すこし前の話だが、ツイッターで個人的に関心を引かれた投稿があった。投稿者は、プロフィールによれば外資系コンサルへの勤務経験を持ち、投資やキャリアデザインに関係したブログを運営している方だ。

 このツイート(https://twitter.com/shimaru365/status/965893822512218113)は「春はあけぼの」のせいでギャグになってしまったが、実際のところ「漢文は社会で役に立たない」という主張自体には同意する人も少なくないだろう。一般的に言って、いわゆるネオリベ的な思想傾向を持つ日本人で、一定の経済的成功を収めている方ほど、こうした考えが顕著に見られがちな傾向があるかと思われる。

(個人的に恨み節を書けば、私は大学・大学院で東洋史という漢文と縁の深い学問を学んだのだが、10年ほど前に上海で会った現地起業組の若手日本人経営者から「そんな無駄な勉強を6年もやるなんて何考えてるの?」と面と向かって言われてポカーンとした経験がある)

 近年は大学改革やなにやらで、文学系や歴史系の専攻が真っ先にリストラ対象にされる例も多い。漢文をはじめ歴史・文学といった、カネ稼ぎに直接つながりにくいとされる知識を「不要」とみなす考えは、わが国の政治・経済の上層で幅広く共有される認識となりつつあるようだ。

 私は過去に東洋史を専攻したとはいえ、メインは近現代史なので漢文はそれほど得意ではない。とはいえ、漢文や中国古典の基礎知識をある程度は持つ者として、その魅力と有用性を日々実感しているため、漢文の排斥にはどうも違和感がある。

 ……しかしながら、カネ稼ぎの視点から漢文教育不要論を述べる人たちに教養的側面から漢文教育の意義を説く行為は、メールの添付ファイルもろくに送れない田舎のじいさん(うちの父である)にIoTや人工知能の魅力を説くのと同じくらいハードルが高い。

 例えばラテン語とその古典文学が西欧諸語やその文化圏の基層にあるのと同じく、漢文や中国古典は日本語や日本文化の成立に密接に関係した構成要素である。これらの基礎的な知識は、日本人として自立した思考をおこなえる個人を育成する上で重要であり、リベラルアーツの一環として公教育で教えられるべきだ――。

 などと小難しいことを真正面から主張したところで、ほぼ間違いなく聞く耳を持たれないだろう。

 そこで本記事ではあえて、「現代日本の日常生活およびビジネスシーンで有用」「効率性の向上やカネ稼ぎにつながる」という実利的視点のみから、漢文や中国古典の基礎的な知識を持つことのメリットを論じてみることにしたい。

(1) SNSの投稿やショートメッセージがスマートになる

 日本語の性質として、おなじようななかみのものごとのはなしをほかのひとにつたえようとするときは(=同様の内容の情報を他者に伝達しようとする際は)、適度に漢字語を用いたほうがより少ない文字数で表現することが可能である。

 そこで用いる漢字語だが、これは和語に当て字したものを除けば、基本的に漢文法にもとづいて構成された漢語だ(多くの和製漢語も含む)。

 たとえば、「成功」は「功を成す」、「普通」は「普(あまね)く通ずる」、「喫茶店」は「茶を喫する店」……と、漢語の語彙の多くはいわゆる漢文訓読の書き下し文にできる。これらの言葉の正体は、実はすごくミニマムなサイズの漢文なのだ。

 多くの言葉の正体が漢文である以上、漢文や漢文法の知識を持っている人ほど、日本語の接続詞を自在に使ったり、さまざまな概念を漢語の語彙に置き換えたりしやすくなる。

 これはつまり、ある情報を伝える際に文意を明確にしたり、テクストや発表媒体に応じて文字数を自由にカスタマイズできる技術が得られるということだ。文章量を自在に調節しつつ論理的に情報を発信しやすくなるわけである。

 現代社会のどこで、この技術が役に立つのか? 身近な例を挙げれば、それは文字数制限のあるツイッターのようなSNSや、携帯電話のショートメッセージ(SMS)、表示スペースに限りがあるパワーポイントのプレゼン資料などの文章を書くときだ。特に携帯電話のSMSは、機種やキャリアの相性が悪いと1通あたり70文字以下の文章で情報をやりとりしなくてはいけない。

 一文が冗長で情報量が薄いせいで、簡単な内容を何ツイートにも分けて投稿したり、やたらに文章を分割してSMSを何通も送る人には、誰しも心当たりがあるだろう。漢文を勉強しておけば、こういう非常にカッコの悪いことをやらずに済むのである。

(2)情報伝達コストを下げられる

 漢字は表意文字(表語文字)なので、ひらがなやカタカナよりも視認性が高く、単語が指す概念が感覚的に伝わりやすい。場合によっては、その単語を知らない相手にも、ある程度まで概念を伝え得ることすらある(たとえば「差遣」や「懇請」という言葉をはじめて見た人でも、なんとなく「人を使いさせる」「よくお願いする」といった大まかな意味の想像はつくはずだ)。

 一般的に聞き慣れない抽象的な概念を表現する際は特に、カタカナ言葉よりも漢字語のほうが意味を伝えやすい。一例を挙げるなら、「このワークショップへのサポート・プロジェクトはサスティナブルな社会をクリエイトする上でワイズ・スペンディングです」と言うよりも「この体験講座への支援事業は持続可能性のある社会を創出する上で賢明な支出です」と言ったほうがずっとわかりやすいわけである。

 上記は極端な例にせよ、カタカナ語を多用しすぎた「意識高い語」の連発は、情報の受け手に対して本来はまったく不必要な読解のコストを強いるため、労働生産性を無駄に引き下げる悪しき行為と言っていい。

 ITなどの特定の業界のなかで使うならともかく、たとえば社風や業界内の風土が異なる複数の企業・行政などが関与するプロジェクトのなかで情報共有をする際は、漢語の語彙を積極的に使ったほうが認識の齟齬が生じにくく、効率的かつ経済的だろう。

 では、情報伝達コストを下げるという点で多大な経済的メリットを持つ、漢字の語彙をよりスムーズに運用できる基礎能力は何によって育まれるのか? それは漢文教育を包括した公的な国語教育の場に他ならない。

(3)法的リスクへの対応力を強化できる

 私事で恐縮だが、私は人生で2回裁判に関係した経験があり(民事)、自分で長文の陳述書を書いたこともある。裁判所で飛び交う文書や法律の条文は、独特の漢語語彙と、やや特殊な漢文訓読調や古文調を感じさせる文章の洪水だ。

 正直、私は裁判所に通うときほど、自分が漢文や漢文法を知っていてよかったと思ったことはない……というより、これらを全然知らない人たちは裁判をやるときに不安にならないのかと本気で首を傾げさえした。

 裁判では、弁護士さんが交渉や意思表示をおこなう代理人になってくれる。だが、お堅い文書を読解して論点を把握し、意見を表明して事実関係を証明していく過程で、当事者たる自分自身がそのインプットやアウトプットの能力をまったく持たないでいいものだろうか。

 法廷の文書を読めず、また書けなければ、人生を左右する問題が目の前で進行しているのに自身はその議論から排除されるハメになる。一定の漢文の知識を含めた国語力は、望まぬ火の粉が降りかかったときに法的に自分を守れる武器と鎧になるのだ。

 ほかにも業務によっては、契約事にあたって戦前の文書を参照したり、過去の新聞記事などに触れざるを得ないケースもあるだろう。これらの文書で使われる単語や文章のリズム感は、漢文の書き下し文に近いものも多い。

 学術論文の読解や執筆も、漢語語彙の運用能力が大きなキーになる。これらへの入り口になる能力を強化するうえで、漢文の知識は持っている方がずっと便利だ。

(4)海外の偉い人に接する際の売り込みツールとして威力を発揮する

 上記の(1)~(3)は、あくまでも漢語語彙や漢文法の知識が実生活の役に立つという話だった。なので、学校で習う『論語』なり漢詩なりに代表される教養的分野が、果たしてカネ儲けのどこに役立つのかと疑問を持たれた読者もいるはずだろう。だが、これらも役に立たせることはできる。

 私は昨年末、過去に中国の富豪ランキングで100位以内に入った大富豪のXさんや、トランプ政権の上級顧問だったスティーブン・バノンなど、なぜか海外のやたらに偉い人(一癖ある人ともいう)に立て続けに取材する機会があった。

 Xさんはもともと前歴も定かならぬ叩き上げの商人、バノンは労働者階級からクラスチェンジを果たしたアメリカのネトウヨ(オルト・ライト)の親玉なので、本物の海外のセレブとは言えないはずだが、それでも私たち庶民とは隔絶したハイクラスの人たちである。

 彼らと喋ってみてつくづく実感したのは、直接的なカネ儲けに関係がなさそうな知識の重要性だった。

 彼らは会話に「遊び」を持たせずに実務的な情報だけを喋ることは好まず、むしろ「遊び」の話題に相手がどう反応するかで距離感をはかるようなところがある。なお、Xさんは中国古美術品の収集や仏教に造詣が深く、バノンはジョーンタウン大の修士号とハーバード大ビジネススクールのMBAを持っていて、中国史にもかなりの知識がある。

 特にXさんの場合、私はなぜか気に入られて当初は1時間弱の予定だったインタビュー時間が倍以上になり、その後も秘書を介する形ながら友好的に接してもらった。理由はどうやら、私が彼の部屋の中国絵画や出されたお茶の由来を尋ねて雑談したり、彼が凝っている禅について日本の臨済宗と曹洞宗の違いを喋ったりしたことで、他の日本人記者よりも面白がってもらえたかららしい。

 実務的なやり取りだけをする「下っ端」ならともかく、海外の一定以上の偉い人は、高学歴層ならリベラルアーツとしての教養を幅広く持っているし、叩き上げの人でもカネを得た後は文化資本の鎧をまといたがる。Xさんやバノンの水準までいかなくても、私が接した範囲では、大学院レベルの教育を受けた海外(私だと香港や台湾を含めた中華圏の相手が多くなるが)の政治団体の代表者や企業の経営者は、ある程度こういう傾向がある。

 彼らとの雑談で間をもたせて、それなりに人格的に信用してもらうために、いちばん安価で便利に使える道具が「教養」だ。この教養はそこまでハイレベルな必要はなく、高校で習う程度の世界史・日本史や古文・漢文の知識をちゃんと説明できれば、「日本人がそれを喋っている」という異文化ギャップも働いて、そこそこ面白がってもらえる模様である。

 海外の政治家や大富豪に気に入られるドレスコードを身につけるのは相当な投資が要るが、高校卒業レベルの教養なら実質タダで手に入る。公教育における古文・漢文や歴史の授業とは、海外の偉い人を相手に決定権をともなう交渉をおこなう上で相手の信頼を得られる素養を、相当コスパよく身につけられる場だという見方もできる。

漢文教育は役に立つんじゃないのか?

 ここまで書いたところで、上記は漢語の語彙を知ればいいだけで漢文自体の勉強は不要だとか、教養は漢文以外の知識でも別に構わないといった反論も当然予測される。それらに対しては「だって基礎だから大事」という説明をするしかない。

 たとえば昨今流行の統計学や会計学も、完全に身につけるには微積分や関数の知識が必要だし、そのためには因数分解や方程式を知らなくてはいけない。因数分解はそれ自体の実用性以上に、その先のさまざまな知識を得るのに大事な基礎だから学校で教えられている。

 中学・高校レベルの漢文も同様のことは言える。日本語の基礎には漢文と漢文法が深く食い込んでおり、一般的な日本人の教養のベースの一部には中国古典が存在する。その先に広がる「応用」の知識を取りこぼしなく身につける地ならしとして、基礎として学んだほうがいいものなのだ。

 「漢文の勉強は社会に出て役にも立たない」という一見意識の高い人たちの主張は、「因数分解なんて将来に何の役に立つんだよ!」と叫ぶ中学2年生男子の主張と同じくらいナンセンスなのだ。私としてはそう強く主張したい次第なのである。

(安田 峰俊)

簡単なツイートを何回にも分けて呟いた経験にある人には漢文の素養が役に立つ ©iStock.com