10/17
24:00/誰も知らない夢の赤
「本当に、オオカミを中に入れるの?」
二階の窓からオオカミを見下ろしていると、背後にバラずきんが現れた。
疲弊は色濃く、金色の髪は汗でくしゃくしゃだ。愛嬌のある笑みもどこか痛々しい。
私は近づいた彼女の髪を軽く手櫛で梳いてやった。
「……このままずっと閉じこもってた方がいいんじゃない?」
「相手がオオカミだけならね」
内部に裏切者が居ると分かった以上、籠城はもはや有効な策ではなくなった。
一か八かの賭けでオオカミを招じ入れるわけではない。そうしなければ私たちはここで死ぬのだ。
「魔女、本当にこの中にいると思う?」
通路の炎がバラずきんの影を長く伸ばしていた。
影はおぞましいほど長く伸び、疲弊した私の心胆を寒からしめる。
「いるよ。バラずきんもそれは分かっているだろう?」
「……。誰だと思う?」
誰かを名指しすることは禁じているのでバラずきんは私に問うた。
「分からない」
嘘ではない。
本当に、見当がつかないのだ。
(……)
オオカミとの決戦に備えて動く合間にも、私は魔女について幾度となく思惟を巡らせた。
召使の記録から得られた魔女の特徴は七つ。
①魔女は赤ずきんに化けている。
②魔女は若返ることができる。
③魔女は自身の秘薬で本来一時間しか効果の無いあらゆる秘薬の効果を自在に延長することができる。
④魔女はかつてこの塔に住んでいた。
⑤魔女の目は明るい青。
⑥魔女の髪は七色に変化する。
⑦魔女はオオカミに襲われない。
これだけ見ると外見で魔女を見分けることができそうに思えるが、血みどろずきん以外の目は全員明るい青で、髪色は七色だと断じられているので材料にならない。
子供の頃の髪色は一定らしいが、それが何色であるかはあの文字からは判別できなかった。
それ以外の事実で赤ずきんと魔女を結び付けられそうな要素と言えば『オオカミに襲われない』か。
一人だけ、その特徴を持つ者がいる。
死神と呼ばれる血みどろずきんだ。
彼女の周囲では赤ずきんが何人も死んだが、彼女だけは今日まで無事だった。
これは彼女が魔女であることを示しているようにも思える。
だが、偶然である可能性も否定できない。
彼女を魔女だと断じるのは簡単だが、簡単な答えに飛びついた結果何が待っているのか、私はよく知っている。
何より、これほどまでに狡猾な魔女がわざわざ悪目立ちするような行動を取るとは思えない。
「ねえねえ」
私を見上げるバラずきんは衣服の裾を引いていた。
「髪、そんなにきれいなのにどうして隠すの?」
「色々あってね」
「……私がオオカミをやっつけたら教えてくれる?」
「それは私の役目だよ」
「……」
バラずきんの顔から愛嬌のある笑みが薄らいでいく。
残されたのは曖昧な親愛の表情。
「あのね?」
「ん?」
「私――――」
ばるるるるっ、と。
すぐ近くでジェヴォーダンの唸り声が聞こえた。
「っきゃあああっっ?!!!」
「!」
私は思わず窓から飛び退いたが、奴の跳躍力ではここまで届きはしない。
おそらく牽制を兼ねた妨害のつもりだろう。
床よりやや下の壁を、がりりりり、と爪が掠る音がした。
窓に顔を寄せたが、奴は既に尾を丸めていた。
そのすぐ近くには奴が使った櫂船が揺れている。
船底には布が丸まっていた。
「大丈夫だ」
私はバラずきんを庇いながら呟く。
大丈夫。
――何の説得力も無い言葉だ。
私はみすみすリンゴずきんを死なせてしまい、今こうしてオオカミと魔女に追い詰められている。
本来なら私は何かを大丈夫だなどと言える立場ではない。
「っ。うん……」
バラずきんは胸元を手で押さえ、乱れた呼吸を整えている。
私は彼女が落ち着くまで頭を撫で、髪を梳いてやった。
ややあって、静かに問う。
「何か言いかけなかったかい?」
「ん。後にする。……猟師さんがオオカミをやっつけた後で」
オオカミをやっつけた後で。
そんな状況が本当に訪れるのだろうか。
私は清らかな贖罪者ではない。
無心で罪を償おうとする一方で、救われたい、報われたいと願ってしまっている。
救われるとは死ぬことだ。そして、報われるとは喝采を浴びることだ。
必死に抑え込んではいるが、血みどろずきんのような子には見破られてしまう。
私が前へ進もうとするのは、いまだに私の中に「村を焼いた日の私」が巣食っているからに他ならない。
最後の最後で、そうした感情の濁りが足を引っ張るのではないかと私は恐怖している。
罰で罪が許されることはない。
が、罰は巡り巡って私の頭上に落ちるのではないか。
そしてそれは何かを成し遂げようとしている時なのではないか。
もしも私が神なら、幸福の絶頂にある罪人こそ、最も深い谷底へ突き落とすだろう。
私は――――
「大丈夫だよ」
バラずきんは猫のような笑みを私に向けていた。
「猟師さんならできるよ」
あのね、と少女は左右に視線を走らせた。
他の者には聞かれたくない、という意思表示だろうか。
「ぜんぶ終わったら、ちょっとだけ時間欲しいな」
「ああ」
「ん」
バラずきんは私の手を軽く握り、立ち去った。
手に温もりが残された。
私は花弁を包むように手を握る。
「……」
そう言えば、召使はどうしているのだろうか。
かつては魔女の乳母であり、若返りの薬を口にして事実上の共犯者となり、最後には裏切者となった彼女も今は赤ずきんのはずだ。
塔の地下に残された文字は、信じることにした。
元は塔の最上階に住み、従者を地下に押し込んでいた魔女があそこに偽の記録を残すとは思えない。
あの召使はおそらく私の味方だ。――私と同じ罪人でもあるが。
赤ずきんの一員となった彼女はもう死んでしまったのだろうか。
それともまだ生きているのか。
生きているとしたら、それは誰だろうか。
もし彼女と二人きりになることができたら、こうして真実を囁き合い、手を組めるだろうか。
(いや……)
無理だ。
例えば召使がこっそり私に正体を明かすとしよう。
二人がかりで『コイツは魔女だ』と誰かを指差したとしよう。
どうやってそいつが魔女であることを立証すれば良いのだろうか。
私達の手元には、魔女を魔女だと糾弾できる物証が無い。
言動を手がかりにするのは危険だ。記憶は歪み、濁る。共有できないくせに、はぐらかすことはできてしまう。
もし召使と組むのであれば確かな物証が必要だ。
証拠もなく誰かを魔女だと断じれば、魔女は徹底的に証拠の不確かさを追求するだろう。
他の赤ずきん達が魔女の言に納得してしまったらもう収拾がつかない。
下手をすれば召使が魔女呼ばわりされてしまうかも知れない。
(そう言えば……)
ここに来た時のことを思い出す。
村長が「暗くなったらオオカミが出る」と認識していたにも関わらず、当事者である赤ずきん達が「夜になったらオオカミが出る」と誤認していた理由。
あれはおそらく魔女の差し金だ。
村人と赤ずきん達の間には微妙な距離感がある。その隙間に彼女は嘘を潜ませたのだ。
おそらく何世代か前に赤ずきん達の輪に潜り込み、嘘の情報を吹き込んだのだろう。
世代を超える嘘。途方もない話だ。
それを今日まで怪しまれることなく紡ぎ続けた舌の巧さも厄介だ。
もし生き残った召使と手を組むのなら、魔女にそれと知られないように行動しなければならない。
さもなくば――――
(待て……)
もし魔女と召使の双方が健在なら、魔女は私の情報源が召使だと気づいているのではないだろうか。
となると、召使が口封じをされる危険性が――――
「猟師さん!」
ルビーずきんが通路に立っていた。
「準備できています!」
「分かった」
忠犬のような仕草が特徴的なルビーずきんは相も変わらず剣の切っ先を床に擦っている。
私は少し考えたが、やめた。
剣にも色々な用途があるものだが、ルビーずきんの剣は装飾用だ。
手入れはよくなされているが、実用的ではない。あれを携えてオオカミに斬りかかればぽっきりと折れてしまうかも知れない。
第一、オオカミに剣で戦いを挑むなど自殺行為だ。
「……魔女のこと、本気で私たちの中にいるとお考えですか」
「ああ」
ルビーずきんは何かを言い淀んだ。
私はそれを無言で促す。
「私たちにも母がいます。ザクロずきんや血みどろずきんにだって、お母さんがいるんです」
「会ったことがあるのかい?」
「はい。こっそり籠を買いにいらしたことがあります。二人とも、何だか申し訳なさそうなご様子でした」
それはそうだろう。
ザクロはともかく血みどろのような娘を持ったら頭痛の種だ。
「お兄様とはお会いできませんでしたが、バラずきんにも優しそうなお母さんがいます」
でも、と彼女は続ける。
「母親が居ない赤ずきんがいます」
「誰だ」
「カエデずきんです」
「……」
「彼女だけは自分のお母さんの顔を知りません。村の中にも彼女のお母さんと会った人はいないそうです」
ルビーずきんはすぐさま付け加えた。
「事実を言っただけです。あしからず」
(……)
確かに「カエデずきんが魔女だ」とは言っていない。
普段はどことなく従順そうな素振りをする彼女だが、今の目はまるで猟犬だ。
猟犬は主のためなら悪知恵を働かせもするのだろう。
「覚えておくよ」
「はい。そうしてください」
ルビーずきんは戸口で剣を掲げ、そして立ち去った。
こっ、こっ、こっ、と歩くような速さで。
こっこっこっこっと雄鶏が鳴くような速さで。
たたたっと丸太を素手で叩くように。
かりり、と木の枝が石壁をこするように。
様々な音が塔の内部に満ち始める。
天から垂れる鍾乳石が無数の水滴を垂らし続けるように。
次に現れたのはカエデずきんだった。
灰色の髪に無表情が特徴的な少女は、通路からじっと私を見つめている。
「どうした?」
「いえ」
彼女は軽くかぶりを振る。
それ以上の言葉が無いのが彼女らしいと言えば彼女らしい。
「……」
ルビーずきんが教えてくれた母親の件について触れるつもりは無かった。
魔女と乳母は年齢を偽ることができる。
親子を装うことも可能だろう。
母親を見たことがある、というのは赤ずきんとしての身の証になりはしない。
「じゅんび、できています」
「ありがとう」
重い物を運ぶ作業は私の役割だが、細かい作業や時間を測る作業は彼女達の方が長けている。
互いに監視させながらではあるが、準備を手伝ってもらった。これもまた適材適所だ。
「……」
「……」
私たちの間に言葉は無かった。
不思議と、居たたまれなさは感じない。
「……」
カエデずきんの視線は私を勇気づけようとしているようだった。
その目を見返すと、彼女は微かに身じろぎした。恥じらっているようだ。
先ほど地下で大声を上げた件が恥ずかしいのかも知れない。
「……前は時計に隠れてやり過ごしたんだったっけ?」
「はい」
「運が良かったね」
いや、違う。
運の一言では片付けられない。
私は違和感を覚えた。
(どうしてオオカミはカエデずきんに気付かなかったんだ……?)
「わたしも、そのはなしがしたくて来ました」
時計の中。
時計の中に隠れることでオオカミの襲撃を逃げ延びる。
よく考えるとおかしな話だ。
何だろう。
何かがおかしい。
時計。時計の中。
それとも状況か。
普通ならオオカミは匂いで気づくはず。
「匂いは消していたかい?」
「わかりません……効果が切れていたのかも。それにあのころは水の中ににげたりもしたので」
「……」
「おなじことをしたべつの赤ずきんはしにました。私の時だけなにかちがったみたいです」
私は更に思考に没頭しようとしたが、やめた。
情報が少なすぎる。
早計するための知恵ではない。
「ごめんなさい。あまりやくにたてなくて」
「いや、いいんだよ」
カエデずきんは力強く頷いた。
「がんばりましょう」
「ああ」
通路にザクロずきんが現れた。
カエデずきんは口を噤み、不倫の現場でも見咎められたかのようにそそくさと退散する。
年長の赤ずきんはその後ろ姿をじっと見ていたが、やがて私に顔を向けた。
「小さい子に好かれるのね」
「何だか年を取ったな、ザクロずきん」
「……この状況で軽口を叩くの、あなたは」
白けた目をしたザクロずきんは腰に手を当てる。
相当疲れているはずだが、それらしい仕草は見せない。
感情的ではあるが、気丈だ。
自分以外に残っているのが血みどろずきんと小さな赤ずきん三人だからだろう。
年長者は大変だ。いつもこうして小さな子たちに背中を見せなければならない。
「君の薬が鍵だ」
「知ってる。準備はできてるから」
「ああ。ありがとう」
私に近づいた彼女も窓からオオカミを見下ろす。
「どうせなら三時間にして欲しかったんだけど」
「あまり時間を取ったら奇襲されるだけだ」
「……それなんだけど」
「ん?」
「オオカミのこと」
ザクロずきんは険しい表情になった。
「何か今日のオオカミ、いつもと違う気がする」
「え……?」
「気のせいかも知れないけど、今まで見てきたアイツより少しだけ動きが鈍いというか……」
(動きが鈍い?)
「んー……動き方が何かを気にしてるというか……そんな感じ。確信はないんだけど」
ザクロずきんは髪を軽く手で払った。
「それがこっちに有利に働くといいなって思うけど、一応報告だけはしておこうと思って」
オオカミが普段と違う。
それは一体――――
「あ、あと」
ザクロずきんは髪を軽く梳きながら続けた。
「気を付けて。血みどろのヤツ、たぶん匂い消してないから。あいつさっき、香水を自分に振るフリをしてた気がする」
「……」
彼女もまた、誰かが魔女だとは言っていない。
あくまでも事実の適示。
「じゃあね」
ザクロずきんが立ち去るり、私は沈黙のただなかに取り残された。
赤ずきん達は気付いている。
このまま何もしなければ、首尾よくオオカミを殺しても魔女が牙を剥くと。
彼女達もまた、必死に手がかりを得ようとしているのだ。
(今までの情報のどこかに魔女の手がかりがあったか……?)
思い出せ。
魔女とて元は人間だ。
どこかで、何か不用意なことを口にしてはいなかったか。
いや、奴は数十年も正体を隠しきっている。
もしかすると不用意なことなど口にしていないのかも知れない。
だが乳母はどうだろう。
――――あるいは、言葉ではなくモノ。
私は何か見落としていないか。
重要な何かを目の当たりにしながら、その重要性に気付いていないのではないか。
(思い出せ……)
これまでに聞いた赤ずきん達の言葉の数々。
行動。
何か。
何か無かっただろうか。
こんこん、と石壁を叩かれ顔を上げる。
「どうかしら?」
最後に現れた血みどろずきんは片手で優雅に塔の中を示した。
今や内部はこつこつ、かつかつという足音や赤ずきんの囁き声、私の指示を出す声に満ちている。
オオカミはすべてを聞き分けることができるのかも知れない。
だが判断はしなければならない。それが本物なのか、偽物なのか。
その僅かな注意の割り振りが明暗を分けるかも知れない。
「上出来だ」
「ふふ」
「楽しそうだな」
「楽しいもの。こんなにドキドキできるのってオオカミだけでしょ?」
「……」
ところで、と彼女は最後に呟いた。
「リンゴちゃんのこれ、使わなくていいの?」
これ。
動物に化けるリンゴだ。
血みどろずきんの掲げた籠の中には赤いリンゴが詰まっている。
「リンゴちゃん、化ける生き物の名前をこんな風にちゃんと書いてるの」
リンゴには黒い焼き印のようなものが入っていた。
「猫やナマズ、カモメ。さっき見つけたんだけど、オオカミのリンゴもあるの。ふふっ。リンゴちゃん、見た目の割に悪趣味ね」
彼女は赤い果実を示した。
「どれか使う?」
「どれも使わなくていい。使うなら――――私が死んだ後にしてくれ」
もっともそれは、死までの時間を一年延ばすに過ぎない。
今回の経験を踏まえ、奴はより狡猾に、賢くなる。
そうなればもはや誰も止められない。
「ふふ。魔女ならいくらでも化けていられるのにね」
「何?」
「だって、薬の効果を延長させるとか、そういうことができるんでしょう?」
「!!」
私は驚愕したが、血みどろずきんは呆れたような目をする。
「わざわざオオカミに襲われる側になったってことは、襲われない仕掛けがあるってことでしょう? それってたぶん秘薬でしょ?」
「……」
「オオカミに狙われない秘薬の効果を長引かせている、ってことじゃないの?」
私は答えなかった。
血みどろずきんは真っ赤な口を裂いて嗤うと、私の前から立ち去った。
そして、決着の時が来た。
私は静かに二階の一室に目をやる。
開け放たれた扉の向こうには剣を携えた少女。
「……!」
門扉のちょうど真上に陣取ったルビーずきんが、『顆粒化』の秘薬を床の穴からそっと垂らす。
ぴちゃぴちゃと水薬に濡れた瓦礫が粉雪のように崩れていく。
ざああ、と門扉を塞いでいた粒の山が床に広がる。
どくっ、と。
心臓が一度強く鳴る。
さすがに心音を聞き分けられることはないだろうが、私は胸を押さえた。
門扉がぎぎぎと開かれる。
どくんと心臓が鳴る。
カエデずきんが息を呑む。
ルビーずきんが私を見る。
バラずきんが動き出そうとする。ザクロずきんが壁の影に隠れる。
血みどろずきんが興奮に身を震わせる。
みゃあ、みゃあ、と何かが鳴いた。
「……ねこ?」
私の傍でカエデずきんが呟く。
そんなわけがない。
ここは堀に囲まれた塔だ。
猫なんて―――――
「!!」
総毛立つ。
猫ではない。
これは―――――
まず、櫂船が塔の中に飛び込んだ。
船底に敷かれた布は取り払われ、隠されていたものが露わになっていた。
無邪気に泣き喚く人間の赤ん坊。
驚愕する私たちの前に、ジェヴォーダンの獣が飛び込んだ。
+注意+
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