4/17
19:00/誰も知らない土の赤
少女達の金切り声は針の嵐を思わせた。
「――――!」
「――! ――ッ!」
「――――……!」
甲高い悲鳴が頭蓋の中できいんと響く。
恐怖。焦燥。後悔。不安。猜疑。苛立ち。不快感。
ありとあらゆる負の感情を呼び起こされ、私は数歩後ずさる。
オオカミは顔を横に向け、ぶっと何かを噴き出した。
かつて赤ずきんの一部だった赤黒い飛沫が堀へ落ちて行く。
奴の頭が動き、濁った黄色の瞳が私を捉える。
槍の穂先を思わせる耳が微かに動き、耳まで裂けた口が開かれた。
ブガァァァァ、と。
酔った男のげっぷにも似た呻きが漏れる。
泡立つ唾液と血液の混ざりものが犬歯からべしゃりと垂れた。
「っ!!」
ほとんど反射的に猟銃を構えた私は奴の眉間に狙いを定めた。
ごわごわの体毛に覆われた顔は想像以上に広く、まるで壁のようだ。
これなら多少狙いが逸れても全弾が直撃するはず。
引き金に指を掛けたところで視界に深紅の残像が映る。
「?!」
オオカミ――いや、『ジェヴォーダンの獣』は、巨体に似合わぬ俊敏さで大きく後方に跳んでいた。
奴の一足飛びは大人の数歩分にも匹敵していた。
たん、たん、たん、と軽やかに三度、オオカミが石橋を蹴る。
パン生地に包まれた脚が橋の中ほどに着地する。
一拍遅れて、血と骨と脳漿の雨が降る。
それらは呆気に取られる血みどろずきんの顔に、ばららら、と降り注いだ。
続いて、首から上を失ったリンゴずきんの長身が傾いだ。
まるで自らの死に今気づいたとでも言うように。
手籠が落ち、リンゴが散らばる。幾つかは石橋を転がり、堀の底へ。
視界の端でその光景を捉えながらも私はオオカミから目を離さなかった。
(っ!)
銃口の先には棒立ちの血みどろずきん、その向こうにオオカミ。
この位置関係は最悪だ。
撃てば弾が血みどろずきんに直撃する。撃たなければオオカミの顎が彼女を――――
既にオオカミは地を蹴っていた。
ひと蹴りで勢いに乗り、ふた蹴りで間隔を調整し、三歩目には攻撃態勢。
血みどろずきんがようやく振り返った瞬間、オオカミはばっくりと口を開いていた。
縦に開かれた口顎は扉一枚分ほどの面積があり、血みどろずきんはおろか私ですらひと呑みにしてしまいそうだった。
不規則に並ぶ犬歯は拷問器具にそっくりだった。
氷のような肌にオオカミの影が落ちる。
私は為す術もなく、血みどろずきんに迫るオオカミを見つめていた。
「――――!」
撃てば血みどろずきんは死ぬ。
撃たなくても血みどろずきんは死ぬ。
なら。
撃った方が良いのではないか。
獣に食われるぐらいなら。
私がこの手で――
突如として、狼の咆哮が響いた。
「?!」
ジェヴォーダンの獣ではない。
小さな狼の遠吠えだ。
まるで音だけがその場に現れたかのように、アォォォ、アァオォ、という咆哮が響き渡る。
驚愕したのは私だけではなかった。
今まさに血みどろずきんを喰らおうとしていたジェヴォーダンの獣は空中で身を捻り、ばつんと着地した。
四つ足でしっかりと地を踏みしめ、体勢を低くしたオオカミは私達に背を向け、村の方角を睨んでいる。
続いて奴は右を見た。
それに左を。
血みどろずきんはその隙にたっと駆け出し、リンゴずきんの手籠を拾い上げながら私に合流する。
氷の肌は僅かに青ざめていたが、口元には微笑が浮かんでいる。
「ヒヤッとしました」
「!」
はたと気づく。
今の遠吠えはもしかして、彼女の『秘薬』の効果なのではないかと。
確か血みどろずきんは私達と会う直前までオオカミを模した声を上げていた。
「一時間だけ音を吸ってくれるんです」
私の傍を通り過ぎながら血みどろずきんは赤い湿布を見せた。
「ああやって閉じ込めて、開くと音が出るんですよ」
先ほどまで血みどろずきんが立っていた場所には小さな赤い巾着袋が落ちていた。
ジェヴォーダンの獣は気付いていないようだが、狼の遠吠えは口紐の緩んだその袋から聞こえているようだ。
血みどろずきんは私に抱き付くと、踊るように位置を入れ替えた。
つまり、私を盾にした。
「ほらほら。撃たなくていいんですか?」
「――っ!」
オオカミの耳がぴくりと動き、顔がこちらを向く。
鼻先まで剛毛に覆われた獣はゴルルルル、と遠雷にも似た唸り声を発した。
「!」
筋肉が躍動する気配を察し、反射的に引き金を引く。
があん、と衝撃が全身に響いた。
顔面に鉛の雨を浴びたジェヴォーダンの獣は僅かに痛がる素振りを見せた。
ばずず、と。聞いたこともない着弾音が遅れて私の耳に届く。
オオカミは激しく首を振り、毛に絡みついた弾を振り払っている。
(効いていない……!)
私はすかさず銃身を回転させた。
燧石銃は弓矢と違って連射ができない。
さりとて一発撃つ度にもたもたと弾や薬を詰めていては獲物が逃げてしまう。
なので、私の銃は銃身を三つ束ねてある。一発撃つごとに手動で砲身を回し、次の弾を吐かせる構造だ。
かちりと銃身が回り切ったところで再び引き金を引く。
奴は鮮やかに後方へ跳躍した。
鉛弾の雨が石橋を叩き、飛び散った礫が堀へ吸い込まれていく。
(……!)
私は反撃を覚悟したが、深紅の獣は攻勢に転じなかった。
銃弾を回避したジェヴォーダンの獣は姿勢を低くし、じりじりと這うような格好で近づいて来る。
(こいつ……!)
オオカミは散弾を真正面から喰らっても平然としている。私の銃が旧式であることを差し引いても、恐ろしく強靭な肉体の持ち主だ。
それでいて、二射目を身体で受けながら強引に突破するような素振りは見せなかった。
推測に過ぎないが、奴は「一射目と二射目の威力が違う可能性」に思い至り、守勢に転じたのだろう。
結果としてその判断は誤りだった。二射目を浴びながら強引に飛びかかっていれば、奴は私に致命傷を与えることができた。
私を救ったのは奴の恐るべき用心深さだった。
「ハっ……はっ……!」
鼓笛隊の太鼓さながらに心臓が脈打つ。
身体は火照り、レギンスに汗が噴き出す。
呼吸の激しさに肉体が追いつかず、気を緩めれば視界が歪む。
ジェヴォーダンの獣はじっと私を睨み、一流の剣士を思わせる足取りでそろりそろりと近づいて来る。
黄色く濁った目を見た私は直感した。
奴は何かを待っている。
銃を持つ人間の何を待つ?
――――弾切れに決まっている。
(こいつ、銃と戦い慣れている……!!)
剛毛に覆われた奴の顔面は血に濡れていたが、それを気にする様子は無い。
村長たちの言葉は正しい。
こいつは間違いなく、人の手に余る怪物だ。
私は奴に銃口を向けたまま後ずさる。
オオカミはじりじりと迫る。
歩きながら前脚の一本を持ち上げたジェヴォーダンの獣はパン生地を器用に毟り取った。
ぶ、と吐き出された生地は堀へ。
まるで手袋を噛んで外す人間のごとき所作。
「っ……!」
私の指は引き金に掛かったままだ。
いつでも撃てる。
いつでも撃てるが、残弾は一発。
銃身を外し、悠長に次弾を装填している暇など無い。撃てば弾は切れ、私は死ぬ。
懐に手銃はあるものの、威力が低い。
精度にも難がある。ピストルは二十歩も離れれば真正面の人間にすら当たらない。
「ハ……はっ……!」
今かろうじて私が生きているのは奴が私を警戒しているからだ。
理由はおそらく、これまでの男たちと異なり、たった一人で立ち向かっているから。
奴は私が入念に計画を練り、この場に立っていると考えている。一人でも勝算があるから自分に立ち向かっているのだ、と。
まさか村に着いて数時間の、ほとんど猟師道具しか持っていないただの男だとは想像だにしていないのだろう。
一秒後。
いや、二秒後か。
奴がその気になれば、私は猫の手にかかった虫のように縊り殺されるだろう。
いつ死んでもおかしくない。
私は今この瞬間、偶然生きているに過ぎないのだ。
「は……ははっ」
恐怖が、笑いを生んだ。
度を超えた臨死の感覚で頭がおかしくなりかけている。
ジェヴォーダンの獣は瞳を細め、僅かに進軍の速度を遅らせた。
私が一歩後ずさると、奴が一歩前進する。
私が一歩。奴が一歩。
牛よりも巨大なオオカミは私の隙を窺っている。
私に『切り札』が無いかを探ろうとしている。
と、奴の視線が微かに動いた。
私ではなく、私の後ろに。
手の中に何かがねじ込まれる。
「鼻に入れて! ルビーちゃんの薬!」
バラずきんだ。
彼女はオオカミを見つめたまま後ろ向きに走り出した。
まさに脱兎のごとく。
「一時間だけ肌がとっても硬くなるの! トゲトゲの草も大丈夫だから! 早く! こっち!」
「――!」
疑う間も考える間も無かった。
鼻の穴に小瓶の先端を突っ込む。
瓶には穴が開いており、甘い匂いが漂っていた。
つん、と薬を吸う。
鼻の粘膜が塞がれ、涙が浮かぶ。
湖面に氷が張るようにぴきぴきと皮膚が硬化していく。
もっとも、ジェヴォーダンの獣の前ではそれは些細な変化に過ぎない。
元々柔らかい人間の肌が多少硬くなったところで奴の牙を防げるわけではない。
だが私の心には大きな変化が起きた。
護ると決めた少女に護られた。
その羞恥と屈辱が私の心に火を点ける。
悲しいことだが、私はいまだに屈辱だとか羞恥だとかいう感情で奮い立つらしい。
五感が鋭さを取り戻す。
ぱらぱらと降る雨の音。獣の臭い。暗くなっていく世界。
黄色い瞳。深紅の体毛。
手に握る銃の感触。リンゴずきんの死骸。
「っ」
私はジェヴォーダンの獣に銃口を向けたまま爪先で地を蹴った。
そして真後ろへ向かって走り出す。
「早く! 早く早く早く早くっっ!!!」
「急いでッ! もっと急げないのっ?!」
ルビーずきんの悲鳴。
ザクロずきんの悲鳴も聞こえる。バラずきんの悲鳴も。
私は悲鳴に吸い込まれるようにしてイラクサの群生地帯へ突っ込んだ。
葉が、茎が。ざわざわと肌を掠める。
刺さり損ねた棘毛が頬を滑り、服に引っかかる。
痛みはまったく感じない。くすぐったいほどだ。
ルビーずきんの薬の上から青臭い匂いが染みつく。
視界が濃淡まばらな緑色に閉ざされ、オオカミの姿が遠ざか――――
数秒前まで私の居た空間が、獣の口にばくんと収まる。
(!!)
閉じた顎の勢いで小さな風が起こり、イラクサの群れをざざあと揺らす。
一足飛びで私を追撃したオオカミは苛立たし気に着地した。
赤ずきん達の声が止む。
(っ。そうか……!)
私は事態が何ら好転していないことに戦慄した。
私と赤ずきんたちはイラクサの群生地帯を突破するのに薬を使わなければならなかったが、オオカミの全身は針のごとき体毛に覆われている。
こんな草むらなど足止めにもならない。
奴はこのまま平然と突進してくるだろう。
猟銃を奴の顔面に向け、私は一秒を一時間にも錯覚しながら考える。
(どうする……?! このままでは……)
何ができる。今の私に。
撃つか。
いや撃てば終わりだ。
撃たなければどうする。
私に何がある。
何が――
「どいて!」
バラずきんが私の横に。
彼女の手には小さな木筒が握られていた。
ぶわりと赤い何かがまき散らされる。――――香辛料だ。
ジェヴォーダンの獣がびくりと反応し、後方へ大きく跳んだ。
小麦粉でも混ぜてあるのか、香辛料は煙となって視界を薄く覆う。
「撃って!!」
声に続いて、何かが宙を舞った。
私は咄嗟に猟銃を斜め上方に向け、それを撃ち抜いた。正確には散った弾の幾つかがそれを破った。
ばあん、と宙でひしゃげたのは革の水筒だった。
形状に見覚えがある。
あれは確かザクロずきんの水筒だ。
「下がって!」
肩を掴まれ、イラクサの茂みに引きずり込まれる。
息を弾ませたザクロずきんは不敵な笑みを浮かべていた。
「もうアイツは追って来られない……!」
警戒心の強いオオカミは更に後方へ跳んでいた。
その目の前でびしゃっと液体が爆ぜる。
「?!」
次の瞬間、私は我が目を疑った。
頑丈な石橋が紐を抜かれたビーズ細工のごとく放散したのだ。
灰色の砂粒となった橋は遥か下方の堀へ向けてばしゃばしゃと降り注ぎ、均衡を失った橋脚の何本かが傾く。
オオカミは素早くこちらに尾を向け、地を蹴った。
その判断は正しかった。傾いた橋脚はオオカミの真下に伸びる柱にぶつかり、ヒビを入れたのだ。
小さなヒビはたちまちの内に古い石柱を走り、橋は更に崩落する。
ジェヴォーダンの獣は深紅の巨体をしならせ、駆けた。
一直線に飛ぶ火矢のごとき姿に私は畏敬の念すら覚える。
跳躍を繰り返したオオカミが着地し、振り返る。
遥か遠方であるにも関わらず、心臓を鷲掴みにされるような圧迫感はほとんど薄れていない。
どおおん、と大砲のような音がした。
最も大きな橋脚が水面を叩いたのだ。
「一時間したら元の形に戻るけど……ま、この場合は関係ないかしら」
ザクロずきんは高く上がった水柱を見下ろしていた。
「これで少しは時間が稼げるでしょ」
「猟師さん!」
「猟師さん!」
バラずきんとルビーずきんが私の両手を引く。
「急いで! 中に入らないと!」
今やオオカミと私たちを結ぶ橋は完全に寸断されている。
奴は濁った瞳で私達を見据えたまま、低い唸り声を漏らしていた。さしものジェヴォーダンの獣とて跳躍してこちらの岸にたどり着くことはできないらしい。
尾を翻したオオカミはその場を離れたが、諦めたようには思えない。
奴は必ずここに来る。
そして次の接触はほぼ間違いなく死を意味する。
私はイラクサの群生地帯を抜け、大きな扉の前に立った。
(これは――――)
塔の正面扉は幾重にも鎖が巻き付けられたうえ、錠で厳重に封印されていた。
錠の形そのものは古いので問題なく問鍵が使えそうだが、いくらなんでも数が多い。少なく見積もっても二十を越える錠が扉を封じている。
問鍵は二つの作業で構成されている。錠の内部構造の把握と、実際の解錠だ。
経験上、内部構造の把握には五分、解錠には二分を要する。
一つの鍵を解くのに七分。
それが二十回を越えるということは、単純計算で二時間を要する計算になる。
正面突破は現実的ではない。
「こ、こんなの開けられるの……?!」
バラずきんの問いには答えず、私は塔の周囲をぐるりと巡った。
(あった!)
大人二人分ほどの高さに窓があった。
私は壁面を素早くよじ登り、古びた木製の鎧戸に手を掛ける。
幸運なことに鍵は掛かっていなかった。しかも長年雨風にさらされたことで鎧戸は歪み、傷んでいる。
(良し。これなら力ずくで破れる)
まず私が内部への進入路を確保する。
衣服で即席の縄梯子を作り、赤ずきん達を引っ張り上げる。
滑車があればなお良いが贅沢は言えない。とにかく急いで――――
「っ!!?」
鎧戸を開けた私は戦慄した。
鉄格子だ。
鉄格子が嵌められている。
私の浅はかな考えなど、この塔の設計者にはお見通しだったのだ。
(しまった……!!)
押せども引けども格子は動かない。
これでは窓からの侵入は絶望的だ。
もう少し高い窓ならもしかすると格子が嵌められていないのかも知れないが、私はヤモリではない。もう手が限界だ。
着地のために手を離すのと、ルビーずきんの悲鳴が同時だった。
「猟師さん! あれを見てください!」
両手両足で着地し、少女の指差す先を見る。
深紅の剛毛を持つオオカミが堀の周縁を駆けている。
こうして見ると本当に大きい。まるで牛のようだ。
腹が膨らんでいるところを見るに、赤ずきん以外にも何かを食べて生きているらしい。
ずしっ、ずしっと重々しく駆けるジェヴォーダンの獣は水路へ向かっているようだった。
(……アイツ、何を……?)
水路にたどり着いたオオカミはちらりとこちらを見た。
まるでこれから自分の取る行動の意味を知らしめるかのように。
奴はおもむろに大口を開けると、水をせき止める木の板に噛みついた。
乱杭歯が分厚い遮蔽板に突き刺さり、めきめきと音を立てる。
オオカミは四肢を大きく開き、爪が地面に埋もれるほど力強く踏み込んだ。
そして――――
「!!」
オオカミは勢いよく首を振り、水をせき止める板を留め具から外した。
途端、強引に行き先を変更させられていた水が本来通うべき道へ一気に押し寄せる。
じうじうと乾いた水路が歓喜の音を立てる。
「嘘……!」
(あんなことまでできるのか……!)
何十年も放置されていた溝を、競い合うように大量の水が走る。
やがてそれらは狭い水路を飛び出し、堀に注ぐ滝となった。
「まさかアイツ……」
余裕を見せていたザクロずきんが青ざめる。
「泳いでここに来る気じゃないでしょうね……!」
「落ち着いて。大丈夫だ」
私が宥めるとザクロずきんは顔を真っ赤にした。
「な、何が大丈夫なの?!」
「堀の容積に対して流れ込む水の量が少なすぎる。泳ぐのは不可能だよ」
「ようせ……何?」
「あれしきの水なら何時間掛かっても堀の水位を上げることはできないってこと」
リンゴずきんの手籠を抱えた血みどろずきんが口を挟んだ。
額にうっすらと汗を浮かべてはいるが、彼女の呼吸は穏やかなままだ。
「オオカミが泳げたとしても、水面がこの橋と同じ高さまで上がらないと塔には辿り着けないでしょ?」
血みどろずきんは堀を覗き込んだ。
ほとんど断崖に近い高さ。
彼女の言う通り、水門を一つか二つ破壊したところでこの堀の水位を上げることはできない。
「そもそも、あの筋肉量で水の中を泳ぐのは不可能だよ」
「でも、犬は泳げます」
これはカエデずきん。私は口調を努めて和らげる。
「犬とは重さが違いすぎる。あんな脂肪の少ない体で水に浮くことはできない」
自然は生物に不必要な能力を与えない。
陸上での活動に特化した生物は水中で不利になるよう設計されている。
「すぐ開ける。待っていなさい」
私は山ほどもある鍵に向き直った。
言葉とは裏腹に、手には脂汗が滲んでいる。
『堀の水位は上がらない』
『水の中を泳ぐことはできない』
どちらも私の推測であり、想定に過ぎない。
奴は既にこちらの想定を上回っている。それも何度も。
次もたぶん、超えてくる。
(急がなければ……!)
私は生涯最高の速度で問鍵を操る。
綿を巻いた棒を専用の液体に浸し、××を××××し、××××に××と××を××××る。
たっぷり数分かけて一つ目の鍵の内部構造を把握する。
次は鉤状の金属棒の出番だ。一本で解錠しようとすれば時間がかかるので、私は三本使う。
中でぽきりと折れてしまうと始末に負えないので、集中しなければならない。
「りょ、猟師さん! 水がっっ!!」
ルビーずきんの声に私は振り返らなかった。音で事態を把握したからだ。
――――水面を叩く水音が増えている。
「そう言えばこの掘って、魔女が大きな川の水を引いて作らせたって逸話があるの」
血みどろずきんはリンゴの匂いをすんすんと嗅ぎ、嘲るような目を向けた。
「一つや二つじゃ水嵩が上がることなんてありえないけど、全部の水門を壊してしまったら……どうなるのかしらね?」
赤ずきん達が息を呑んだ。
「……」
鍵を一つ、二つ、三つ解く。
私の左方でざぶんと新たな水の流れが生まれ、私の後方で水を塞いでいた土砂が崩れる。
革袋に針を刺すようにして、一つ、二つ、三つと堀へ流れ込む水の路が増えていく。
今や私達は五、いや六を超える滝に囲まれていた。
それはつまり――――
「猟師さんっ、み、水がっ! 水位がどんどん上がってますっ!」
「――――!」
オオカミは泳げない。
その前提がありつつも私は恐怖に駆られていた。
水位が上がり切った時、きっと私達にとって悪いことが起きる。
「か、鍵はっ?! 鍵はまだ開かないのっ?!」
血相を変えたバラずきんが私の手の中を覗き込む。
二十個以上ある鍵のうち、開いたのは僅か五個ほどに過ぎない。
「ザクロちゃん、薬は?! ザクロちゃんの薬なら……」
「さっきので全部使っちゃったの! 材料はあるけど調合に時間がかかるんだって!」
ザクロずきんは先ほどから乳鉢で何かを刷り込んでいるのだが、とても間に合うようには見えない。
そうこうしている間にも壁面の一つがどぼんと崩れ、新たな水が流入した。
――――『壁面が崩れた』。
つまり、水路ではない。
「な、何であんなところに穴が?!」
「普通に掘ったんじゃないの?」
血みどろずきんは私を応援することも、ザクロずきんを手伝うこともなく、先ほどからリンゴの匂いを嗅ぎ続けている。
「捷水路って呼ぶそうよ? 川の流れに新しい流れを足して、その先をここに繋げてるんじゃない?」
ほら、と血みどろずきんは小さく笑う。
「オオカミって穴掘りが得意だから」
「……!」
どぼんと土壁に穴が空き、水が流れ込む。
どどどど、と堀の水面を叩き続ける滝の音が次第に大きくなっていく。
焦燥が私の手を滑らせ、その度にバラずきんが「ああ」とか「頑張って」という声を上げる。
応援してくれるのはありがたいのだが、集中できない。黙っていてほしい。
だがこの状況でそんな言葉を口にするのは危険だ。善意を迷惑がるというのは子供心を大きく傷つける行為の一つだ。言えばバラずきんは深く悲しむだろう。
この極限状態で少しでも意思を阻喪することは死に繋がりかねない。
ゆえに私は彼女を制止しなかった。
結果、解錠作業は一向に捗らなかった。
作業を妨げるものは他にもあった。
明度だ。
小雨の降る世界は徐々に暗くなり始めている。
今や途絶えた橋の先は見えず、村の方を見ても木々の黒い影が見えるばかりだ。
さりとて火を熾している時間は無い。それにこの状況でイラクサに燃え移ったら一大事だ。
ぱちぱちとまばたきを繰り返し、鍵の形状を把握する。
問鍵を駆使し、また一つの鍵を開ける。
あっとカエデずきんが声を上げた。
切り付けるように問い返す。
「どうした?!」
「ふ、ふねがあります……」
「船?」
「うしを運ぶのに使うふねです。びょうきの牛を運んだり、大きなにもつを運ぶのに使うふねが川にあるってきいたことがあります」
「っ。いくらアイツでも船なんか使えるわけが……」
誰かが息を呑んだ。
何人かの赤ずきんと私はつられてその子の視線の先を見る。
ジェヴォーダンの獣が。
自らの巨体とほぼ同じ大きさの櫂船を。
ずるずると引きずっている。
舳先に噛みついて船を引きずるオオカミは堀の縁までそれを導くと、長い舌を垂らした。
そして体の側面でぐいぐいと船を押し始める。
大きな船が少しずつ、水路へ。
「――――ちょっと。ねえちょっと」
声を低くしたザクロずきんが私の肩を掴み、揺らす。
目には涙が浮かんでいた。
「あ、あいつここに来ちゃう! ねえ! ホントに来ちゃうよ!」
「見れば分かる! だが――」
解錠は先ほどまでよりずいぶん進んだが、それ以上に水の溜まりが速い。
私は無数の滝に囲まれているかのような錯覚に陥っていた。
水が溜まっていく。水が。
私より遥かに速いスピードで。
このままではもしかすると。
もしかすると奴の方が先に――――
「うっ」
指先がもつれる。汗がつるりと錠を滑る。
液体が染み込まないまま解錠を始めようとしてしまい、手順が狂う。
悪態をつく。
舞い上がる水滴が肌に触れるような気がする。
「ザクロちゃん! くすりは?!」
「今なじむのを待ってるの! まだ使えない!」
はっとザクロずきんが何かに気付く。
「! そ、そうだ! リンゴずきんのリンゴなら――――」
「一時間だけ別の生き物に変身できるこれ?」
血みどろずきんは相変わらず敷地の縁で水を眺めていた。
赤黒い髪の光沢だけが暗い世界で不気味に瞬く。
「残念。空飛ぶ生き物のリンゴは無いみたいよ」
「えぇっ?!」
「ナマズ、猫、それに……」
「貸して!」
「あら、自分だけ助かるつもり? そんな子に迫られたら手が滑って落としちゃうかも」
「や、やめてくださいよ二人とも!」
赤ずきん達の言い合いを聞いているだけで私の神経もささくれ立った。
やめろ、と叫びたくなる衝動を必死に押さえつけ、解錠に集中する。
「――!」
「――?」
世界が暗がりに沈んでいく。
少女たちの口論が遠ざかっていく。
「――、――」
「――――?」
必死に忘れようとしていた後悔が胸中にせり上がる。
――――リンゴずきん。
既に一人死なせた。
私は一人死なせてしまった。
何が贖罪だ。何が前進だ。
私――
私は――――
「……貸してください」
表情に乏しいカエデずきんだった。
彼女は私の手にした錠に何かを塗り込んだ。
と、錠前が――――透けていく。
「?!」
「あの、せめてかんがえていることぐらい、教えてください」
カエデずきんはおずおずと、しかしはっきりした調子で告げた。
「でないと助けてあげることもできません」
「っ」
そうだ。
私は何を勘違いしていたんだ。
私は羊を率いるような気分で彼女達をここへ連れ込んでいたが、彼女達は決して助けを待つ哀れな子羊ではない。
イラクサの茂みの中で、彼女達もまた必死に戦ったではないか。
彼女達は私以上に生きたいし、助かりたいのだ。
その彼女達に助けを乞わずして、一体何が全力だ。
「りょうしさんはただの人です。一人でオオカミには勝てません」
でも、とカエデずきんは自らの胸を示した。
「わたしたちはまじょです。だから――――もっとちゃんと頼ってください」
「! ……」
私が力強く頷くと、カエデずきんは本当に微かに、唇を動かした。
それが彼女の笑みなのかも知れなかった。
私は表面が透けた錠前に取りついた。
内部構造がはっきり分かる。これなら中を確認する必要はない。大幅に時間を短縮することができる。
ちゃき、きち、と金属質な解錠音が続く。
水位は間断なく上昇し、いよいよ水面が近づいて来る。
透ける鍵を一つ、また一つ解錠するとバラずきんがそれをひったくり、鎖をがちゃがちゃとほどく。
「終わ――――りだっ!!」
最後の鍵を外した私は赤ずきん達の歓声を聞きながら手ずからそれを堀へ投げ込んだ。
気ぜわしく鎖をほどき、扉に手を掛け、気づく。
「!!」
向こう側で閂が降ろされている。
このままでは扉が開かない。
「どいて! 閂なら任せて!」
ザクロずきんの手には僅かばかりの液体を湛えた小瓶がある。
彼女はそれを器用に扉の隙間に滑り込ませ、閂を破砕した。
ぼろろ、と砂粒状になった金属片が床を叩く。
私は半ばなだれ込むようにして塔の中へ。
すぐさま扉を閉じようとする赤ずきん達を制止し、私は振り向いた。
「血みどろずきん!」
リンゴの詰まった手籠を抱えた少女だけは未だオオカミを見つめている。
船の傍らに立つジェヴォーダンの獣もまた、こちらをじっと見つめていた。
「急ぎなさい! 中に!」
「……はいはい」
血みどろずきんは悠然と私の前を通り過ぎ、塔の中へ入った。
私は恐るべき怪物を牽制するように睨んだまま、扉を閉ざす。
夜を待たずに出現したオオカミ。村長と赤ずきん達の認識のズレ。
六つの秘薬。リンゴずきんの死。
イラクサ。塔。悪い魔女。
黄色い目。紅い体毛。
赤ずきん。
脳裏で様々な光景や顔が渦を巻く。
「……」
肩を上下させていた私は呼吸を整え、一旦それらを脇に置いた。
今考えるべきことは二つだ。それ以外のことは後回しでいい。
一つ。
どうやってオオカミの侵入を防ぐか。
そしてもう一つは――――
(……)
私達は血みどろずきんの家を出てすぐに匂いを消した。
それから橋を渡り、足音を消したオオカミに襲われた。
ここに違和感がある。
オオカミは明らかに私たちの進路を読み、パン生地を調達している。
それはとりもなおさず、『私たちが橋に至る前の時点で既にオオカミに捕捉されていた』ことを意味する。
ではそれはいつだろうか。
ジェヴォーダンの獣は用心深く慎重だが、攻勢に転じると雷のごとき激しさで襲い掛かって来る。
例えば私、カエデずきん、バラずきんの三人組だった頃にこちらの存在を察知していたら、当然その場で襲い掛かっていたはずだ。
それは四人になっても五人になっても変わらない。
あの時点でオオカミが活動を開始していたとしたら、単独行動していた血みどろずきんやルビーずきんの居場所は鋭敏な五感で特定され、噛み殺されていたはず。
つまりオオカミが私たちの存在に気付いたのは『血みどろずきんと合流した後』である可能性が高い。
奴は生き残りの赤ずきんが成人男性である私と行動していることに警戒心を抱いた。
そこで進路が石橋であることに目を付け、足音を消しての奇襲を画策した。
これなら奴の性向と状況が噛み合う。
ところが、ここで一つの疑問が生じる。
血みどろずきんと合流してすぐに私たちは体臭を消した。
なのにどうして奴は『血みどろずきんと合流した後』、私たちの存在を察知することができたのだろうか。
住民が労働に従事しないこの村は手つかずの木々や伸び放題の草むらが多く、目視で私たちを捕捉するのは困難だ。
狼の耳は敏感だが、赤ずきんの声だけを聞き分けることはできない。なぜならこの村にはパン屋の娘のように小さな子供も暮らしているからだ。
となると、奴はやはり匂いで私たちを探し出した可能性が高い。
『体臭を消している私たち』を『匂いを頼りに見つけ出す』。
一見すると矛盾しているようにも思えるが、ある条件を差し挟めば矛盾でも何でもなくなる。
考えるべきことのもう一つ。
――――匂いを消していない赤ずきんが居る。
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