まあ俺は甘えという言葉が大嫌いなのである。
甘えとか言うやつはただの責任放棄であって、部下や生徒などの下へのモチベーション等の管理の責任転嫁でしかない。つまり、やる気がないだのそんなのは全部、言う側の管理が悪い。それだけ
人生とは有限であり、その時間を削って小銭を得る、この行動に意味はあるのだろうか?
そう思いながら働いているのではあるが、そんな思いを馳せながら労働に勤しんでる地点で、そう思わせる管理体制が悪いのである。
ではなぜそのような矛盾を思いながら人々は働くのか、それは或いは息子のため?自分の生活を豊かにするため?
しかし回り回ればすべての労働意欲意義とは、自分より上の存在がより豊かになる仕組みになっている、人はみな自分のためではなく、自分のためという盲信をもとに働くのか?それは否である。
人はみな、自分に居場所を求め、そして失うのが怖い、いうならば猿であり、上か下かが大事なのであり、下に行く勇気がない。これは心理だと思う。
そこで、勇気を出して今の生活を投げ捨て、収入を投げ捨て、自分の作品に専念するために、生活保護をうけるのは正しいか否かを考えた。
法律は最低限の文化的な生活を保証しているわけであり、何らかの理由で自力で生計を立てるのが困難な場合、行政がその個人を保護するという法に沿った義務が生じるのである。
つまり、法すらもそれを肯定しているとおり、自分の作品に専念したいがあまり、労働意欲が失われ、生計が立てられなくなった場合、それは正しいのである。
しかし、実際そういう状況になった場合、法に守られているにも関わらず、罪悪感にさいなまれるのは確実である。
それは世間体である。これが下に行く怖さなのである。
しかし、ろくに教育を受けていない俺は考えた。その罪悪感こそがこの社会における洗脳ではないだろうか。
いや洗脳なのは間違いない、文化とは洗脳であり、文明とはその洗脳をより強固にする、つまり北センチネル島の人々と我々日本人は根本が違うのである。
その叩き込まれた意識のもと、働かないのが怖いだけなのは間違いない、しかし他人の利益のために自分が身を削る意味は何なのだろうか。
おそらくそれはしなくてもいいことなのでは?
私はそう考えている、社会学的な観念でいえば、犯罪者や障害者、非労働者が存在するのも含めて社会なのである。
つまり、生活困窮者やニートがいることによって生まれる雇用もあり、それらがいなくなった場合、ニートで生計を立てていた存在はすべからく職を失う。
すべての存在は雇用と社会と密接な関係があるのである
つまり何が言いたいかというと、働くの疲れた、コミケ受かったらいいなー、壁になっていっぱい売って年に二回働いてあとは釣りしてたい。