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六人の赤ずきん 作者:icecrepe
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11/17

1:00/誰も知らない罰の赤

 
 毛むくじゃらの深紅の獣は塔の中へ飛び込むや否や、大きく吠えた。
 背を反らし、喉を晒し、天を仰ぎ、ジェヴォーダンの獣が咆哮する。

 長弓のごとくしなった肉体から、想像を絶する轟音が放たれた。

「~~~~!!」
「~~~~~~~!!!」
「~~~!!」

 身の毛もよだつその声は、何十倍にも引き延ばされた雷鳴にも似ていた。
 空気が震動し、肌がチリチリと焦げ付き、耳の奥にある『あぶみ骨』までもが痺れる。
 音は空気の壁じみて赤ずきんを転ばせ、顆粒化した瓦礫を吹き飛ばし、吹き抜けを伝って漆黒の夜空へ撃ち上げられた。



 ウォオオオォォ、と。
 津波が通り過ぎるようにして咆哮が止む。



 船の赤子は泣き止み、震えていた空気が静止する。
 神聖さすら感じる無音。

 黄色く濁った瞳が二階に立つ私を認める。
 乱杭歯を剥いたジェヴォーダンの獣が尾で床を打った。
 それが合図だった。

「――――!」

 私は叫び、二階から飛び降りた。
 それを見たオオカミは体当たりで櫂船を倒し、赤ん坊を床に転げ落とした。

 今床を崩せば子供までもが溺死する。
 オオカミはこの状況まで予測して人質を用意していたのか。それともただの『念のため』か。
 今まで眠っていたのだろう。赤子は大声で泣き喚く。

 作戦に無い動き。誰も想定していない事態。
 張り詰めた緊張の中、ザクロずきんが二階から飛び降りた。
 着地の衝撃に震えることもなく、彼女は走り出す。赤ん坊の元へ。

 私に狙いを定めていたオオカミが振り向く。
 視線の先にはザクロずきん。
 地を蹴るべく、オオカミが力む。
 まさにその瞬間、斜め上方から雹にも似た大量の粒が降り注いだ。
 ――――ただし、透明の。 

「  」

 オオカミの全身を顆粒が打つ。
 三。
 二。
 一。
 ――

 奴は魚のごとく身をくねらせながら宙を舞い、瞬時に顆粒から逃げ遂せた。
 次の瞬間、奴の居た足元の空間がぽっかりと――『透ける』。

 ザクロずきんの薬で顆粒化させた、カエデずきんの透明薬。
 中庭の縁に着地したオオカミは一秒、脚を止めた。まるで薬の性質を思い起こすかのように。そして次に起きる事態を予測するかのように。
 思考などさせない。
 私は走り出す。

 オオカミがこちらを見る。
 銃を取り、剣を学びながらも戦場に臨んだことのない私は震える。
 勇者のひしめく戦場。血と汗と涙だけが光る戦場。死と誇りしか許されない原始の舞台。
 そんな場所に憧れた私が臨んだのはただの――

 感傷を振り払う。

 帽子の上から頭を掴み、前を見る。
 鼻先をこちらに向けたオオカミが中庭を駆けだす。
 土が舞う。
 沼の水が跳ねる。
 距離が詰まる。
 三十歩。
 二十歩。
 十――ここで爪先に力を込め、後ろに跳ぶ。同時にオオカミが弧を描いて跳躍する。

 時がゆっくりと流れる。
 宙を舞う深紅の肉体は溶岩流に見紛う。
 光源に照らされたオオカミの身体は四方八方に影を伸ばしている。

 私の腰からぱさりと布きれが落ちる。
 空っぽの巾着袋が。

「  」

 即座にオオカミは身を捻り、攻撃を中止して着地する。
 次の瞬間、ガラガラガラと土砂崩れに似た音が響く。
 瓦礫の崩落音を吸った血みどろずきんの湿布。カエデずきんの膏薬で透明になったそれを私は走りながら床にまき散らしていた。

 踏み込めば致命的な隙を晒していた。
 すんでのところで攻撃を踏みとどまったオオカミはその事実を理解し、毛を逆立てた。

 私は奴に背を向けた。
 そして用意した罠に向かって走り出す。

 が、奴は私を追わなかった。
 二階に登り損ねたザクロずきんを認め、猛然と駆け出す。

 狼の数倍を誇る歩幅に対して塔はあまりにも狭い。
 警告を発する間もなく赤ずきんとオオカミの距離が縮んでいく。
 あと十歩。
 あと七歩。
 あと五歩。
 止める者は居ない。
 振り向いたザクロずきんは赤ん坊を抱き上げたまま身を強張らせた。



 何の前触れもなく、剣を掲げた金髪の男がオオカミの眼前に現れる。

 透明化薬と私の被る金色のかつらと魔女の部屋の彫刻を組み合わせた囮。 



 オオカミは驚かなかった。
 眼前に立ちはだかる、人間の匂いと質感を持つ物体目がけてなおも矢のごとく疾駆する。
 まるでそこに像があることを見抜いていたかのような躊躇の無さ。

 巧妙に彫刻の影に隠れていたザクロずきんは企みを見破られたことに気付き、背を向けて走り出す。
 オオカミは目障りな彫刻に体当たりし、それを粉々に破壊する。
 私の狙い通りに。

「  」

 破砕された像から鬘が滑り落ちる。
 中に仕込まれていた革袋から水薬が飛び出す。
 オオカミが気づく。だがもう遅い。

 速度に乗ったオオカミは一瞬で像を破壊し、その場を通り過ぎようとしていた。
 が、生物以外のすべてを顆粒化する赤ずきんの秘薬はオオカミに見る見る迫る。
 崩落する塔の床。濁った水面を叩く石の音。
 四肢に力を込めて駆けるオオカミの目に僅かな焦りが見える。

 石橋と同じ状況。
 崩落する床から逃げ惑う自分。
 敗北ではないが、確かな失敗の記憶が冷静な思考をかき乱す。
 一心不乱に逃げるオオカミは巨体に対して狭すぎる塔の壁に衝突しかける。

「  」

 たたらを踏んだオオカミは振り向き、憎々しげな顔をする。

 更に二つの石像が一時間の透明化を解除され、姿を見せている。
 一体は右側に。
 一体は左側に。
 壁際に追い込まれたオオカミは、二つの石像に行く手を阻まれている。
 どちらも罠だ。
 罠は回避するのが最善。
 しかしどんな罠か分からない。
 さりとて正面からは床の崩落が迫る。立ち止まれば落下そして死。

 仕掛けは何だ。
 崩落か、透過か。それ以外か。
 オオカミは考えながら走り出す。

 進路の上方から浴びせられる石礫。
 小柄な赤ずきんがそれぞれの持ち場から石を放っている。
 跳躍しても決して届かない距離。
 礫は毛皮で防げる。肌が傷などつくことはないが、ただの礫でなくいずれかの薬である可能性がある。降り注ぐ度、注意を向けざるを得ない。

 石像を通り過ぎる。
 予想に反し、何も起こらない。
 後方の二階では小さな赤ずきんが鍋や調理器具で激しい音を立てている。
 振り返りかけ――気づく。

「  」

 赤ずきん達の動きがおかしい。
 自分の注意を何かから逸らせようとしている。それは何だ。

 ――誤算。
 赤ん坊の存在。そして一階に降りた赤ずきんの存在。

 ぎらついた黄色い瞳が動く。

 紅い光沢を持つ黒髪の少女がぼろぼろの縄を垂らしている様を直視する。
 少女は笑い、縄を握る少女は怯える。
 地を蹴って駆ける。

 縄を垂らした少女は赤ん坊だけを二階に引き上げ、無造作に何かを放り投げた。
 飛沫。
 色は鮮やかな橙色。

「  」 

 オオカミは秘薬の事を理解している。
 十分に理解している。
 それでも気付くのは僅かに遅れた。
 血みどろずきんの放擲した物体が、顆粒化した『火炎』だということに。

 毛皮に触れるそれが高温を帯びていることに気づく。
 眼球に火の粉じみた顆粒が直撃する。

 のけ反り、飛び跳ねて後退する。土に覆われた中庭の隅へ。
 中庭の周囲目がけ、カエデずきんとバラずきんが透明の顆粒をばら撒く。
 顆粒の正体をオオカミは推測する。
 床を透かす薬なら崩落した箇所と塗布箇所の区別がつかず、移動できる場所が限られる。
 音を吸った湿布なら他の何かの音を聞き逃す。
 火炎だったら皮膚を焼かれる。最悪の場合、目をやられる。

 思考で足が止まる。

 こっこっこっこっ、と塔内に響く靴音が激しさを増す。
 囁きが増える。話し声が反響する。
 指示が飛ぶ。怒声が入り混じる。

 があん、と銃声が響く。
 ジェヴォーダンの獣は怯えたように大きく跳ぶ。
 そして――――


 まだ透明化が解除される前の鍋に噛みつかれ、何人かの赤ずきんが息を呑む。


 見えていないはず。匂いも消したはず。なのになぜ気づいたのか。
 考える間もなく、オオカミは床ではなく壁に向かって中身をぶちまける。

 更に一階を駆け回り、壁や床に設置された水薬の罠を正確に見破り、ひっくり返し、破壊する。
 壁や柱、部屋の扉がめちゃくちゃに顆粒化する。
 赤ずきんがうろたえ、不快な赤子の泣き声がこだまする。

 一か所の壁が崩落し、そのまま真上の部屋までもが崩れ落ちる。
 雪崩に乗るようにしてカエデずきんとバラずきんが一階に落下する。
 すかさずオオカミが飛びかかるも、頭上から降り注ぐ甲冑の嵐に二の足を踏む。
 手甲、脛当て、剣といった数々の金属具がオオカミの周囲の地面を叩き、甲高い音を立てる。

「  」

 素早く飛び退いたオオカミは甲冑を投げ込むルビーずきんを見上げる。
 その顔には濃い恐怖の色がある。
 計画を乱されたことによる狼狽。
 二人の赤ずきんが死地に堕ちたことへの不安。
 ルビーずきんは半狂乱になって様々なものをオオカミに投げつける。
 剣。薬。家具、兜、壺、籠。その中身。
 木の枝。蔓。泥。水。草。

 オオカミは悪あがきを嘲笑うことはせず、安全地帯へ退いた。
 安全地帯。
 つまり、これまで一切罠の用意されていなかった場所。
 中庭へ。



 オオカミの視界から赤ずきんが消える。



 ――否、オオカミが赤ずきんの視界から消えたのだ。
 中庭の中央に掘られた、大きな落とし穴に落下して。

「  」

 熱と炎。
 石床の崩落。
 絶えず音が反響し、匂いが不気味に拭い取られた空間。
 オオカミの野性は自然、泥と水と草の匂いへの撤退を命じるはず。私はそう思っていた。
 だから中庭にだけは罠を仕掛けなかった。
 ただ一つ、落とし穴を除いて。

「    」

 オオオカミは穴を這い出そうとする。
 が、穴は大きく深い。
 底面には地下、地上、それぞれの厨房で見つけた鍋を敷き詰めてある。
 濡れた泥と金属が迅速な動きを阻む。
 オオカミはほんの数秒、穴からの脱出に難儀する。


 そして私は三階から飛び降りる。


 冷たい風が頬を撫でる。
 きつくかぶった帽子のつばが暴れる。
 裸の上半身に冷たい空気が突き刺さる。

 三階を通り過ぎる。
 二階に至る。
 松明が残像を残しながら上へ。

 オオカミが気づく。
 私を見上げる。
 私の武器を見る。

 かつて栄華を誇った塔に幾つも翻っていたという、旗。
 その旗を支える長大な金属棒を。

 二階の床を通り過ぎる。
 オオカミがぐんぐん大きくなる。
 黄色の目が見開かれる。
 口が開くのが分かる。
 奴が何かを言おうとする。

 私は奴の頭上に落下する。

 金属棒が頭蓋を突き破り、顎を粉砕する。
 喉から突き出した棒が鍋の底をがあんと叩く。

 筋肉に包まれた毛むくじゃらの獣に衝突した私は一度だけ大きく跳ね、それから落とし穴の底に落下する。














「――……、――」
「……――!」

「――……っ、――!」
「……?」
「――、――!」

 私を求める少女たちの声は、頭蓋骨の中で不快に響いていた。
 それがどんなに甘やかなものであっても、眠りを覚ます声は不快だ。

 全身の骨と肉が軋むのを感じながら、私は自分が生きていることを実感する。
 火で炙られたように全身が熱い。
 ゆっくりと、瞼を上げる。

 私を揺さぶり起こした赤ずきんたちの顔に笑みは無かった。
 疲労と、熱が冷めたことによる急速な虚脱感と、それから僅かばかりの高揚感が彼女達の顔を彩っている。

 脳震盪を起こしていたらしく、視界が歪んでいる。
 私の顔と身体には容赦なく冷水が浴びせられた。
 秋の水の冷たさに意識と肉体が完全覚醒する。

「おはよう。まだ夜だけど」

 血みどろずきんはいつも通り飄々としていたが、そこに微かな喜悦のようなものが覗いている。

「すごいのね。本当に死にましたよ、オオカミ」

 彼女の視線を追う。
 私は落とし穴から中庭へ引っ張り上げられており、穴の中は見えない。

「見ます?」

「ああ」

 ザクロずきんと血みどろずきんに肩を借り、よろよろと穴へ。



 ジェヴォーダンの獣は、死んでいた。
 頭部に槍よりも長い金属棒を突き立てられた獣は舌を垂らし、四肢を投げ出し、血の池に沈んでいる。



 ぎゅうっと太ももをつねられる。
 ザクロずきんが目を真っ赤に泣き腫らしていた。

「三階から飛び降りるなんて聞いてない」

「言わなかったからね」

 悪いとは思ったが、視線で居場所を悟られるのは避けたかった。
 オオカミを斃す方法は二つある。
 一つは床を崩して水の底に沈める方法。
 もう一つは吹き抜けを利用して三階から飛び降り、その勢いで射殺す方法。
 射殺す武器はザクロずきんが教えてくれた。
 かつてこの塔には多くの旗が揺れていたのだ、と。
 旗を支えるには棒が必要だ。それも、ちょっとやそっとでは傷みも折れもしない硬質な金属棒が。
 それは武器に転用できる、と私は考えた。  

「ばか」

 ザクロずきんが私の胸を叩いた。
 鈍い痛みに襲われたが、私は笑った。









 オオカミの心臓が止まっていることは確認できていたので、私たちは夜明けまで塔で休息を取ることにした。
 本音を言えばすぐにでも村へ引き返したいが、忘れてはならない。この村は夜間、普通の狼が出没する。
 ジェヴォーダンの獣を斃した帰路で普通の狼に襲われて死んでは笑い話にもならないだろう。
 私や赤ずきんは満身創痍だし、こちらにはオオカミが攫った赤子までいる。
 体力の回復と夜明けを待たずに行動するのは自殺行為だ。

 赤ずきん達は二階や三階の部屋へ散り、眠りに就いた。
 もっとも、一人ずつ別々に、だ。

 魔女の脅威はいまだ取り払われていない。
 オオカミを喪った今、奴が暴力で誰かを傷つけるとは思えなかったが、念には念を入れる必要がある。
 私は赤ずきん達に施錠をするようきつく命じていた。

「……」

 私は怪我を理由に一階に残っていた。
 既に松明の幾つかは燃え尽き、燭台の脂も尽きている。
 私は中庭の草やルビーずきんが見つけた炭を集め、即席の焚き火を作っていた。

 座ったまま炎を見つめていると、吸い込まれそうになる。

(……)

 ずきずきと全身が痛む。
 だが言いようのない高揚感と満足感もあった。
 私は少なくともオオカミから子供達を護ることができた。

 ――後は魔女だ。

(……)

 私は再び一から「誰が魔女なのか」を考えることにした。
 ぱちぱちと火が草を燻し、炭が爆ぜる。

 ぱち、ぱち。


 ぱち、ぱち。



 ぱち、ぱち。




 ぱちん。



「っ」

 はっと我に返る。
 どうやらいつの間にかうたた寝していたらしい。
 幾つかの光源が力尽き、塔の内部はすっかり暗くなっていた。

 これではダメだ。
 私は立ち上がり、冷水で顔を洗った。
 そしてふと思い立ち、オオカミの落ちた穴に近づく。


 ジェヴォーダンの獣は相変わらず死んだままだ。
 蘇る気配は無い。
 当然、何の心配も無い。



 なのに私は、穴の斜面を滑って死体に近づいていた。

「……」

 死したオオカミは剥製のようだった。
 骨格は信じられないほど大きく、皮膚からは濃い獣の臭いが滲んでいる。
 そこに血の匂いが混じり、落とし穴の中は異様な空気に満たされていた。
 私は思わず鼻をつまむ。

 結局、コイツは一体何だったのだろうか。

 魔女が生み出したと言っていたが、やはり何かの秘薬による変異なのだろうか。
 例えば―――

「?」

 私は何気なくオオカミの頭部に手を触れていた。
 ごわごわした毛。分厚い筋肉。破壊できたのが不思議なほど丈夫な頭蓋骨。
 黄色い瞳を通り過ぎた手が、思わず止まる。







 鼻が。


 無かった。







「……え?」

 私は何かの間違いかと思い、オオカミの顔を丹念に調べた。
 深紅の剛毛をどれほどかき分けても、『鼻』と呼ばれる器官が見当たらない。

 そう言えば、こいつの顔は初めて遭遇した時からごわごわの毛に覆われていた。
 見えるのは目と歯ぐらいだった。

「ど、どこだ……? お前の……鼻は」

 私は傷の痛みも忘れ、巨体を検分した。
 鼻が無い。
 オオカミとして、そんなバカなことがあり得るだろうか。

 いや――――

(傷……?)

 ちょうど、顔の突端に当たる場所に赤黒い溝のようなものがあった。
 剛毛に覆われているので分かりづらいが、確かにそこだけ体毛が薄い。
 まるで、と考えたところで心臓が止まりそうになる。



 まるで。
 誰かに鼻を剥がれたような。



「……」

 耳取り鼻剥ぎの魔女。
 それがこの塔に巣食う悪しき魔女の二つ名。
 赤ずきんたちを攫い、耳を取り、鼻を剥いでいた魔女。

 このオオカミも、鼻が無い。
 それはつまり――――こいつが元は人間だということではないか?

(……やはりか)

 私は驚かなかった。
 既に幾度も目にしたオオカミの知性に私は人間らしさを見出していたからだ。

 こいつの正体はおそらく、赤ずきんの一人だ。
 鼻を剥がれ、薬の製法を聞きだされた後にこの醜い姿に変えられてしまった赤ずきん。

 私は目を細め、思い出す。
 確か召使の記録にこんな一文があった。


 『だから――后様――――、――直接――――せず――、オオカミ――――』
 『若――――、はじまりの――――、――――て』


 お后様、つまり魔女は若返りの秘薬を愛飲していた。
 やがて彼女は自力でそれを作り出そうと、多くの赤ずきんを捕えて拷問し、薬の製法を聞き出した。

 だが当の若返りの秘薬を作る赤ずきんは生かし続けたに違いない。
 何せ彼女を不用意に傷つければ若返りの秘薬が永遠に手に入らなくなるかも知れないのだから。
 おそらく製法を教えろと言っても決して口を割らなかったのだろう。

 様々な赤ずきんに秘薬の製法を聞き出し、法則性や分量の感覚を覚え、ついに自力で若返りの秘薬を調合した魔女は狂喜乱舞したに違いない。
 そして今まで口を割らなかった『若返りの秘薬』の赤ずきんにできるだけ苦しい罰を与えることにした。
 お后様を魔女に変えるきっかけを与えた『若返りの秘薬』の赤ずきん。
 すなわち、『はじまりの赤ずきん』に、罰を。

 この時点で既に魔女は『効果時間を延長する薬』を生み出していたに違いない。
 そこに別の薬を混ぜて赤ずきんを「ジェヴォーダンの獣」に変えたのだ。

 私は知っている。
 人間を人間以外の生物に変える赤ずきんがいたことを。

(リンゴずきん……)

 獣に変身する効果を延長すれば、ジェヴォーダンの獣は生み出せる。
 もしかすると複数の秘薬を混ぜ込んだのだろうか。狼と熊だとか。牛と猪だとか。秘薬も薬だ。調合を誤れば失敗作にもなるのだろう。
 魔女は意図的に失敗作を作り、その効果を延長して『はじまりの赤ずきん』に食わせた。
 その時、自らが赤ずきんに化けることを宣言でもしたのだろう。
 かくして恐るべきオオカミは赤ずきんに化けた魔女を付け狙うようになる。

 つまり魔女とはリンゴずきん。
 だが彼女は――――

「……?!」

 おかしい。
 リンゴずきん――魔女は死んでいる。
 なのに私は魔女の妨害を受けている。

 どういうことだ。
 まさか――――

「リンゴずきんは死んでいない……?」

 私は塔の外を見た。
 そこには無限の闇が広がっている。

(魔女は、初めからこの塔に立ち入っていない……?!)

 いや、待て。
 落ち着け。

 不死身などありえない。
 不死身なら地位を脅かす存在を恐れたりはしない。
 不死身なら精神性が私たちと違うはず。
 魔女はあくまでも『人間』だ。

 よく思い出せ。
 リンゴずきんが魔女だと仮定しよう。

 どこかで、何かおかしなことを口走ってはいなかったか。

(……)

 思案。
 思案。
 思案が数分続く。

 そして―――――

「!!!」

 思い出した。

 かんぬき

 閂だ。

 この塔の門扉は鎖と錠でギチギチに固められていた。
 なのにアイツは初めて逢った時、「閂」に言及した。
 確かこう言った。

 ――『っ。でも、魔女の塔には入れません。扉にはかんぬきが下りてるし、トゲトゲの草がたくさん生えてます』


 あの門扉の有り様を見て、「閂が降りているから入れない」なんて言葉を発するのは不自然だ。
 あいつは日常的に中に入っていたのだ。
 だからこそ、咄嗟に閂に言及してしまったのだ。

 あるいは奴こそが閂を下ろした張本人か。

「……?」

 いや、待て。
 この塔が封じられた後、魔女は赤ずきんとして暮らしていたはず。
 わざわざ荒れた塔に入る理由がない。
 元は姫様だった魔女が、わざわざこんな場所に入るわけが。

 ここに入る理由があるのは――――





 ――乳母。





 あの文字は。
 数十年前に書かれたものではない。

 そうだ。
 文字の高さは『私の目線と同じ』だった。

 あれを書いた者こそがリンゴずきん。
 リンゴずきんが乳母だった。
 魔女に変化の秘薬を渡すよう言われ、仕方なくジェヴォーダンの獣を生み出したのだ。
 その後、罪の意識に苛まれた彼女は鳥に変身して度々この塔を訪れ、あの記録を書き残した。地上からは不可能でも、吹き抜けからなら容易に中へ入れる。
 いつかこの塔への籠城を企図するほどの蛮勇が現れることを期待して。
 魔女の目が届かず、魔女にとって「終わってしまった場所」と認識されたこの塔に真実を残した。

(……)

 では。
 では魔女は?

 魔女は一体―――――





 ひた、ひた、と。


 私は何か異様な音を耳にした。




 それは何かが滴る音だった。

 私は天を見上げた。
 そこには闇が広がっている。

 私は壁を見た。
 そこはただの土壁だ。

 私は足元を見た。
 血が、滴っている。

 血液はオオカミの頭ではなく、腹部から漏れ出しているようだった。
 言葉にならない焦燥に駆られた私はその場にしゃがみ、戦慄する。







 オオカミの下腹部に、異様な穴が開いている。






「ぁ。ぁ……」

 ザクロずきんが言っていた。
 今年のオオカミはいつもと違う、と。
 何かに気を取られている、と。

「っ……」

 私も不審に思っていた。
 一体コイツは何を食べているのかと。
 そして何を食べればこんなに『腹が膨れる』のかと。

 見当違いも甚だしかった。
 ジェヴォーダンの獣は、『妊娠していた』。



 その瞬間、私は身も凍るような恐怖に襲われた。



 こいつは元は人間だった。
 そして限りなく人間に近い知性を保ったまま、今日まで赤ずきんを襲い続けていた。
 仲間たちを殺した魔女に復讐するため。
 自分を辱め、こんな姿に変えた魔女に復讐するため。


 たとえ、何十年かかっても。
 たとえ、他の赤ずきんを巻き添えにしても。

 たとえ、狼の子を孕んでも。


「――――!」

 恐怖なら、何度も味わってきた。
 だが自分以外の誰かに向けられた憎悪に恐怖したのはこれが初めてだった。
 人はここまでおぞましく、誰かを憎むことができるのか。

 私は生まれて初めて、人間の憎悪を恐れた。

「っ」

 血の跡は落とし穴の壁を這い上がり、地上へ向かっている。
 まさか。
 まかかオオカミの子供は、まさか。

 心臓が早鐘のように鳴り出す。

(待て……待て、待て、待て……!!)

 落とし穴を這い上がる。
 血痕は私のすぐ傍を通り過ぎ、上階へ向かっている。
 赤ずきんのいる上階へ。

 奴は母親と違って鼻が死んでいない。
 それはつまり―――――






「起きろおおおおおおおっっっっっっ!!!!!!」






 あらん限りの声で叫び、怒声を張り上げた。

「バラずきん!! カエデずきん! ルビー! ザクロ! 血まみれ!! みんな今すぐ起きろ!! 俺のところに来いっっ!!!」

 私は慌てふためくように走り出し、つまずき、転びながら瓦礫を積んだ階段を駆け上がる。
 がらがらと寝台が動く音。
 小さな悲鳴や衣擦れの音。

「何?! 何?!」

 ぞろぞろと赤ずきん達が姿を見せる。

 さすがに本気で寝入っていたわけではないらしい。
 皆、足取りはしっかりしていた。

「みんないるか?! な、名前を!」

 顔が見えない。
 誰の顔も。
 闇の中で見えるのは彼女達の白い脚だけだ。


 頼む。
 頼む冗談であってくれ。
 生まれたての動物だ。
 弱り、死んでいるに決まっている。
 どこかで寝入っているに決まっている。

 そんなはずはない。
 母親の遺志を継いでいるなんて。
 そんなはずは。

 そんなはずはない。
 こんな。
 こんな形で私に。

 私に罰が下るはずが―――――







 そして、私は。

 永遠に忘れられない声を聞いた。





「――――――――――!!!!!!!」


 柔らかい喉が裂けるほどの絶叫。
 肉が千切れ、黄色い脂が飛び散り、露出した神経がめぢめぢと切れる音。
 血飛沫が噴き上がる。衣服の上から肉が貪られる。
 骨が噛み砕かれるぽりぽりという音。


 飛び出そうとする私を四人の赤ずきんが押しとどめた。
 無表情のカエデずきん。
 忠実なルビーずきん。
 放埓なザクロずきん。
 血みどろずきんまでもが、私の手足にしがみつき、動きを封じていた。

「――――ッッ!! ~~~~……!!」


 そこに居ないのは、バラずきんだった。

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