いた。
 じゃりりと砂を踏む音。
 闇に目を凝らす。

 この暗闇ではどこから襲われるかも分からない。
 そして私一人ではルビーずきん、ザクロずきん、カエデずきん、血みどろずきんの四人を庇うことはできない。
 襲われるのは一人。護れるのも一人。

 読み違えるな。
 狙われるのは誰だ。
 読み違えばその子は死ぬ。
 誰だ。
 オオカミは誰を狙う気だ。
 私はどう動けば良いんだ。


 すん、と匂いを嗅ぐ音が止まる。


 地を蹴る音。
 尾が揺れる音。
 荒い息をつくジェヴォーダンの獣が矢のように駆ける。

(――――!)

 私は一瞬の判断を経て、最も凶悪な薬を作るザクロずきんを庇う位置に跳んだ。

 着地。
 一拍置く。

 すぐさま元の位置へ跳ぶ。
 壁で跳ねた玉が元の場所へ戻るように。

「  」

 闇から飛び出したオオカミが少女に飛びかかる直前でたたらを踏んだ。
 私が誰かを護るべく動いた後、そこに残される空白地帯へ滑り込もうとしていたのだろう。

 奴の進路に立ち塞がった私は見た。奴の顔を。
 驚愕に歪んだ醜悪な顔を。

 ルビーずきんの剣を掴み、強く踏み込む。
 全身の筋肉がみちみちと悲鳴を上げる。
 引き結んだ唇が緩み、弱音が漏れそうになる。
 奥歯を食いしばり、救われまいとする。

 闇の中、思い切り振り上げた剣をオオカミはすんでのところで回避――――できなかった。
 私の剣は奴の顔面を正確に捉えている。

「  」

 オオカミが狼狽する。
 それもそのはず。黄色い瞳に映った剣は中ほどでぽっきりと折れており、白刃の断面は奴にまるで届いていない。
 だが奴は確かに『斬られている』。
 『見えない刃』に『斬られている』。

 奴はようやく気づく。
 だがもう遅い。
 私の剣は奴の頭部に――

(ッ!)

 私が感じたのは肉を斬る湿った弾力ではなく、まるで石を叩くような硬質な手ごたえだった。
 ぎいんと弾かれ、私はよろめく。

 刃が皮膚に通らなかった。
 剛毛が刃を通さなかったのではない。こいつの顔は親と違って毛に包まれてはいない。
 石のように硬い皮膚。これはまさか。

(ルビーずきんの薬……!)

 皮膚を硬質化させるルビーずきんの秘薬。
 バラずきんが所持していたものか、もしくは誰かが落とした手籠の中から探り当てたのか。
 もしかすると私たちの鼻腔に残る僅かな匂いを嗅ぎ分け、用途を悟ったのかも知れない。
 いずれにせよ、これで――――

「  」

 不意打ちを受けたオオカミは着地すると同時にすんすんと鼻を動かし、低く唸った。
 どうやら気づいたらしい。
 私は先ほどルビーずきんの剣にカエデずきんの膏薬を塗り込んだ。
 それによって剣は中ほどから切っ先までが透明化している。

 オオカミは忌々しそうに唸ると後方へ跳び、再び闇へ。

(……仕損じた……!)

 恐らくこの手は二度と通じない。
 先ほどうまく行ったのは、秘薬で私たちを翻弄したジェヴォーダンの獣が興奮していたからだ。

 奴の本質は『狼』だ。本来なら暗闇の中でも匂いや音で私の行動を子細に把握することができる。
 それに目も良い。
 犬や狼は夜の闇の中でも木々に頭をぶつけたり、何かに足を取られたりはしない。
 立て続けに攻め手を読まれた奴はこれまで以上に私たちの動きを注視するに違いない。

 どこかに。
 どこかに死角は無いか。
 奴の知覚に死角があれば私はそこを――――

(……!)

 今、何かが掌を掠めた。
 物理的な何かではないが、それは確かに糸の形をしていた。
 糸口。
 魔女とオオカミの謎を解き明かす糸口を、今、私は感じた。

(死角……)

 魔女とオオカミだけが知る合図。
 私はそれを目や耳で辿り、鼻や手触りの中に見出そうとした。
 ――――違う。探すべきものはそうしたものではない。

 思い出せ。
 魔女がオオカミを避ける方法は側近のリンゴずきんですら『気付けなかった』。
 何年、何十年もの間、誰一人として『気付けなかった』。
 それはつまり――――私にも『気付けない』ということ。

 気づけるのはただ一人。
 いや――――

「す、すごいです!」

 ルビーずきんが無邪気に喜ぶ声が私を現実に引き戻す。

「猟師さん! オオカミがどこかに逃げて行きました!」

(いや、違う)

 私は焦燥を覚えていた。
 ジェヴォーダンの獣は秘薬を手にしたことで気を大きくした。
 わざわざ搦め手など使わずとも私たちを仕留められる。
 そう考えて襲い掛かって来た。

 だが今の攻防で奴は二度も失態を犯した。
 特に二度目はルビーずきんの秘薬が無ければ命取りになるほどの読み違えだった。
 奴は己の迂闊さを呪ったはずだ。そして今、頭を冷やしたはずだ。
 次に奴が打つ手は――――

「っ。離れろ!!」

 間一髪のところで私たちは降り注ぐ水薬を回避した。
 次の瞬間、床が崩落する。
 一歩下がれば二歩分崩れ、二歩下がれば三歩分。
 私たちは石橋で立ち往生したジェヴォーダンの獣と同じように崩れゆく床から逃げ惑う。

「ルビー! ど、どっちにいけばいいんですか!」

「ごめんなさい! わ、分かりませんん!」

 ぼろぼろと塔が崩落していく。
 一階へ落ちて行くのは顆粒だけではない。
 床を失い、壁を崩され、漆喰を蝕まれた寝室や厨房が木組み細工のごとく次々に落下する。
 砂塵が舞い上がり、耳を塞ぎたくなるほどの轟音が響く。
 だが耳は塞げない。
 皆、手に手を取り、安全な場所を目指して走るので精いっぱいだ。

 握った少女の手がじっとりと汗ばんでいる。

「ハっ……はっ」

「っ……ふっ……!」

 逃げ延びた先でどうにか壁と石床を確かめた私たちは肩を上下させていた。
 私はともかく、赤ずきん達が危険だ。
 そろそろ本当に動けなくなってしまう。

 誰もが暗闇にじっと目を凝らしていたが、オオカミを捕捉することはできなかった。
 逆に、奴からは私たちの姿が丸見えだ。
 そしてオオカミはザクロずきんの薬が続く限り、こちらの足場を奪い続けることができる。

 持久戦になるか。
 いや。
 足場を減らされた状態で奴に襲い掛かられたら終わりだ。

(どうする……! 何か……!)

「! アイツ上の階までっっ!!」

 ザクロずきんの叫びを聞くまでもなく、私は上階の一部が崩れる音を聞いていた。
 ぱらぱらと雨が地を叩くように顆粒が降り注ぐ。
 私たちが通路に残した品々が転がり落ちる。
 手籠がひっくり返り、中身が飛び出す。
 壺が割れ、金属の棒が散らばる。
 赤ん坊の泣き声だけはまだ遠い。灯りもまだ、かろうじて光を放っている。
 だがこのままでは危険だ。
 冷静さを取り戻し、安全地帯から攻撃を繰り返すようになったオオカミに私は手も足も出せない。
 いや、違う。
 出すのだ。手も、足も。
 刺し違えてでも奴は殺す。
 その為にできることを考えろ。

「――っ」

 小さなカエデずきんとルビーずきんが、母親の乳房に吸い付く子豚のごとく私の胸へ顔を寄せた。
 ザクロずきんは荒い呼吸を繰り返しており、血みどろずきんは恍惚に浸っているようだ。

(考えろ……)

 オオカミが私に目を凝らしている。
 オオカミが耳を立て、鼻をひくつかせている。
 もはや何かを隠すことはできない。
 次に奴が動き出した時、私はそれを食い止められるだろうか。
 私は――――




 とと、と。
 何か硬く弾力のあるものが落ちる音がした。




 と、とと、ととと、と立て続けに幾つかの音が重なる。




 音のした方へ顔を向ける。
 微かに酸い匂いが鼻腔に触れた。

 ――――リンゴだ。

「!」

 誰かが持ち込んだ飲み水代わりの果実ではない。
 これは血みどろずきんが籠ごと拾っていたリンゴずきんの秘薬だ。
 一時間だけ別の生物に変身することができる秘薬。
 ジェヴォーダンの獣を生み出した忌まわしい秘薬。

(――――)

 私はすぐ傍まで転がって来たリンゴを掴んだ。
 宵闇に浮かび上がるほど真っ赤な果皮には狼の紋様が刻まれていた。

 狼。
 リンゴずきんを含むすべての赤ずきんにとって最も恐ろしく、畏怖の対象である生物。
 その生物に変身する果実を作ったことを血みどろずきんは悪趣味だと言っていた。
 確かに悪趣味だ。赤ずきんの誰かがこの存在を知ったらきっと怒っただろう。
 だから誰にも知られないよう籠の奥底にしまわれていたのだ。事実、血みどろずきんもすぐには気付けなかった。

 リンゴずきんが自発的にこんなものを作るとは思えない。
 『はじまりの赤ずきん』の末路を目撃したリンゴずきんは忌まわしい狼に化ける薬など決して作ろうとは思わない。
 ――――誰かに命じられない限りは。

 命じたのは誰だ。
 そしてなぜ命じたのか。 

「りょうしさん」

 私は喉までせり上がった弱音を飲み込んだ。

「……一時間で戻る。そこでじっとしていなさい」

「あら、一人だけ逃げちゃうの?」

「逃げないよ」

 どうせ、追いつかれる。
 だから今日。
 私は贖罪を果たす。

「これは奴を逃がさないためだ」



 毒々しい赤味を持つリンゴを齧る。
 さりり、と甘酸っぱい味が口内に広がった。


 水すらろくに口にしていなかったので、甘酸っぱい果汁は全身に染みこむようにも感じられた。
 たったひと口。
 ほんのひとかけらを嚥下したところで、私の肉体に異変が生じた。

(――――!)

 内臓がじたばたと暴れ出した。
 まるで内側から食い破られるような感覚。
 全身の穴という穴から針じみた体毛が生える。
 手の甲が剛毛に覆われ、指が縮み、二本脚で体躯を支えることが難しくなる。

「ァ――」

 跪いた私は両手を見つめていた。
 爪が歪み、背が丸まり、レギンスが破れる。
 帽子が外れ、露出した髪が縮み、背や臀部にも剛毛が生えていく。

 目の高さが下がっていく。
 顎が地面に近づく。

 暗闇に包まれていた世界が色彩を帯びていく。
 いや、色彩が失われていく。
 これは――――


「   」


 私は水音を聞いていた。

 水面にうねる水が渦を作り、波形を作り、やがて凪いでいく音。
 それからイラクサが夜風に揺れる音。
 石橋の断面から剥がれ落ちた礫が堀にちゃぽんと落ちる音。

 崩落し切った瓦礫の上にさらさらと顆粒が降る音。
 オオカミの息遣い。
 どくんどくんという赤ずきん達の心音。

 望遠鏡を覗くことで人は遠い景色を近くに感じることができる。
 今の私の耳はまさにそれだ。遠い場所で立つ音をすぐ近くに感じることができる。
 近くの音はより近く。そして正確に聞き取れる。

「――――!」
「――――?」
「――!」

 赤ずきん達の声は私の頭上から聞こえていた。
 甲高い声ばかりだったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。



 すううう、と匂いを吸い込む。

 私は自分を取り巻く世界の有り様を完全に理解できた。



 辺りには微小な匂いの粒が充満しているように感じられた。
 堀の向こう、石橋の更に向こうの土地に狼が集まっている。
 彼らは全身から怯えた匂いを発していた。ジェヴォーダンの獣に恐怖しているのだ。
 だが彼らは怯えながらもなぜか堀を取り囲んでいる。

 堀に意識を向ける。
 水面からは湯気よりも密度の高い『水の粒』が花粉じみて立ち昇っている。
 堀の手前にはイラクサがあり、折れた茎から青臭い匂いが放たれていた。
 石橋に残る靴の匂い。断面から漂う歳月を経た石の匂い。

 土の匂い。中庭に茂る草の匂い。
 地下に続く階段を満たす堀の匂い。
 世界は色彩を持たないが、賑やかな匂いに満ちている。

 ジェヴォーダンの獣が死んでいる。
 血と、汗と、怒りと、憎悪が染みついたけだものの匂い。
 死んだ獣からは既に別の生物の匂いが漂っている。蠅か、黴か。それとも目に見えないほど小さな生き物か。

 一階から二階へ匂いを辿る。
 冷たい寝室に残された肉塊の匂いを感じる。
 香水の効果が切れたのだろう。私は血と脂の濃い匂いを感じた。
 ズタズタに引き裂かれた衣服の匂いや仄かに残る石鹸の匂いまでも。

 そして自分の立つ場所へ。

 オオカミの匂いがする。
 奴は僅かに驚いているが、少しずつ気持ちに余裕を持ち始めている。
 ジェヴォーダンの獣である自分と、ただの狼に成り果てた私。
 体躯と筋力の差は明らかだ。
 奴は冷静に現状を分析し、それから嗤った。
 興奮の匂いが血液に乗って奴の全身を巡るのが分かる。

 私はほんのひと吸いでこれほどまでの匂いを感じ取っていた。
 思考が感覚に追いつかないほど、世界が匂いに満たされている。
 人間が目で世界を見るように、狼は匂いで世界を「視る」のだろう。

 私は舌を垂らした。
 そしてもう一度だけ、確かめるように匂いを吸う。


 色とりどりの匂いが充満した世界の中に、空白地帯があった。
 赤ずきん達だ。
 彼女達の匂いはバラずきんの香水によって完全に消し去られており、そこだけぽっかりと穴が開いたかのように何の匂いもしなかった。

 いや、一人だけ体臭を放つ者が居る。
 濃く、甘い匂いを持つ赤ずきんが一人。


 私は振り返った。
 そして、魔女の正体を知った。

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