『日本の仏教理解は「いい加減」すぎる』という帯がついてます。
私もそう思いまず、かなりしっかり努力されているお坊様もいますが、亡くなった方の面倒ばかり忙しく、自分の暗唱しているお経の意味や、仏教をきちんと説明できないお坊様がけっこう多いのではないでしょうか?
本書の宮崎哲弥氏が書いた「はじめに」にユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』の仏教に関する引用があります。
ハラリ氏は歴史学者なのですが、仏教をきちんと説明しています。
心はたとえ何を経験しようとも、渇愛をもってそれに応じ、渇愛はつねに不満を伴うというのがゴータマの悟りだった、心は不快なものを経験すると、その不快なものを取り除くことを渇愛する。快いものを経験すると、その快さが持続し、強まることを渇愛する。したがって、心はいつも満足することを知らず、落ち着かない。痛みのような不快なものを経験したときには、これが非常に明白になる。痛みが続いているかぎり、私たちは不満で、何としてもその痛みをなくそうとする。だが、快いものを経験したときにさえ、私たちは決して満足しない。その快さが消えはしないかと恐れたり、あるいは快さが増すことを望んだりする。人々は愛する人を見つけることについて何年も夢見るが、見つけたときに満足することは稀だ。相手が離れてはいきはしないか不安になる人もいれば、たいしたことのない相手でよしとしてしまったと感じ、もっと良い人を見つけられたのではないと悔やむ人もいる。周知のとおり、不安を感じながら悔やんでもいる人さえいる。
ゴータマはこの悪循環から脱する方法があることを発見した。心が何か快いもの、あるいは不快なものを経験したときに、物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる。人は苦しみを経験しても、悲しみが去ることを渇愛しなければ、悲しさは感じ続けるものの、それによって苦しむことはない。
ゴータマは、渇愛することなく現実をあるがままに受け入れるように心を鍛錬する一連の瞑想術を開発して。この修行で心を鍛え『私が何を経験していたいか』ではなく『私がいま何を経験しているか?』にもっぱら注意を向けさせる。このような心の状態を達成するのは難しいが不可能ではない。
ハラリ氏の仏教理解はすごいと思いました。
ただ、仏教自身の幸福の本質と根源についての体系的な研究は2500年前に終了してます。もう結論が出てます。
のちの時代から、科学とかいろんな分野からの関心が逆に高まってきた、ということです。
2500年にわたって、仏教は幸福の本質と根源について、体系的に研究してきた。科学界で仏教哲学とその瞑想の実践の双方に関心が高まっている理由もそこにある。
幸福に対する生物学的な探求方法から得られた基本的見識を、仏教も受け入れている。すなわち、幸せは外の世界の出来事ではなく身体の内で起こっている過程に起因するという見識だ、だが仏教は、この共通の見識を出発点としながらも、まったく異なる結論に行きつく。
幸福が外部の条件とは無関係であるという点については、ブッダも現代の生物学やニューエイジ運動と意見を同じくしていた。とはいえ、ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深淵なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう強く渇愛するようになり、苦しみも増す。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった。
歴史の読み物に、仏教について、上記の記述がされているのは、仏教徒として、非常に嬉しいです。
自分の宗派の重要部分さえ説明できないお坊様が多い中で、なぜ分野外のハラリ氏が説明できたのか不思議です。
この『ごまかさない仏教』は、このハラリ氏の記述の正しさを証拠立てる、とのことです。そういう本みたいです。
久しぶりに楽しみな仏教書です。