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六人の赤ずきん 作者:icecrepe
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6/17

20:00/誰も知らない闇の赤

 
「猟師さん! 扉を塞がなきゃ!」

 悲鳴じみたバラずきんの声で私は我に返った。

 既に夕陽が地平線に没してからかなりの時間が経過し、天は濁った雨雲に覆われている。
 塔の中は真っ暗だ。三歩先に何があるのかすら分からない。

「そ、それよりどこか隠れる場所を探した方がいいんじゃないの?」

「まだおおかみがくるまで時間があります。ここをきちんとふさぐべきです」

「ぅぅ」

 放埓な赤ずきんと無表情の赤ずきんの声はほぼ同じ位置から聞こえた。
 どうやら小さなカエデずきんが放ザクロずきんにしがみついているらしい。――声色を聞く限り逆かも知れないが。

「それにしても真っ暗ね」

 血みどろずきんは茶会に現れた貴婦人のごとき口調で呟く。

「こんな状態で動き回ったら転んでけがをするのが関の山じゃない? 造りは丈夫だけど古い建物なわけだし、家具が倒れたり床がめくれているかも」

「ルビーちゃんの薬で硬くなってるから大丈夫だよ!」

「ルビーずきんの薬は刃物を防ぐほどじゃないでしょ? 転んだ先に尖ったものがあったら大変よ。腐った木で怪我なんかしたらとっても苦しいんじゃないかしら」

 暗闇の中にも影は生まれる。
 もそもそと動き回っていたバラずきんの影が血みどろずきんの言葉でぴたりと静止した。

「で、でも何もしなかったらオオカミが来ちゃうのに……!」

「誰か灯りを持っていないの?!」

「みんな、落ち着きなさい」

 空気が再び震え始める。
 この状態は危険だ。恐慌に陥れば正常な判断力が失われてしまう。

「大丈夫です!」

 声を上げたのはルビーずきんだ。

「私は夜目が利きます。私が灯りを探します!」

 いつの間にか茨の冠を頭に乗せたルビーずきんの顔がすぐ近くにあった。
 きらきらした青い瞳がじっと私を見上げている。どうやら本当に夜目が利くらしい。
 私は懐から鋸状の火打ち金を取り出した。

「火口はある。乾いた木の棒か燭台を探してくれ」

「はい! ルビーずきん、行ってきます!」

 剣をぶら下げた少女は背筋をぴんと伸ばして敬礼し、走り出す。
 こっ、ここっと小さな影が石床の上を駆け回る。

「!」

 ひたりと何かが頬に触れた。
 ――――氷のように冷たい手だ。

「子供に探させるの?」

 血みどろずきんは間近で私の顔を覗き込んでいた。

「私たちを助けてくれるんじゃなかったかしら?」

「いや、助け合うことにしたんだよ」

 私は何もかもできる男ではない。
 それどころか子供ですら知っている「正しい道」を踏み外した男だ。
 一人で猛進すれば確実に落とし穴に落ちる。

 助けるべき子供の手を借りなければならない。
 聞こえは悪いが、その通り。
 情けない話だ。男としてこれ以上の屈辱はないだろう。
 だが私はその屈辱を甘受しなければならないだけのことをした。

 忘れてはならない。
 私は誇りを口にして良い立場ではない。

「ふうん」

 血みどろずきんは私の頬から手を離し、すっと闇に溶けた。
 彼女が死神と呼ばれるのも得心が行く。いちいち仕草が不気味なのだ。

(……)

 私は赤ずきん達と助け合わなければならない。
 と同時に、彼女達に疑いの目も向けなければならない。

 ジェヴォーダンの獣に対して十分な考察をしたとは言えないが、奴の初動の速さは明らかに不自然だ。
 バラずきんの香水を使わず、自らの体臭でオオカミを呼び寄せた赤ずきん。
 果たしてそんな子がこの中にいるのだろうか。

 こつっ、こつっ、とルビーずきんの足音が近づく。

「猟師さん、ありました!」

 燭台に火を点けた私はそれを翳した。
 途端に五人の赤ずきん達が集まって来る。

 左右の肩に背の高いザクロずきんと血みどろずきん。
 脇の辺りに無表情のカエデずきん、賑やかなバラずきん、生真面目なルビーずきんがくっついている。

 先ほどまで扉を塞いでいた太い金属の棒はザクロずきんの秘薬によって中ほどで折れてしまっていた。
 あれを再び閂に使うことは不可能だ。

「閂の代わりになるものを探そう」

 私は塔の内部に目を凝らした。

 まず目につくのは背の高い草の生い茂った中庭だ。
 塔の中央は吹き抜けになっており、遥か上方から小雨が降り注いでいた。
 燭台の光を受けた雨は銀糸のごとくチラチラと明滅している。

 中庭がかなりの面積を占めているせいか、塔の部屋数は少ないようだ。
 通路も入り組んでおらず、内部構造は把握しやすかった。
 反面、逃げ回るのには向いていない。各部屋がほぼ独立しているため、いずれかの部屋に追い詰められたらそこから外には出られない。

 最上階は三階らしく、燭台を少し上に向けると蔓に覆われた大理石の手すりが見えた。
 この塔に住んでいたという『悪い魔女』はあそこから中庭を見下ろしていたのだろう。


「二人一組で動いてくれ。カエデずきんと血みどろずきん、ルビーずきんとバラずきん」

 私は門扉の傍に括りつけられていた木の棒にちぎったシャツの袖を巻き付け、獣脂を塗り、火を移した。
 松明を手渡し、少女達の手を握る。

「じっくり探索する必要は無い。必要なのは閂の代わりになる『長くて丈夫なもの』だ」

 こくりと頷いた三人の赤ずきんと薄笑みを浮かべた一人の赤ずきんが塔の中に散らばる。

「……ねえ、私は?」

 残されたザクロずきんが不安そうに自らを指差す。

「秘薬について教えてほしい。……作り方じゃなくて効果だ」

 ザクロずきんは少しだけ躊躇った。
 それが今の私と彼女達の距離なのだろう。

「一度しか言わないからしっかり聞いて」


 カエデずきんはモノを透かす。
 バラずきんは匂いを消す。
 ザクロずきんはモノを粉々にする。
 ルビーずきんは生物の皮膚を硬くする。
 血みどろずきんは音を記録する。
 効果はすべて『一時間』。


 どの秘薬も私の常識を超えている。
 高値で取引されるのも頷ける話だ。

「簡単に言うとこんなところ。注意してほしいのは――――」

 カエデずきんの膏薬は塗った量に応じて透過度が変わる。
 先ほどの鍵のように表面だけを透かすこともできるが、塗り過ぎれば物体そのものが透明になってしまう。
 バラずきんの香水は無差別にあらゆる匂いを消す。大気ですら例外ではない。
 ルビーずきんの鼻薬は『モノ』には効かない。布を硬くしたり水をガラスのようにすることはできない。
 ザクロずきんの薬は生物や生物由来の品には効果が無い。オオカミを殺すことはできないし、持ち運ぶのなら皮革製品が必要だ。
 血みどろずきんの湿布は音を消すわけではない。

 私はそれらの特徴を頭に叩き込んだ。
 幾つかの疑問が脳裏を過ぎったが、今はいったん解消せずにおいた。


「……リンゴずきんは?」

 名を口にした途端、鉛の祭衣でも着たかのように私の全身が重くなった。
 贖罪を謳いながらみすみす死なせてしまった少女。
 首を噛み千切られた彼女の肉体は今、おそらく暗く冷たい堀の底だ。

 彼女を喪った記憶は死ぬまで私を苛むだろう。

「リンゴずきんの秘薬はあの真っ赤なリンゴ。口にしたら一時間だけ別の生き物に姿を変えることができるの」

 ザクロずきんは声を潜めた。

「鳥に姿を変えれば空を飛べるし、魚に姿を変えれば水の中を泳げる」

 使い方によってはオオカミから逃げ延びることができるということか。
 先ほどザクロずきんが使おうとしたのも納得だ。

 本人は命を落としたがリンゴは血みどろずきんの手元にある。
 もしかすると使う機会があるかも知れない。
 この閉鎖環境でナマズや猫に姿を変えることに意味があるとは思えないが。

「これからどうするの? 閂で時間稼ぎなんて本当にできる?」

「……」

「ね、ねえ何で黙ってるの」

 そうこうしている内に赤ずきん達が戻って来た。
 残念ながら閂の代わりになりそうなものは誰も手にしていない。

「にかいに寝室がありました」

「ベッドはあったけど、足は腐ってた。棒切れも結構あったけどすぐに折れちゃいそう」

「三階は?」

「この短時間で無理を言うのね。あそこは魔女の部屋でしょう? 私とカエデずきんの二人に探索をしろと?」

 血みどろずきんは軽く肩をすくめた。
 松明に照らされた黒髪は相変わらず紅の光沢を放っている。

「猟師さん。地下にはこれがありました」

 ルビーずきんが見せたのはボロボロの槍だった。
 穂先はあちこちが欠け、柄も汚れている。

「閂になりますか?」

「……いや、折られるだろうね」

「あのね? 地下は二階まであったよ!」

 バラずきんが私の腕に抱き付く。
 褒めて欲しそうな目をしていたので頭や首を撫でてやると、少女は猫のように喉を鳴らした。

「たぶんあそこね、使用人さんの部屋だと思うの」

「使用人?」

 確かこの塔は『悪い魔女』の塔だったはず。
 魔女に使用人がいたのだろうか。
 というか、『悪い魔女』はここで一体どんな暮らしをしていたのだろう。
 犬や猫に家事をさせるわけはないから人間の付き人がいたことは想像に難くないのだが、この広い塔の管理を数人の使用人でまかまえたとも思えない。
 それにあの槍。
 槍があるということは――――

「二階はたぶん兵士の詰所と客室ね」

 血みどろずきんが私の思考を呼んだかのように告げる。

「兵士の詰め所? それに……客室? 何でそんなものが?」

「当たり前でしょう。ここは『お姫様の塔』なんだから」

 ザクロずきんは呆れているようだった。
 私はいささか困惑する。

「『魔女の塔』だと聞いていたが」

「元々はどこかの国のお姫様が別荘に使っていたんですって」

「そうなんですか?」

 カエデずきんが首を傾げた。
 他にも数人の少女が不思議そうな顔をしている。あまり知られていない情報なのだろう。

「もう何十年も前だけどね。立派な旗がたくさん立ってたっておばあ様が言ってたから」

「そこを魔女が乗っ取ったのか」

「ええ。いつ頃からかお姫様の姿は見えなくなって、魔女が兵隊に命令していたらしいの」

 お姫様には気の毒だが、重要なのはここに残された設備と物資だ。
 腐食や風化を免れたものに限られはするが、探せば籠城の役に立つものがあるかもしれない。
 だが――――

(どうする……)

 時間が無い。
 掘の水位はこうしている間にもどんどん上がっている。
 上がり切れば奴が来る。
 前脚で水を掻くのか、顎で櫂を掴むのかは知らないが、奴は船を使って必ずここへ来る。

 ザクロずきんの言う通り、私は閂で塞いだ扉がオオカミを完全に拒みきるとは考えていなかった。
 パン生地で足音を消し、堀の水を導き、船まで使う怪物が多少丈夫なだけの扉を前に立ち往生するとは考えにくい。

(塞ぐだけじゃダメだ。何か別の一手が要る)

 沈黙に耐えかねたのか、バラずきんが口を開いた。

「ねえねえ。ザクロちゃんの薬で何とかならないの? ザクロちゃんが小さくしたものって一時間したら元に戻るから、大きなものを小石にしてここに積むのは?」

 バラずきんは足踏みするように扉の周辺をこつこつと叩く。
 閂ではなく重石。悪くない案だ。
 ただ――――

「それは試すけど、さっき調合した分はもう使っちゃったから残りはほとんど無いの。それに」

 ザクロずきんは懇願するような目で私を見る。

「もし一時間以内にあいつが来たら――門を素通りされる」

「そうね。重石だけだと一か八かの賭けになっちゃう。それも面白いとは思うけど」

「ちみどろずきんはちょっと静かに。はなしがすすみません」

「はぁい」

 そうだ。
 ザクロずきんの秘薬に頼るのは補助案だ。

 だが、どうすれば良いというのだろう。
 門扉を開けさせないためには閂か重石が必要だ。
 閂の材料になりそうなものはほとんどない。ならば重石か。
 木造建築を平然と破壊するほどのバケモノを押しとどめるほどの重石。
 そんなものがこの朽ちた塔にあるだろうか。
 あったとして、私にそれを運べるだろうか。
 私に運べる程度の重石など、奴は容易に突破してしまうのではないか?

 少女たちの不安そうな視線が私を急かす。
 年長者の役割はいつもそうだ。誰よりも正しい判断を遅滞なく下さなければならない。 

「……」

 考えろ。
 六人の赤ずきんの薬。
 かつては王族が使っていた塔に残された資材。
 そして私の知恵と持ち物で何ができるか。

 考えろ。
 オオカミはこの状況で何を考え、どう行動するのか。
 あれを嵐だと思ってはいけない。あれは生物だ。生物の行動には必ず思考が介在する。
 奴は賢い。賢いということはつまり――

「――――!」

 私は少女達に一つの問いを投げた。
 そして決断する。 








 中庭に生える草は背が高く、カエデずきんやルビーずきんの姿が隠れてしまうほどだった。
 驚くべきことに人工の水路と小さな沼まで造られており、中には小エビや小魚が泳いでいた。
 狭い狭い世界の、小さな小さな沼の中で繰り返される誕生と死。
 この生き物たちは哀れだ。

「……いいですね」

 カエデずきんがぼそりと呟いた。
 彼女は沼に生えた水草を手で掬い、匂いを嗅いでいる。

「こっちも良さそう」

 髪に赤い粒を散らしたザクロずきんは蛇の抜け殻を手にしていた。
 胸元ではカエルのスカーフ留めが雨に濡れている。

 茨の冠のルビーずきんは全員の上着を手で撫で、イラクサの棘を手の平に集めている。
 バラずきんは腐った木と赤錆びを集め、血みどろずきんは二階の酒保に残されていた古い酒を手にしている。

「本当にそんなもので秘薬を作るのかい?」

 私は木の盾を集め、『準備』を整えながら問う。

「トカゲの尻尾とか、コウモリの目玉を使うのかと思っていたんだが……」

「そういうものはいりません」

 カエデずきんだ。

「とくべつなものから特別なものを作るのはただのかがくしゃです。ほんとうの魔女は当たり前のものから特別なものを作ります」

 少女たちは額を寄せ、私には決して見えない場所で薬を作り始める。
 時折漏れる忍び笑いや密やかな息遣い。
 雨は勢いを弱め、ぱらぱらと彼女達に降り注いでいる。

 松明の光に照らされた五つの影に、私はなぜか寒気を覚えた。











 濡れた爪がかちりと石橋を踏む当たる音がした。
 牛を運ぶ櫂船のへさきがかこんと橋にぶつかる音も。

 水位はすっかり上がり切っている。
 今や石橋に座って足を投げ出せば水に浸かってしまうだろう。
 改めて、オオカミの知性に恐怖を感じた。
 火種を奪って使うという話も今なら信じることができる。

 ぴちゃ、ぴちゃ、と。
 オオカミは濡れた脚を一本ずつ橋に下ろした。

 私たちはそれを『透けた』扉から見ていた。
 扉にはカエデずきんの秘薬を塗っておいた。
 中央に丸いガラス窓をはめ込んだようにして外の風景が見える。

(……)

 私と並び立つ赤ずきん達は朽ちた木の盾や留め具を外した個室の扉を掲げている。
 ぬうと現れた巨体が扉へ近づくと、彼女たちは一斉に震え上がった。

「大丈夫だよ。奴は必ずここで止める」

 カエデずきんの薬は扉の外側にも塗っている。
 ジェヴォーダンの獣からも私達の姿が見えているのだろう。
 濁った黄色の瞳が確かに私たちを捉える気配があった。

 奴は猛然と駆け、肩にあたる部位を扉にぶつけた。
 どおん、と。
 大砲が爆発するような音がした。
 扉から数十歩の距離まで離れた赤ずきん達が悲鳴を押し殺す。

(大した力だ。だが――――)

 オオカミは扉が破れないことに気付き、小さく唸った。

 閂の代わりは窓を塞いでいた鉄串だ。
 ザクロずきんの薬で根元を顆粒化させて外し、束ねた。そう簡単には突破できないだろう。
 何度か体当たりを繰り返した奴は不愉快そうに唸ると、じりじりと扉から後退した。

「諦めた……?」

 私にしがみついたバラずきんがきゅっと服を掴む。

「助走をつけられないんだよ」

 獣の巨体は速度を伴って初めて破壊を生むことができる。
 さしものオオカミも助走なしの体当たりで扉を破ることはできない。
 奴は扉の前から姿を消した。

 どん、どん、どおん、と。
 今度は右の壁に体当たりする気配。
 塔のあちこちからぱらぱらと砂が落ちる。
 どおん、どん、と。
 今度は左だ。

「ひっ」

「大丈夫。側面には橋すらない。あちらの方が勢い不足だよ」

 再び透けた扉の前に姿を見せたジェヴォーダンの獣。
 奴はこちらを睨んだまま後退を始めた。

 鉄串は丈夫だが、一晩もの間、奴の突進に耐えられるとは思わない。
 何度も体当たりを繰り返されれば確実に破られるだろう。
 だが私は――――下を見た。
 それにつられてオオカミも黄色く濁った目を下方へ向けた。
 つまり、扉をぶち破った場合にたどり着く空間に。

 そこに、床は無かった。

 奴の目にも私たちの目にも地下一階、それどころか地下二階の光景が見えている。
 体当たりで扉を破ればオオカミは確実に落下する。
 直線距離で数十歩分だ。助走なしの跳躍で超えることは難しい。
 更に穴の縁に立つ私達は盾で武装しているので、ぎりぎりのところまで跳ばれても叩き落すことができる。

(……)

 生物は脚の骨を折ったら最後だ。
 そして奴は猫ではなく犬。高所から軽快に着地することはできない。

 ザクロずきんの秘薬で一度痛い目を見たオオカミは不愉快そうに唸り、私を見た。
 赤ずきんではなく、私を。

「……」

 私は目を逸らさなかった。
 ザクロずきんが息を呑んだ。




 気が遠くなるほどの時間が経過した。
 祈るような呼吸が四つ、楽しむような呼吸が一つ。




 やがて奴は諦めたように塔の周囲を巡り始めた。

「……」
「……」
「……」

 私たちの間に暗い快哉が上がった。

 床は、崩れてなどいない。

 カエデずきんの薬をたっぷり塗ることで一階の床と地下一階の床を『透かしている』だけだ。
 扉が透けているため、奴は『物体を透明にしてしまう』赤ずきんがいることは理解しているだろう。
 だが『床が透明なのか』『床が抜け落ちているのか』を判断する材料は持っていない。
 そこで奴の慎重さが仇になる。
 奴は賢い。賢いがゆえに、蛮勇を厭う。

 奴の身体能力は凄絶の一語に尽きる。
 まもとに戦えば勝ち目はないだろう。
 ならば方針は一つだ。
 それを使わせなければいい。
 知力で戦いを挑み、駆け引きに持ち込み、考えさせる。
 オオカミに思考『させる』。肉体を使うことを忘れさせるのだ。

 私は騎兵ではない。
 決闘には応じない。

 塔の周囲を旋回するオオカミは度々壁面に突進を繰り返したが、さすがにこの巨塔を打ち崩すには至らない。
 どん、どおん、という音の中、私たちは時を待つ。

 十分。
 二十分。
 雷を伴う嵐のようにオオカミは塔への突撃を繰り返す。

 やがてその音も止んだ。

「終わりかしら?」

 血みどろずきんが呟く。

「別の方法を探しているだけだろう」

 扉は突破不能。
 格子を抜いた窓があるものの、奴の骨格では入れない。
 となると――――

「侵入するとしたら――――上だ」

 私達は頭上を見上げた。
 が、オオカミがこの塔の外壁を登り切り、上から侵入することがありえるだろうか。
 一般に、犬や狼は猫と違って木登りができない。身体の構造が違うからだ。
 犬には鎖骨というものが無いので、木の股に飛び乗ることはできても幹にしがみつくことができない。
 ゆえにジェヴォーダンの獣もこの塔を登り切ることはできな――

「!」

 がり、がりりり、と爪が壁を引っかく音がした。
 ひいっと何人かが震える。
 だが私は逃げ惑おうとする彼女達を制止した。

「大丈夫だ」

 がり、がり、と大人の背丈ほどまで登ったところで、がりりりり、と爪音が地上へ落ちる。
 その試みは何度か繰り返されたが、奴は一階より上の高さへ登ることはできないようだった。

 仮に三階まで登ることができたとして、着地の衝撃でほぼ確実に脚を折る。
 正面突破を警戒するほど慎重な奴が最上階まで登って蛮勇に身を委ねることはない。
 奴自身もそれに気づいたのか、無謀な試みは中断された。

(まだ終わりではないだろう)

 奴には知恵がある。
 必ず他の方法を探す。



 ごりりり、と不快な音がした。



「石畳をめくってる!」

「……だろうね」

 正面と上からは入れない。
 ならば地下。当然の判断だ。
 だがそう簡単には行かない。

(本気で穴を掘るのか? オオカミ……)

 塔の地下は二階まである。
 穴を掘るのは勝手だが、いざ地下深くに至ったら、逆に登ることができないだろう。
 もし塔の地下から内部に侵入できなければ、そこが奴の墓穴となる。
 文字通りの『墓穴を掘る』だ。


 が、それは浅慮に過ぎなかった。
 奴の穴掘り音は思いがけず塔を旋回し始めたからだ。


(! 螺旋状に穴を掘る気か……?!)

 真っ直ぐ下へ穴を掘れば、塔へ侵入できなかった場合に戻ることができない。文字通りの墓穴だ。
 だが螺旋形に穴を掘れば膨大な時間こそ掛かるが、確実に戻ってくることができる。

(そう来るか……!)

 この塔は堅牢だ。
 石壁に覆われ、漆喰で固められている。矢の雨が降ろうと槍衾が迫ろうと正面から受け切るのだろう。
 が、堅牢さが知恵を防ぐことはない。
 知恵に対抗できるのは知恵だけだ。

 あらゆる方法で奴を妨害しなければ。

「下へ行く!」

 一階の隅に設けられた階段から私たちは階下へ向かった。
 扉の死角にはザクロずきんが用意した顆粒が積んである。
 じきにそれは巨大化し、完全に正面扉を塞ぐだろう。まず一か所、奴の侵入経路を潰せた。

「転ばないように!」

 私は松明を掲げた。

 石壁一つ隔てた向こうで螺旋を描いて潜行するオオカミと競うように階段を駆け下りる。
 直線的な階段を駆け下りる分、私たちの方が遥かに早かった。



 星明かりすら届かない地下一階は文字通りの闇だった。
 オオカミとの距離がかなり離れていることを確認した上で、私はまず赤ずきんたちに火を灯すよう告げた。
 灯りを手にした少女たちが散らばるとあちこちに光が生まれ、暗い廊下が浮かび上がる。

 ひと息ついたところで私は石壁に手をついた。
 と、奇妙な感触に気づく。

(!)

 手の平に触れる石壁に細い溝が走っているのだ。
 ただの傷かと思ってなぞり、はっと息を呑む。
 これは――――文字だ。

 子供の目の高さでは決して気づけない場所。
 私はそこに刻まれた文字を慎重に手の平で感じ取る。



 『この文字に気付いた人へ。私はあなたをずっと待っていた』



 私はおそるおそる手をどけ、指の隙間から文字を直視した。



 『気を付けて。魔女が赤ずきんに化けている』


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