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六人の赤ずきん 作者:icecrepe
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13/17

3:00/誰も知らない欲の赤

 
 赤ずきん達が退避した『精鋭の部屋』にたどり着いた私は凍り付いた。

 鬼気迫る表情で剣を振り上げたカエデずきん。
 姉妹ほども身長差のある少女に馬乗りにされた血みどろずきん。
 その光景は古い悲劇を想起させた。

(ッ!!)

 ザクロずきんは咄嗟に駆け出そうとしていたが、腕の中の赤子を放り出せない。
 剣を奪われたルビーずきんは尻もちをついている。
 カエデずきんを止める者はもう誰もいない。

「やっ――――」

 やめろ。
 制止の言葉が喉を通り過ぎた時には既に、カエデずきんは刃を振り下ろしていた。
 ぎいん、と刃が石床に弾かれる。
 暗中に光の粒が散り、思わず片目を閉じる。

「……」

 僅かに舞い上がった血みどろずきんの黒髪が失望したかのように床へ垂れた。
 数条の毛髪が闇の中を流れ、呆然としていた私たちも我に返る。

「カエデずきん! やめなさい!!」
「カエデちゃん!」
「カエデずきんっっ!」

 狼のように息を吐く少女がこちらを見た。
 灰色の髪を振り乱し、目を血走らせたその姿はまるで老婆のようだった。

「こいつ……こいつがっ!」

 悲憤に顔を歪ませたカエデずきんは血みどろずきんを指差した。
 殺されかけた赤ずきんは両手両足を投げ出した格好のままだった。
 その顔には興奮した笑みが浮かんでいる。

「ば、バラずきんが……死んでっ、死んで、良かったってっ……!!」

 その瞬間、ザクロずきんとルビーずきんが殺気立った。
 スカートが怯えたように翻り、半ば闇に隠れた顔面に四つの目玉がぎょろりと浮かぶ。
 あえかな光を放つ炎が錆びた皿の上で揺れた。

「っふふ。だってそうでしょ?」

 血みどろずきんは悪びれもせず、それどころか怯えもせずに両手を広げていた。

「こんなふうに追い詰められて、恐怖に飲み込まれて死ぬよりは、ああやってひと思いに殺してもらった方が楽じゃない?」

「よくもそんなことを……!」

「りょうしさん!!」

 カエデずきんの怒声は私の耳をばちんと叩くようだった。

「わ、わたしい、いわなっいですけど……。でも、こいつ……こいつはっ……!」

 私は黙ってカエデずきんに近づき、ひざまずいて背を撫でてやった。
 途端、彼女は文字通りわっと声を上げ、私の胸に顔を埋める。
 閉じた目から熱い涙が溢れ出し、首を濡らす。

「うっ……うっ」

「……」

 私は黙って彼女の頭や背を撫でた。
 もっとも、妙な挙動を見せたら即座に手首を折ってやるつもりではあったが。

 忘れてはならない。少女は少女を装う。
 ついさっき小鳥のような目で私に助けを求めたカエデずきんがこうも豹変する。
 彼女に限った話ではない。
 今は傍観者を決め込んでいるルビーずきんも、ザクロずきんも、あるいは血みどろずきんも。仮面を外すような気安さで弱さと強さを使い分ける。

 顔、声、言葉。
 表情、仕草、涙。
 彼女達の言動を真に受けてはならない。

 私はもう誰も死なせはしない。 
 その為に全員を疑う。

 私はカエデずきんを抱きしめたまま、全方位に感覚を向けていた。
 血みどろのずきんの薄笑み。ルビーずきんが唾を呑む音。ザクロずきんの静かな囁き。
 ほんの少しでも不穏な動きがあればすぐにでも飛びついてやる。
 その決意が淀んだ空気を伝って彼女達にも届いたらしい。
 ただならぬ緊張感が室内を満たした。

「……ッ。……」

 短い嗚咽の果てに、カエデずきんは真っ赤な目で私を見上げた。

「何があった?」

 私の声音から何かを悟ったのだろう。
 カエデずきんの表情から媚びるような色が薄らぎ、後には無表情が残される。
 それでいい。
 私は本気だ。今の私はお前も疑っている。
 言動に僅かでも怪しいものが見えたら、そこからお前の本性を引きずり出す。

「……死んだのは、リンゴずきんとバラずきんです」

「ああ」

「ふたりとも、ここに来る途中であいつと一緒でした」

「……!」

 そう言えば。
 ここへ来る荷車は私、ザクロずきん、カエデずきん、ルビーずきんの組と、血みどろずきん、リンゴずきん、バラずきんの組に分かれていた。
 死んだのは血みどろずきんと一緒だった二人だけ。
 死神血みどろずきんと一緒に居た者は必ず命を落とす。
 そして当の死神は嗤い続ける。

「あいつは死神なんです……!」

 首だけをこちらに向けた血みどろずきんはおどけたような笑みを見せた。
 私は奥歯を噛んで感情を飲み込んだ。
 怯えるな。理解しろ。
 不安に思うな。対処しろ。
 すべてを疑え。疑わしい血みどろずきんを疑うカエデずきんすら、疑うのだ。

「……血みどろずきん」

「なあに?」

「お前は死神なのか?」

「私が骸骨に見えるかしら?」

 ともすれば私を誘惑しているのではないかと思うほど甘い声音。
 私は深紅の瞳から目を逸らさず、続ける。

「血みどろずきん」

「なあに?」

「お前は……魔女か?」

「はいって言ったらどうする?」

 私は軽口に応じなかった。
 ただ彼女の真意がどこにあるのかを見極めようとする。

 彼女は今何を考えているのか。何を感じているのか。
 この顔は本当に笑っているのか。恐怖の色は見えないか。
 何かをごまかそうとしていないか。しているとしたら、それは何だ。

 黒髪の赤ずきんは私の反応を窺うと、退屈そうに唇を尖らせた。

「じゃあ『はい』って言ってあげない」

(……)

 こいつは、一体何なんだ。

 彼女の周りでは毎年多くの仲間がジェヴォーダンの獣に食い殺されてきた。
 今までは強運のお陰で生き延びてきたらしいが、もはや彼女の命運も尽きかけている。
 このままオオカミに追い詰められ、噛み殺されるか。
 それとも一か八かに賭けて塔を飛び降り、ひしゃげた死体になるか。
 運よく生き延びて堀を泳ぎ、溺死するか。
 よほど強い意思の持ち主であるか、強い意思の持ち主が自分を護ってくれると確信していなければ、自らの末路はほぼこの三択だと察してしまうはずだ。
 なのに、彼女は嗤っている。

 今夜は『魔女』の存在も明らかとなった。
 ジェヴォーダンの獣を生み出し、赤ずきんを憎む魔女。いわば諸悪の根源だ。
 言いがかりに近いとは言え、生き残った三人の赤ずきんは血みどろずきんに嫌疑を向けている。
 濡れ衣を着せられ、不当な疑いを持たれ、殺されかけた。
 なのに、彼女は嗤っている。

 私が彼女の立場なら自分が赤ずきんの味方だと証明するために奔走するだろう。
 なぜなら、今この状況で魔女の疑いを向けられるということは死を意味するからだ。
 その死とは――

「猟師さん」

 ルビーずきんの震える唇が言葉を紡ぐ。




「この人、下の階に落としてみませんか?」




 私は息を呑んだ。
 彼女の提案にではない。彼女の態度にだ。
 ルビーずきんの唇は震えていたが、瞳は揺らいでいない。

 じっ、と。
 私を睨むように見つめている。
 忠犬を思わせる彼女もまた、少女を装う。

「私たちの中に魔女がいるんですよね?」

「ああ」

「リンゴずきんとバラずきんは死にました。あの二人は魔女じゃなかった」

 異論は無かった。
 カエデずきんを抱く私に近づいたルビーずきんは冷え冷えとした声音で続ける。

「私たちの中にいる魔女は、オオカミには狙われない。ですよね?」

「ああ。おそらくな」

「ザクロずきんはその子を助ける時にオオカミに狙われていました」

 赤子を抱いた少女の胸で金色のカエルが光る。
 その顔は赤いずきんに半分ほど隠れている。

「覚えていますか? 大きなオオカミと戦った時、下の階に落ちたカエデずきんとバラずきんもオオカミに狙われていました」

 覚えている。
 壁を破砕されたことで二人が同時に上階から落下し、ルビーずきんが手当たり次第に物を投げつけた時のことだ。
 あの時、オオカミは二人に殺意を向けていた。

「残っているのは私と血みどろずきんだけです。私たちはオオカミに襲われていません」

「――――!」

 私は立ち上がろうとした。
 が、カエデずきんが上着をぐっと掴んでいる。
 思いがけない強い力で。

「すわったままでも聞けるはずです」

 至近距離で私を見つめる明るい青の瞳。
 酷薄さすら覗かせるカエデずきんの無表情を私は睨み返した。
 ルビーずきんは剣の鞘にひたひたと腿を叩かれながら歩み寄る。

「その人を……血みどろずきんを下の階に落としましょう。もしオオカミが血みどろずきんを襲わなかったら、そいつが魔女です」

「――「仮定のはなしです」」

 カエデずきんの声が私の反駁を押し潰した。

「今このしゅんかん、だれかが魔女だとはだれもいっていません」

「……」

 喉元に刃を突き付けられるような気分だった。
 カエデずきんは今、明確に私に敵意を向けている。
 信頼に裏打ちされた敵意。
 私を信用に足ると考えているからこそ、カエデずきんは衝突を避けようとしない。

「ルビーずきん。オオカミがその子を襲ったら?」

 ザクロずきんは答えの分かり切った問いを投げる。

「その時は……きっと私が魔女です」





 息をするのも躊躇われるほどの沈黙が続いた。
 階下のオオカミがとうとう最後の光源を殺したせいか、塔の内部はいよいよ暗黒に満たされる。
 バラずきんの放つ血臭も、地下から匂う真水の生臭さも、今は遥かに遠く感じられる。

「猟師さん。私と血みどろずきんの手足を縛ってください」

 それで、とルビーずきんは続ける。

「縄を使ってその人を吊るしてください。別に殺すことはありません。オオカミが届くか、届かないかのぎりぎりの高さがいいです」

 ルビーずきんはとても上手に嘘をついた。
 だが、「本当は殺そうとしているだろう」と喝破しても平然と反論しそうな目をしていた。
 忠犬ではない。今の彼女は猟犬だ。

「もしオオカミがその人に噛みつかなかったら、私を殺してください。私は――」

 ルビーずきんはそこで初めて唾を呑んだ。

「私は自分が魔女ではないことを信じていますけど、もしかしたら違うのかも知れません」

「違う……?」

「眠ったまま料理をする人をご存知ですか」

 私が首を振ると、ルビーずきんは滔々と語り始めた。

「世の中にはそういう人がいるそうです。夜中にいびきをかきながらベッドから立ち上がって、火を熾して、肉を焼いて、野菜を切って、スープを作った男の人の話です。その人は料理を作ると眠ってしまって、次の日の朝、なぜそこに料理があるのか理解できなかったそうです」

「まじょも、そうだと思うんですか?」

「まったく同じだとは限りません。でも私は今日まで魔女の存在にこれっぽっちも気付けませんでした。他の大人たちも全員です」

 いばらの冠を頭に乗せた赤ずきんは、決然とした顔つきで私たちを見回した。

「普通の考えの先に、たぶん答えはありません。普通じゃないことを考えないとダメです。私が眠っている間に魔女になっているのかも知れません」

 ルビーずきんが眠っている間だけ姿を現し、悪事を働く。
 何らかの秘薬でそれを実現できるのなら、今まで誰も魔女の存在に気付けなかったことも納得できる。

 だが私はルビーずきんの推理が致命的に誤っていると感じていた。

 魔女は確かに狡猾で慎重だが、臆病では断じてない。
 せっかく手に入れた『永遠の若さ』を満喫できない人生など彼女は我慢ならないはずだ。
 オオカミが子供や若い赤ずきんしか狙わない理由もおそらくそこにある。
 魔女は息を潜めてはいるが、隠れる気はさらさら無い。醜い老婆に化けるとか、重たげな妊婦の振りをするのは魔女にとって耐え難い苦痛なのだ。
 魔女はあくまでも己の美と若さにこだわっている。誰かの影に隠れるなど考えもしないのだろう。

 それにもし『眠りに隠れる』ことができるのなら召使――リンゴずきんは真っ先にそれを書き記しただろう。
 魔女は自らの肉体と顔を晒している。これは間違いない。

(……)

 ここに魔女の正体を見破ることの難しさがある。
 魔女はオオカミに襲われない。そして周囲を欺きながらオオカミを赤ずきんにけしかけ続けている。
 だが彼女の言動は召使であるリンゴずきんに監視され続けていた。
 『若返りの秘薬』と『効果を延長する秘薬』以外の秘薬を使ったり、不穏な挙動を見せれば確実に召使が察知しているはず。
 記録を信じるのであれば、召使いもまた魔女の立場を奪い取る機会を虎視眈々と狙っていた。更に彼女の能力は動物に化けることだ。家探し程度なら何度もやったに違いない。
 それでもリンゴずきんは『若返りの秘薬』『効果を延長する秘薬』以上に重大な『何か』に言及していない。
 つまり魔女は自分の姿を偽ることなく、自然に赤ずきんに溶け込んでいるのだ。
 記憶を操作したり、幻を見せたりしているわけではない。
 リンゴずきんが唯一分からなかったのは魔女が『オオカミを避ける方法』だ。

(『オオカミを避ける方法』もリンゴずきんの目には不審に映らなかった、ということか……?)

 私は首を振って思考を振り払った。
 今はまず眼前の事態に対処しなければならない。

 ルビーずきんの推理はおそらく誤りだが、その発想法には一理ある。 
 何十年も、誰も正体を突き止められなかった魔女。
 その正体を見破る方法が正攻法であるわけがない。
 奴は私たちの『死角』に『何か』を隠している。

「私、カエデずきんが魔女だと思っていました」

「え」

 ルビーずきんは申し訳なさそうに頭を垂れたが、言葉は止まらなかった。

「あなたには親がいないからです」

「……」

「もし私が魔女だったら……カエデずきん。あなたが私を殺してください」

 ルビーずきんは両手を差し出した。
 処刑人に首を差し出すように。

「……わかりました」

「でも、もし血みどろずきんがオオカミに襲われなかったら、すぐにそいつを殺してください」

 ルビーずきんは自らの所作を血みどろずきんにも見せつけていた。
 お前も同じことをしろ、と暗に命じている。
 従わなければ、それは自白したも同然だ、と。

「やってください、りょうしさん」

 私にしがみつくカエデずきんは、今や私を逃がすまいと捕えているようにも見えた。
 彼女は私の耳元で囁く。

「りょうしさん。ルビーずきんと血みどろずきんをしばってください」

「――――」

 どうする。
 確かに血みどろずきんをオオカミに差し出すというのは魅力的な提案だ。
 こうやって思考に没頭しても魔女の正体を見極められるとは限らない。
 血みどろずきんをオオカミの前に差し出せば、ほんの数秒で万の思考にも勝る結果が得られるかも知れない。

 だが。
 だがそれは――――

「猟師さん。魔女の正体、分かっていないんですよね?」

「ああ」

「考えればいつか分かりますか? 下のオオカミがここへ登って来るまでの間に」

「分からない。だが魔女を殺せばオオカミが止まるとも限らない」

「でもいかしておけば、わたしたちの邪魔をします」

(……)

 分かっている。
 結局のところ、それが一番手っ取り早いのだ。

 魔女を殺すだけではダメだ。その後、オオカミも止めなければならない。
 分かることならただちに魔女の息の根を止め、オオカミの対処にすべての知恵と労力を注がなければならない。
 私たちには時間が無い。そしてもはや勇気も体力も僅かしか残されていない。
 ここで判断を誤るわけにはいかない。

 これが最善なのだ。
 血みどろずきんを二階に下ろし、オオカミの反応を探ることが。
 構いはしない。
 血みどろずきんは先ほどから言葉一つ発さないし、これまでさんざん奇矯な言動で私たちを振り回してきた。
 疑われたくないのなら、振る舞いようはいくらでもあった。
 これは血みどろずきん自身が招いた結末だ。
 だから、仕方ない。

 だから――――



「そんなことはさせない」



 私はルビーずきんの提案を一蹴した。

「なっ……何でですか?!」

「間違っているからだ」

「私たちとりょうしさんの命がかかっています。なのに、何がまちがっているんですか」

「分からないのか?」

「わかりません。いきるためにあらゆる手を尽くすことのどこが悪いんですか」

「……。自分たちが助かるために、ただ疑わしいだけの誰かをオオカミの前に吊るす――――」

 私は目を細め、吐き捨てた。

「そんなことをやる奴は人間じゃない。魔女だ」

 はっとカエデずきんが息を呑んだ。
 ルビーずきんも、ザクロずきんも。

「今この場で新しい魔女になるつもりなら、私はただちに君らを殺す」

「……」

「私が助けるのは赤ずきんだけだ」

「ふっ……ふふっ」

 そこでふと血みどろずきんが笑いをこぼした。

「ふ、くっ。ふふっ……く、き、ふっ!」



 仰向けになったままカタカタと震えた血みどろずきんは。
 ――――出し抜けに、大笑いした。



「アッハハハハハハッッ!! なぁにそれ?! すごい!! 私を吊るすの?!!! あはははっっ!!」

 深紅の瞳を涙で濡らした少女は素早く身を起こし、凄まじい速度で私に迫った。
 思わず怖気が立つほど異様な動きだった。

「やりましょう、それ!」

「何?!」

「やるべきよ、それ!」

 虚を突かれた私の目と鼻の先に血みどろずきんの満面の笑みが近づいていた。

 口を閉じていれば美人、なんて言葉がこの世で一番似合うのは彼女だろう。
 極上の蝋燭を削り落としたかのように白く華奢な肢体。凛然さすら感じるほど端正な顔立ち。
 赤い光沢を放つ美麗な黒髪。吸い込まれるような紅い瞳。
 おぞましい色香に中てられた私は眩暈を感じた。

「吊るして! 私を!」

 当のルビーずきんが困惑し、私から身を離したカエデずきんに至っては怯えすら見せている。
 私は血みどろずきんに肩を掴まれ、思わず呻いた。

「吊るしたりはしない。そもそも縄が無いだろう」

「じゃあ私の髪を使えばいいじゃない」

「何?」

 聞き返すことすらできなかった。
 血みどろずきんは懐から銀色に光るナイフを取り出し、赤い光沢を放つ髪を――――

「待ちなさい!」

 私が手首を掴んで止めなければ、彼女は髪を根元からばっさり切っていただろう。
 それほどまでに思い切りよく、彼女は黒髪にナイフを走らせていた。
 耳元で編み込んだ部分が本物の縄のごとくぼとりと床を打つ。

「何をするんだ。やめなさい!」

 私がナイフを遠くへ放り投げると、彼女は白けた顔を見せる。
 まるで制止した私が悪者であると言わんばかりの目つきだった。

「……じゃあ、縄なんて使わなければいいじゃない」

「は?」

「試させてあげる。私が食べられるかどうか」

 ばっと血みどろずきんは立ち上がった。
 そして瞬く間に部屋の外へ飛び出す。

(あいつまさか)

 私もまた弾かれたように立ち上がる。
 通路に飛び出すと、既に血みどろずきんは崩れた床の近くへ駆け寄るところだった。

「まっ……待ちなさい! 血みどろずきん!」

「ふふっ! 待たな~い」

 風見鶏のようにくるくると回る血みどろずきんに、私は無我夢中で飛びついた。
 彼女の靴の下でぼろりと瓦礫が崩れ、階下の床を叩く。

「危ないだろう!」

「そうね」

「そうねじゃない!」

「……私が本当に魔女だったら、どうするつもりだったの?」

 血みどろずきんは軽い所作で私を突き飛ばそうとした。
 確かに今彼女が身をかわしていたら、私は二階へ落下してそのままオオカミに殺されていただろう。
 それをしないから魔女ではない、と言いたいのか。
 それとも他に意図があるのか。

「!!」

 ぶおっと一陣の風が吹いた。
 それがオオカミの跳躍によって生まれた風だと気づいた私はほとんど反射的に血みどろずきんを押し倒した。

 顎が閉じる音。
 びびいい、と。スカートが裂ける音。

「くっ!」

 私は三階の縁まで跳躍したオオカミの鼻を蹴り、距離を取った。
 二階の闇に落下したジェヴォーダンの獣は淀みなく着地し、その場を離れる。

「大丈夫か?!」

 血みどろずきんのスカートは膝の辺りまで破れており、艶めかしい脚が覗いていた。
 掴めば折れるほど細い足首が覗き、ただならぬ濃く甘い香りが鼻腔を掠める。

 一歩間違えれば足首を噛み千切られていたかも知れない。
 その恐怖が血みどろずきんを凍り付かせ―――― 

「あははははっ!!! あぁ~~~~楽しいっっ!! っふふふっ!」

 狂ったように笑い転げる血みどろずきんを見下ろし、私は顔面を強張らせた。

 こいつ。
 こいつは本当に頭がおかしい。

 死ぬところだったんだぞ。
 あとほんの少しで、二階に引きずり込まれていたかも知れないんだぞ。
 なのにどうして――――

「……リコリス。いい加減にしなさい」

「!」

 血みどろずきんがぴたりと笑いを引っ込めた。
 僅かな灯りに照らされた廊下に、ザクロずきん、ルビーずきん、カエデずきんの姿が浮かび上がる。
 赤子は部屋に置いて来たらしい。

「リコ……何だって?」

「その子の名前よ。『リコリスずきん』」

 聞いたことのない名を呟いたザクロずきんに皆の視線が集中した。

「この人は『血みどろずきん』じゃないんですか?!」

「違う」

 ザクロずきんはひどく疲れた溜息を漏らす。

「……噂、本当だったのね」

「噂?」

「今から十年以上前の今日、オオカミから逃げ回っていた赤ずきんの一人が森の奥にある小さな家に飛び込んだの。追って来たオオカミはその家に住んでいた老人を無視して、赤ずきんを噛み殺した。でもその家には一人の赤ん坊が居た。赤ん坊も老人も赤ずきんだったけど、オオカミが狙う年齢ではなかったから見逃された」

 でも、とザクロずきんは続けた。

「赤ん坊は殺された赤ずきんの返り血をべったりと浴びた。何日洗っても匂いが取れないほど、べったりとね。その子の名前が」

「――――『リコリスずきん』」

 誰もが皆、血みどろずきんを見下ろした。
 彼女は口元にうっすらと笑みを浮かべている。
 懐かしい記憶に思いを馳せるように。

「その子、血を浴びてからずっと笑っていたらしいの。きゃははは、って。すごく嬉しそうに。それがあまりにも不気味だったから、大人は気味悪がった」

「だから『血みどろずきん』なんですか」

「そう。親が子供に『血みどろ』なんて名前をつけるわけないでしょ」

 ザクロずきんは楽しそうに身をよじる血みどろずきんを見下ろした。

「この子、死ぬのが楽しいのよ」

「……それは違うよ、ザクロ」

 血みどろずきんはゆらりと立ち上がった。

「死ぬのは痛いし、苦しいでしょ? 本当に愉しいのはその直前」

 彼女は歌うように両手を広げた。

「オオカミの口がね? 目の前でぐわああって開かれるの。歯にこびりついた肉とか、血とか、脂の匂いが私を包んで、心臓がきゅうううって縮むの。血が冷たくなって逆流して、全身の毛が逆立つの。……っふふ。食べられた子の名前なんて忘れちゃったけど、あの感覚だけは覚えてる」

 血みどろずきんは頬に手を当てた。
 そして恋人を想うようにうっとりと身をくねらせる。

「最高の気分だったの。『死』に抱きしめられるのって」

「……」

「分かる? 『死ぬか生きるかの瞬間を味わう』って私にとって最高に楽しいことなの。他の何よりも」

「……分かるわけないでしょう」

「高いところから飛び降りるとか! 水の中でじっと息を止めるとか! 血を吐くぐらい毒を食べるとか、色々やってみたの! でもオオカミに追い回されるのがいっち番! 興奮する!!」

「このひとあたまおかしい……」

 あら、と血みどろずきんは白けた目でカエデずきんを見やった。

「頭おかしいのはそっちでしょ? どうしてこの状況を楽しまないの?」

「た、楽しむ……?!」

「こんなにゾクゾクする体験、一年の残りの三百何十日の間に味わえる? 私は毎年この日だけを楽しみに生きてるのに、あなた達は何で怖がるの?」

「ひ、人が……人が死んでいるんですよ?! あいつのせいで、たくさん!」

「だから何? 人なら毎日そこかしこで死んでいるでしょう? いちいちそんなものを尊んで、疲れない? そんなくだらない世間の目に遠慮してこの最高の刺激を全身で感じられないとか……気の毒ね」

 血みどろずきんは他の三人を嘲笑った。

「あなた達はせいぜい毎日お茶会をして、お菓子を食べて、結婚を祝って、子供を作って、そして死ねば良いんじゃない? 自分が本当は何に興奮するのかなんて知りもしないまま、お行儀よくしていれば? ……ねえ、猟師さん?」

 血みどろずきんは私に纏わりついた。
 怨霊のように私の周囲を巡り歩いた彼女は顔を近づけ、嬉しそうに口を裂く。

「あなたは私の言っていること、分かりますよね?」

「……」

 すっと耳元に口が寄せられる。

「あなた、いけない愉しみを知ってる目をしてる」

(……!)

 私は蠅を追い払うように彼女を手で振り払った。
 が、なおも彼女は言葉を継ぐ。

「だから……ねえ? いいこと教えてあげる」

 血みどろずきんは指先で私の頬をぶずぶずと押した。
 指の腹に皮脂がこびりつくことも厭わず、彼女はそれを続ける。

「私はね、最初から『そう』だったの」

「……?」

「っふふ。まだ分からない? だから――――」




 床が。
 崩落した。


 私は一瞬、何も無い空間に投げ出される恐怖を味わう。



「――――!!」
「――!!」
「――――ッッ!!」

 赤ずきん達の悲鳴。
 血みどろずきんの甲高い笑い声。

 私はどうにか着地したが、激痛が全身を貫くのが分かった。

「ッッ!!」

 二階に落下した私は背後を見やった。
 そこには砂漠を思わせるほど大量の顆粒が積もっていた。

(秘薬――――!!)

 私は奴が搦め手を選んだことで、準備に時間をかけるだろうと予測していた。
 ――違った。
 奴は秘薬の存在を知り、その効果を把握した。
 何のことはない。
 奴は秘薬を利用することを思い付き、ただ方針を転換したのだ。
 搦め手から、正攻法へ。
 親とは違う、場当たり的な判断。
 私は奴の軽率さまでは読み切れていなかった。


 ごるるる、とオオカミの唸り声が左方を過ぎった。
 ひっと声を上げたルビーずきんが私に掴まる。


 ちゃちゃちゃ、と爪音が前方を過ぎった。
 カエデずきんが私にしがみつく。


「にっ、逃げなきゃ!」

「だめです! 上っ……ぜんいんじゃあがれませんっ!」

 恐慌に陥る赤ずきん達の中、私は休息に思考が冷えていくのを感じていた。

 戦う準備など何一つできていない。
 逃げる経路すら把握していない。

「――――……」

 私はまたしても読み違えた。
 村一つ滅ぼす算段はあれほど正確にできたというのに。
 絶対に読み間違えることを許されないこの状況で、読み間違えた。

 罰が再び、私に追いつこうとしている。

(……)

 心臓が口から飛び出し、逃げ出してしまいそうなほどに震えていた。
 指先が冷たくなっていく。
 赤ずきん達の悲鳴が遠ざかっていく。

(リンゴずきん……)

 私は一人、護れなかった。

(……バラずきん……)

 私は二人、護れなかった。
 私の罪から生まれた罰が私から三人目を奪おうとしている。
 このまま背を向けて逃げれば、私は必ず罰に追いつかれる。

「……」

 次など許さない。
 もう誰も死なせない。

 罰なら私がすべて引き受ける。
 その代わり、この子達には指一本触れさせない。


 準備など知るか。
 逃げ道も無くていい。


 私は受けて立つ。

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