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六人の赤ずきん 作者:icecrepe
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12/17

2:00/誰も知らない澱の赤

 
 懺悔や告解と呼ばれるものの本質は、「逃避」にあるとされる。
 犯した罪からの逃避ではない。人は罰から逃れようとする。

 罪は過去にしか存在しない。
 そして過去に存在するものは石と同じだ。
 誰かの意思で動くことはなく、自ら動き出すこともない。

 だが罪人は自分の罪を石だとは考えない。
 人生の遥か後方に置き去りにした罪が触手を伸ばし、呪いを唱え、何かに姿を変えているように感じてしまう。
 どんなに前向きに生きてみても、何度となく振り返ってしまう。
 そこにあるのはただの事実だ。そう安堵して再び前を見ると、背後から何かが近づいて来るのを感じる。
 振り返る。
 前を見る。
 また追われ始める。
 罪から生まれた「何か」が自分を追いかけて来る感覚が、罪人を眠らせない。

 漠然とした不安と焦燥は未来に影を落とす。 
 人生のどこかで落雷が落ち、足元が崩落するような不幸が訪れるのではないか。
 幸福は簒奪されるのではないか。
 平穏は踏みにじられるのではないか。
 罰に追い回される感覚は生涯罪人を苛む。

 どんなにふてぶてしく居直った罪人も心の奥底では罰に怯えている。
 だから誰一人立ち入ったことのない『地獄』の様相が天国よりも生々しく語り継がれてきた。
 地獄とは罪人を脅すために生まれたのではない。
 この苦しみが死後も続くに違いないという罪人の恐怖こそが地獄を生んだ。

 罪を告白することによって人は改悛を誓うという。
 改悛とは罪と向き合うことであり、罪と向き合い続ける限り罰を背後に感じることはなくなる。
 地獄へ落ちる未来は変わらなくとも、罪人は改悛によって救いを得る。罰の恐怖から解放される。

 私はそれを是としなかった。

 懺悔することで私はどうしようもない自己犠牲の衝動から救われるのかも知れない。
 だが本来救われるべきだったのは私が殺めた人々の方であり、私が救われるのは筋違いだ。
 私は苦しむべき人間だ。私の考える贖罪は安寧の先には無い。
 罰の恐怖が絡みついたこの人生を受けて立つこと。そして全うすること。それ無くして、私の罪は贖えない。
 神が私を許しても、私が私を許せない。

 そう信じて、私は十字に背を向け、野を彷徨った。


 だがこんな結末を迎えると分かっていたら。
 私以外の誰かが命を落とすと知っていたら。
 私ではない誰かが不幸になることこそが、私への罰だと気づいていたら。
 私は――――




 今日、私の罰は。
 とうとう私に追いついた。



「――――!!」

 バラずきんの部屋へ駆け込もうとする私の手足に四人の赤ずきんがしがみついている。
 二階へ駆け上がったばかりで足は重く、肉体は軋むようだったが、私は前進しようとしていた。

「りょうしさん! だめです! いっちゃだめ!」

 カエデずきんの灰色の髪が私の腰帯に絡み、ぶちぶちと抜ける。

「バラずきんのことは忘れてください! あ、あなたまで死んじゃったら……!」

 ルビーずきんの頭から茨の冠が落ちる。
 その声には涙が混じっている。

「落ち着きなさい! あなたが取り乱したらおしまいでしょう!」

 ザクロずきんの叫びが耳元できいんと響く。

「ッ……ッ……!」

 自らも獣じみた咆哮を上げていた私はゆっくりと弛緩した。
 と同時に、落下の衝撃で軋んだ骨や傷んだ筋肉が熱と激痛を帯びる。
 私は思わずその場に崩れ落ちる。

「っは……!」

 二階最奥の寝室からはなおも肉を裂き、繊維を引きちぎり、骨を砕く音が聞こえ続けている。
 バラずきんが貪り食われる音。
 私が護らなければならなかった少女が殺される音。

「一体……何なんですか、あれは?!」

 ルビーずきんはジェヴォーダンの獣が死んだ穴を指差す。
 二階に駆け上がった私の位置から、そこはひどく遠くに見えた。

「オオカミは死んだはずです!」

「そうね。それに、堀の外から普通の狼が泳いで来るわけもないし――――何なの、あれは」

 血みどろずきんは冷静だったが、唇の端には拭い損ねた笑みの残滓があった。

「……オオカミの腹の中に子供がいた」

 絞り出すように告げると、四人の赤ずきんが声を上げた。
 声の勢いが空気すら震わせたのか、遠い一階の松明が揺らぐ。

「お、お腹に子供?!」

「だから動きが……待って。じゃあ、あそこにいるのは」

「おおかみの、こども」

 ふっと血みどろずきんが失笑を漏らす。

「そんなことがありえる? お腹を出たばかりの子供が母乳でもドロドロの『吐き戻し』でもなく、生肉を食べるだなんて」

「それに、おおかみがうむこどもは普通、いっぴきじゃないはずです」

「常識の通用する相手じゃない」

 何せ元人間の怪物が本物の狼と交わって生んだ子だ。
 既に我々の知る『生物』の枠組みを外れている。

「と、とにかく皆さん、バラずきんのくすりを! 匂いを消さないと!」

 ルビーずきんが素早くバラずきんの秘薬を配った。

「念のため、私の薬も吸っておいてください。噛まれても少しだけ牙が通りづらくなります」

「ひと思いに死ねなくなるの間違いじゃないの?」

「……!!」

「あら怖い。睨まないでルビーちゃん。ふふっ」

 しゅしゅ、という噴霧音を聞きながら私は冷静さを取り戻す。

(匂い……)

 ジェヴォーダンの獣の正体は一人の『赤ずきん』だった。
 おぞましい真実と共に不穏な事実が浮かび上がる。

 彼女は鼻を剥がれていた。
 すなわち、嗅覚を持たなかった。
 だが今夜に限らずオオカミは赤ずきん達を正確に追跡し、牙を血で濡らして来た。
 と言うことは、奴は嗅覚以外の『何か』で赤ずきんを探知していたことになる。

 それは――――聴覚だろうか。

 犬や狼にとって嗅覚と並んで鋭敏な感覚器官と言えば耳、聴覚だ。
 ジェヴォーダンの獣は赤ずきん達の囁きや靴音でその居所を正確に把握していたのだろうか。
 確かにその可能性は否めない。
 私は犬や狼の聴覚が何をどこまで区別できるのか知らない。反証不能である以上、その可能性を否定することはできない。
 ただ、鼻を潰されたオオカミの探知方法が『聴覚』だと説明のつかない事実がある。

(この土地を離れた赤ずきんをどうやって探し出した……?)

 ジェヴォーダンの獣は元人間だ。
 人語を解し、文字を解し、人間と同じ思考能力で現状を理解し、分析し、判断することができる。
 様々な状況証拠からこの土地を離れた赤ずきんが居ること、そいつらがいつこの土地を離れ、どこに向かったのかを『推測』することはできるだろう。
 だが逃げ出した先が城であれ森であれ海の上であれ、オオカミは必ず『赤ずきんの居場所』を探知しなければならない。それは推測だけでは実現不能だ。
 森はざわめき、海には波が立つ。
 人の住む土地なら子供の声とて少なくない。酔っ払いの騒ぎや馬の蹄の音も混じるだろう。
 果たして『音』だけで見知らぬ土地に潜む赤ずきんの居場所を見つけ出すことができるだろうか。

 ――違和感がある。
 違和感とはつまり、眼前に広がる現実に生じたほころびだ。
 だが本来現実は綻び得ない。
 となると、私の見ている現実は現実ではなく嘘だということになる。

 ジェヴォーダンの獣が嘘を見せているのだろうか。
 いや、そんなわけがない。
 私に嘘を見せるのは――――魔女しかいない。

(……)

 違和感はもう一つある。  

 私は今夜偶然その事実に気付いたが、オオカミが鼻を持たない事実は別の誰かに、それも今よりずっと以前に気付かれる可能性があった。
 そして気づかれたら最後、この村の先達はあらゆる方法を用いてオオカミの聴覚を潰しにかかるだろう。
 特にここ十数年に限れば、赤ずきん達はオオカミの聴覚を攪乱する有力な手段を持っている。
 血みどろずきんだ。
 音を閉じ込め、やまびこのように復唱させる彼女の湿布がオオカミの聴覚を狂わせることは先の攻防で立証されている。
 ジェヴォーダンの獣の嗅覚は死んでいる。聴覚は血みどろずきんの秘薬で攪乱できる。
 そして犬や狼は夜目こそ利くが、人間に比べて特段視覚が優れているわけではない。

 血みどろずきんは人となりこそ奇怪だが、秘薬の製作と使用を渋ったことはない。
 もし村人が嗅覚の秘密に気付けば、血みどろずきんの秘薬を駆使することでオオカミの探知と追跡をほぼ完全に阻止することができてしまう。
 そんなオオカミの不安定さをこの狡猾な魔女が放置するだろうか。

 私が奴の立場なら血みどろずきんをあらゆる手段を以って早々に排除する。
 もしくは――――

(……!)

 もしくはオオカミに『秘密の合図』を与える。
 魔女である自分とオオカミしか知らない『何か』。
 それがあれば自分だけはジェヴォーダンの獣の牙をかいくぐることができる。
 召使には手段だけ与え、原理を説明しなければ自身の優位性も保たれる。

 おそらくこれも『赤ずきんの秘薬』だ。
 魔女は何らかの秘薬を用い、本来敵であるオオカミに合図を送り続けていたのだろう。
 それも、数十年に渡って周囲の誰にも気づかれないような合図を。

 だがそんなものが本当に存在するのだろうか。
 存在するとして、私に見破



 ずるずる、と。
 縄のようなものを引きずる音がした。



「猟師さん!! あれ!!」

 ルビーずきんの指差す先、バラずきんの寝室から一頭のオオカミが姿を現す。


 親に比べるとひと回り以上小さな狼だった。
 それでも体躯は虎や獅子に迫るほど大きく、はち切れんばかりの筋肉が盛り上がっている。

 濡れた体毛は黒に近い暗赤色で、耳はぴんと立ち、真っ黒な鼻から熱い息が漏れている。
 ぎらついた瞳は親と同じ濁った黄色。
 耳まで裂けた口から覗く牙は白く、顎からはぼたぼたと鮮血が滴っている。

 びちりと口から縄のようなものが落ちた。
 腸だ。
 奴はバラずきんの腸を咥え、室内から引きずっていた。
 真っ赤に濡れた腸は松明の炎を受け、てらてらと光っている。


(……)

 かち、かち、かち、と数歩こちらへ進んだ狼は明らかに知性を湛えた瞳で私たちを見つめていた。
 息を呑んだ赤ずきん達は数歩退き、私の背後に隠れる。

「何で……なんで子供まで私たちのことを……?」

「母親の遺志を継いでいるのかも知れない」

「母親の遺志……?」

「何が何でも私たちを殺したいんじゃないの? ずいぶん恨まれてるのねえ」

 血みどろずきんは愉しげに呟いたが、カエデずきんが彼女を見返した。

「いくらなんでもおなかの子供にそんなことをたくせるわけがありません。何かへんです」

「そんなこと……言ってる場合じゃないでしょう?! ちょっと、こっち来てるっ……!」

 ザクロずきんの言う通りだった。
 オオカミは確かめるような足取りで数歩こちらに近づいている。

 私はすぐさま思考を中断し、左右に視線を巡らす。
 部屋。
 あった。

「こっちだ!」

 私が叫ぶと同時に、オオカミが地を蹴った。
 征矢さながらの速度。
 瞬く間に距離が詰められる。

(速い……!!)

 指し示した部屋に赤ずきん達が一人ずつ飛び込む。
 カエデ、ザクロ、ルビー、血みどろ。
 最後にわた――

「っ」

 オオカミが弧を描いて跳ぶ。
 この距離。間に合わない。 
 噛――

「?!」

 腕に鈍い衝撃が伝った。
 オオカミは私の腕に顔面から激突し、その場にひっくり返ったのだ。
 背を打った怪物は即座に体勢を立て直したが、私は既に赤ずきん達と同じ部屋へ飛び込んだ後だった。

 閉じた扉に背を当てるのと、奴の体当たりが同時だった。
 どたんどたんという衝撃。
 今頃になって心臓が飛び起き、全身に血液を通わせる。
 はっ、はっ、と鼓動に合わせて呼吸が乱れた。

 無我夢中だったためか、私はようやく五感を取り戻していた。
 室内に一つきりの灯りに照らされた赤ずきんたちはじっと私を見つめている。
 頭に乗った帽子は毛髪をきちんと隠しているが、毛穴からはどっと汗が噴き出していた。
 それでいて頬に触れる空気は冷たい。

「あら逃げ切れたの? さっきの距離で」

 血みどろずきんがねっとりとした声で告げ、ルビーずきんが縋るような笑みを見せた。

「さすが猟師さんです!」

「違う。向こうが狙いを外した。たぶん生まれたばかりだからだ」

 奴はまだ飛びかかる際の最適な距離感を把握していないのだろう。
 私は命を拾った。
 ――拾われるのはバラずきんであってほしかった。

 どたん、どたん、とオオカミはなおも扉に激突する。
 親ほどではないが、奴の体躯と重量はかなりのものだ。このままでは扉を破られるかも知れない。
 いや、それ以前に――――

「ッ?!」

 危険な事実に気付いた瞬間、脂汗が背に滲む。

(どうする……?!) 

 敵は小型だが、それでも『ジェヴォーダンの獣』だ。
 もはやこちらに有力な武器は無い。
 退路も無い。櫂船は塔の中だ。外に押し出している時間は無いし、扉の外のこいつは親より小柄だ。下手をすると堀を泳ぐかも知れない。
 先ほどまでのオオカミなら夜明けまで耐えればこちらの勝ちだったが、子が親と同じであるという保証は無い。

 私は混乱しかかっていた。

(く……!!)

 今できることは。いや、すべきことは――――

「あ」

 大きな声を上げたのは血みどろずきんだった。
 皆が一斉に振り向くと、紅い光沢を持つ黒髪の少女はわざとらしく両手で頬を包む。

「どうしよう。薬置いて来ちゃった」

「……! わ、わたしもです」

「私は持っています!」

「私も」

 あらら、と血みどろずきんはわざとらしく唇に手をやる。

「私とカエデちゃんの薬がお部屋に残ったままなの?」

 闇の中、赤い舌が覗いた。



「オオカミに薬を使われちゃうかもね?」



(!)

 私は一瞬息を呑んだが、すぐに首を振った。

「大丈夫。外にいるオオカミは秘薬のことを知らない。さっきまで母親の腹の中に居たのだから」

 と、オオカミが体当たりをやめた。
 興奮した呼吸を繰り返しながら、奴は何かを思案するようにその場に佇んでいる。
 ――――『思案』。
 やはりこいつには知恵がある。父親ではなく母親の性質を色濃く受け継いでいる。

「力ずくで突破できないのならどうするのかしらね? お母さんみたいに水を使ったり火を使ったりするの?」

「血みどろ! 余計なこと言わないで!」

「あら。人語を理解するのかしら、この子。そんなわけないでしょ?」

「二人とも静かにしてください! 猟師さんが集中できません!」

 狭い寝室に熱気が立ち込めた。
 興奮状態に陥った赤ずきん達の声が頭蓋にがんがんと響く。
 更に鼓動に合わせて傷まで痛み始める始末だ。
 うるさい、と思わず叫んでしまいそうだった。

 こんな時にバラずきんが居てくれたら。
 あの笑顔があれば少なくとも

(……バラずきん)

 痛かっただろう。怖かっただろう。
 助けてほしかっただろう。
 悲しく、悔しかっただろう。
 私はリンゴずきんだけでなく、あの子まで死なせてしまった。
 無力感と喪失感が津波のように押し寄せて来る。
 手足から力が抜けかける。
 全身の熱が引いていく。

「でも、扉をやぶられるまえにどうするか決めないと。さっきみたいに戦うにはくすりがたりません」

 カエデずきんがちらちらとこちらを窺っている。

「ザクロずきん。一階の床を完全に崩してしまうことはできませんか?」

「無理。量が足りない。それに中央はどうするの? 塔の中央は吹き抜けなんだから、ここからじゃどうやっても届かないでしょう」

「一階まで降りて、誰かが……」

「誰がやるの? ルビーちゃん、言い出したあなたがやる? それとも誰かにやらせる?」

「……!」

「血みどろ。あなたちょっと黙って」

「ふふっ。ザクロが言うなら黙るけど」

「戦うことなんて考えなくていいの、カエデずきん。今夜を凌げば――」

「……。ごめんなさい、ザクロ。やっぱり私、黙るのやめにする」

「何ですって?」

「バラずきんが死んだのに『今夜を凌げば』って見通しが甘くないかしら? 来年から私たちの匂いを消してくれる秘薬は使えないんだけど、どうやって逃げ延びるつもり?」

「…………黙りなさい、血みどろ」

「昔いたグミずきんみたいにお花の匂いを強くすることもできないし、名前は忘れたけど、生き物に別の匂いをかぶせる赤ずきんも今は居ない」

「……血みどろ」

「ふっふふっ! 私たち、もうおしまいなんじゃない?」

「血みどろ!! いい加減にしなさい!」

「や、やめてくださいザクロずきん!」

 ルビーずきんがザクロずきんを押さえ、血みどろずきんが哄笑を響かせる。
 空気と会話が悪い方向に流れていく。
 私は――――

(!)

 私の手の平を小さく温かなものが包んだ。
 それはカエデずきんの手だった。

「りょうしさん」

「……」

「たすけてください……」

 今にも消えんとする蝋燭の火のように少女の影が揺れる。

 そうだ。
 私がこのままぼうっとしていたら犠牲者はさらに増える。

 嘆くな。
 悔いるな。
 悲しむな。
 私は打ちひしがれるためにここへ来たわけではない。
 私は贖罪に来たのだ。
 誰かを――私以外の誰かを助けに来たのだ。


 ――――やらせるか。
 やらせてたまるか。


 膝を押して立ち上がる。

 悲しむな。
 悲しめば脚が止まる。
 怒りだ。
 今はただ、怒るのみ。

 奴を殺す。
 バラずきんを殺した奴を、殺す。

 口から喉に手を入れ、内臓を引きずり出して殺す。
 毛ごと皮を裂き、四つにも八つにも裂いて殺す。
 眼球を噛み潰し、頭蓋を粉々になるまで踏み砕き、糞尿と混ぜて堀にばら撒く。

 殺す。
 殺す。

 ――――殺す!

「りょうし、さん?」

 そうだ。
 私は猟師。獣を狩る者だ。
 狩る側に立っているのは奴だけではない。
 私もまた、狩る者の目を持っている。

 この状況、私が狼なら、赤ずきんをどう料理する。
 時は夜。
 場所は堀に囲まれた塔。
 敵は四人の秘薬使いと一人の男。
 それに――――

「!」

 私は扉に耳を当てた。
 狼の気配が消えている。

 私には分かる。これは待ち伏せではない。
 奴は親ほど恵まれた体躯の持ち主ではなく、先ほどの攻防で自らの運動能力に僅かな不安を抱いたはずだ。
 もし私が転倒したオオカミにやぶれかぶれの一撃を放っていたら、目玉ぐらいは潰していたかも知れない。
 あるいは奴に飛びつき、そのまま崩れた床から一階へ飛び降りていたら骨ぐらい折っていたかも知れない。
 命を拾ったのは私だけではない。奴もだ。

 相討ち覚悟で挑まれた場合、虎ほどの体躯しか持たない今のオオカミは親ほど確実に私を仕留められるとは限らない。
 母親の洞察力を継承したオオカミはおそらくその危険性に思い至っている。
 ゆえに奴は奇襲を選ばない。
 奇襲では相討ちを防げないからだ。

 採るべき戦法は搦め手。
 この状況で速やかに実現可能な搦め手は――――二つ。

「血みどろずきん」

「はあい?」

「ルビーとカエデを頼む。私が出たらすぐにこの――」

 私は湿布を放り出し、手近な寝台を掴むと、ずずず、ずずず、と扉の傍へ導いた。そして再び湿布を畳む。
 かなり重いが、三人がかりなら動かせるはずだ。

「この寝台を扉に添えなさい」

「あなたは?」

「ザクロ、来なさい」

「え? は、はい」

 私は彼女の耳元に口を寄せる。

「赤ん坊はどこに置いてきた?」

「あ」

「人質に使われる。急ぐぞ」

 私はザクロずきんの手を握り、そっと扉を押し開く。
 やはり奴は居なかった。
 おそらく『もう一つ』の方法を採る気だろう。
 それはつまり――――



 階下の灯りが一つ消えた。



「灯りが……!」

(やはりか)

 奴は私たちより鋭敏な感覚を持っている。それも親と違って五感すべてが完全に機能しているのだ。
 ならばその優位性を活かさない手はない。
 暗闇に包まれれば私たちはまったく身動きが取れなくなるが、奴は音と匂いで正確にこちらの位置を把握できる。
 今は一階だけだが、すべての灯りが消えた時、私たちの全滅が確定する。

 部屋の一つに飛び込む。
 キャベツのように襤褸布に包まれ、すやすやと眠っていた赤ん坊をザクロずきんが抱き上げる。
 赤子は細腕の中で丸くなったが、目を覚ましはしなかった。
 素早く廊下に出ると、最後の松明を咥えたオオカミがそれを床に打ち棄てるところだった。

 水没した階段、櫂船、門扉、ジェヴォーダンの獣、落とし穴、何もかもが闇に飲み込まれる。
 新たなオオカミも黒い水に潜るようにして姿を消した。

「ど、どうしよう。もう上しか逃げ場が無い……!」

 ザクロずきんが悲鳴を漏らした。
 気のせいでなければ、オオカミの嬉しそうな唸り声が聞こえた。

(……)

 一つ、分かったことがある。
 アイツはバラずきんを食っていない。
 胃袋に何か入っているにしては動きが機敏すぎる。
 人質と食事を兼ねることのできる赤子を無視した点からも、奴の目的が『捕食』でないことは明らかだ。

 食べる気もないくせに、奴はバラずきんの肉を引き裂き、顔を噛み砕き、何度も何度も弄んだ。
 意図は分からない。
 本当に母親の遺志を継いだのか、狩りの練習のつもりなのか、昂ぶる闘争本能を鎮めるためか。それ以外か。
 いずれにせよ、奴は食べるために殺したのではない。殺すために殺したのだ。
 だがそのつもりなら喉笛に噛みつけば済む話だ。なのに奴は執拗に少女をいたぶり、辱めた。それを『殺すために殺した』などとは呼ばない。
 奴は明らかにこの状況を愉しんでいる。



(――――殺してやる)



「っ。な、何……?!」

 隣のザクロずきんがなぜか私を見て怯えを見せた。
 私はゆっくりと彼女を見、階下を指差す。

「下から来るぞ」

「し、下? そんなの当たり前じゃ……」

「いや、当たり前じゃない」

 ちゃかかか、と壁を這い上がる音がした。
 塔の外壁をジェヴォーダンの獣が駆け上がろうとしているのだ。

「な、なに……? 何してるのアイツ……」

(……)

 私の胸には漠然とした一つの予感があった。
 が、荒唐無稽なそれをいったん胸にしまい、三人の部屋に向かって歩き出す。

 じくじくと傷が痛む。
 痛んだ分だけ、怒りと憎しみが募る。
 怒りと憎しみは力になる。特に、何かに立ち向かう時には。

「親と同じことをやろうとしてる。壁をよじ登って窓から中に入るつもりだ」

「正面扉が開いているのに? 何の為に今そんなことを……」

 私は暗闇に包まれた一階を見やる。
 あそこに降りれば死が待っていることはザクロずきんも察しているだろう。

「私たちがもう上に逃げるしかないからだ。このままだと私たちはどんどん上に追い詰められる。そうなった時、奴が窓から中に入れたら『詰み』だ」

「っ! じゃ、じゃあ、あれをやめさせる方法を探さないと……それか、窓を塞いで……」

「いや、放っておいていい」

「ええ?!」

 奴は石壁に残る爪痕や匂いから母親が同じ行動を取ったことに気付いている。
 そしてそれを反復し、身軽な自分なら窓から内部へ侵入できるのではないかと考えている。
 ――――いや、私たちに『考えさせようとしている』。

 奴は搦め手を選んだ。
 まず一階の光を消して私たちの退路を塞いだ。
 私が奴の立場なら、次は暗闇に包まれた一階で自分の武器になるものを探す。もしくは、私たちが武器に転用しそうなものを隠す。
 一階から光を奪った次の一手が『窓からの侵入路を確保する』などという強気なものであるはずがない。
 そもそも狼の骨格ではこの塔を登れない。

 あれは罠だ。
 こちらの思考を窓の防備に誘導し、行動を制限し、時間を稼ごうとしている。
 こちらの採りうる最善手は早々に上階へ向かい、階段を落とすこと。
 奴は壁からの侵入をちらつかせることで私たちの意識が最善手へ向かないように仕向けている。

 十数秒後になるだろう。
 私たちがその目論見を看破したことに気付いた奴は必ず下から来る。
 定石通り、奇をてらうことなく、積み上げた瓦礫の階段を駆け上がって来る。
 だから私は言ったのだ。下から来る、と。

 寝室二つを通り過ぎる。
 腸を跨ぎ、血臭立ち込めるバラずきんの部屋の前をきつく目を閉じたまま通り過ぎる。
 武器保管庫を通り過ぎ、一つの寝室に入って手籠を拾う。
 そこは三人の赤ずきんが身を潜める一室から二部屋離れた場所だった。

「ルビー! カエデ! 血みどろ! そこに居なさい!」

 門扉を塞いでいた瓦礫に使ったのは二階の壁だ。
 幾つかの部屋の壁は半壊しており、人間なら通り抜けられるほどの穴が開いている。
 あのジェヴォーダンの獣が通れないよう大きさは工夫していたが、新しく現れたオオカミは小型だ。奴なら平気で通り抜けられるだろう。
 二階は安全圏が少ない。

(……)

 私はザクロずきんを連れたまま、壁の穴から三人の赤ずきんの部屋へ。
 ルビーずきんとカエデずきんは心細さに震えていたが、血みどろずきんはにっこりと微笑んだ。

「あらおかえり。今、あなたが逃げ出したんじゃないのって話をしてたの」

「余計なことをするな」

 私がリンゴの詰まった籠を押し付けると、血みどろずきんはきょとんとした。
 ややあって、口元に蛇を思わせる笑みが浮かぶ。

「……どうしたの? 急にやる気になって」

「上に行く」

「う、上ですか?! でも上は」

「下にはもう行けない。来なさい」

 私はたった今くぐり抜けたばかりの壁穴に臨み、立ち止まる。
 赤ずきん達も同様に足を止めていたが、五秒、十秒と続くに至り、とうとうカエデずきんが声を上げた。

「ど、どうしたんですか」

「……。……やめなさい!! 扉を開けてはいけない!!」

 私は手の中で湿布を開いた。
 ずずず、ずずず、と先ほど私が寝台を動かした時の音が繰り返される。

「出るなら壁の穴からだ! みんなこっちに! 塞いでいたものは今どかすから!」

 私は寝台に覆い被さり、ずずず、ずずず、と扉の前から動かした。
 そして腰を落とし、持ち上げた寝台で壁面の穴を塞ぐ。
 代わりに、何も無い場所にカエデずきんの膏薬をたっぷりと塗り付けた。

 三つ隣の部屋にオオカミが現れる。
 奴は一度大きく吠えると、勢いよく地を蹴った。
 距離が詰まる。
 二部屋。
 一部屋。
 五歩。
 三歩。

 があん、とオオカミが透けた壁に顔面から突っ込んだ。

 さすがに悲鳴は上げなかったが、ひっくり返った奴が立ち上がるや否や憤激を見せた。
 ごあるるるる、と獰猛さを隠しもしない唸り声。
 私は透けた壁に顔を押し付け、オオカミと至近距離で目を合わせる。

「待っていろ」

 自分のものとは思えないほど低い声が出た。
 私は目を剥き、歯を剥いている。

「お前を殺してやる……!」

 ごるるる、という地鳴りのごとき咆哮が返答だった。
 私は弾かれたように通路へ飛び出し、ザクロずきんの秘薬で隣室とこちらを結ぶ床を崩落させる。
 数秒遅れて通路に飛び出したオオカミはたたらを踏んだが、すぐさま迂回した。
 この塔は中央に吹き抜けがあるため、通路を一か所でも寸断すれば迂回するか跳躍しなければこちら側へたどり着けない。
 迂回を選んだのは己の身体能力を過信していないからだろう。奴はどこか軽率だが、学習はしている。

 私はその隙に三階へ向かう。
 精鋭の部屋と魔女の部屋、それに僅かばかりの賓客を迎えるための部屋しかない、広くて狭い三階。
 赤ずきん達は既に全員揃っていた。ザクロずきんも赤子を抱えている。

「どこかの部屋へ集まりなさい。私もすぐ行く」

 私は水薬を使い、最後の階段を崩落させる。
 これで奴と私たちは一時的に分断された。多少は時間が稼げるはず。


 ふっ、と。
 二階の灯りの一つが消えた。


 二階が闇に飲まれていく。
 オオカミはもう先ほどのように見え透いた罠を弄することは無い。
 正々堂々と、搦め手を駆使するつもりだろう。
 私は崩落した階段の上に立ち、時折闇を走る紅の尾を見つめていた。

(……)

 前方に狼。
 後方に魔女。
 構造は同じだが、状況は変わっている。
 召使であったリンゴずきんが死に、バラずきんが命を落とし、ひ弱な赤ん坊が加わった。
 私は満身創痍で、敵は生まれたての子供。

 魔女の正体を見破る鍵は、『秘密の合図』だ。
 嗅覚を持たないジェヴォーダンの獣を魔女がいかにして操ったか。それを知ることが奴の正体を見破ることに繋がる。
 私が『秘密の合図』を見つけるのが先か、それともオオカミを殺すのが先か。
 それとも――――

「りょ、猟師さんっっっ!!!」

 ルビーずきんの叫び声。どたんどたんという不穏な物音。
 私は振り返り、声の聞こえた部屋へ駆けつける。


 そこでは。

 血みどろずきんに馬乗りになったカエデずきんが、ルビーずきんの剣を振り下ろすところだった。

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