[コメント] さらば、わが愛 覇王別姫(1993/香港)
映画を見終った人むけのレビューです。
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平成15年7月10日(木)
やっとこの映画をスクリーンで観ることができた。
故レスリー・チャン大好きのウチのヨメに「これは観ろ」とビデオを薦められたのはずいぶん昔の話。 それまで縁遠かった中国映画に触れるきっかけである一方、チェン・カイコーを必要以上に買いかぶってしまったという若き過ちを犯した作品でもある。 以来、私の中で「死ぬまでにスクリーンで観たい映画ナンバー1」「どうしてスクリーンで観なかったんだナンバー1」「今DVDを買いたい映画ナンバー1」と、まるで某化粧品のCMのごとく数々のナンバー1の座に輝き続けた映画なのである。 レスリー追悼特集は各地で行われていたが、場所が遠かったり日程が合わなかったりでチャンスを逃し続け、いよいよ最後になって大森くんだりまで遠征してやっと観られた。
私はこの映画を『ブリキの太鼓』『フォレスト・ガンプ』と並ぶ「世界三大“近代史”映画」と呼んでいる。激動の時代を描いた映画、時代のうねりに翻弄される映画は他にも沢山あるが、これらの映画は全て「主人公の立ち位置は変わっていない」という共通点がある。変わっていくのは時代であって己ではない。
また、この映画は見事な二重構造になっている。物語の進行と劇中京劇「覇王別姫」。二つは折り重なるように(そして京劇はきちんと順を追って)描かれ、程蝶衣(チョン・ティエイー)は本当に「四面楚歌」になっていく。私は本作を『フィッシャー・キング』と並ぶ「世界二大“二重構造”映画」と呼んでいる。
さらに、最後には悲しい立場にはなるが、この映画のコン・リーは嫌な女である。「芝居をやめて普通の暮らしを」という彼女は、あの厳しい少年時代の修行を観ている我々にとって「お前に何が分かる!知ったような口をきくな!」と言いたくなる対象だ。これを私は『鬼畜』の婦人警官・大竹しのぶと並ぶ「世界二大“知ったような口をきくな!この女(アマ)!”」と呼んでいる。
それにしてもコン・リーと対峙するレスリー・チャンの女らしいこと。そんなレスリーは実生活でも男性関係や仕事に悩んでいたとも言われ、自ら命を絶ったことで、この映画を「三重構造」にしまった。
ウチのヨメに言わせれば、一時引退したりしたのも全て「幕引き」のためだったという。美しいうちに自分自身を終わらせたい。それがレスリーだったのだと。いつまでもヨボヨボ生きているモ●シゲなんぞダメだと。
いつまでも冥福を祈りたい。
平成15年7月11日(金)
二日続けて大森まで遠征するほどの入れ込みようだが、さすがに冷静に観られたので、少し内容に触れてみたい。
本作は同性に対する純愛を真摯に「映像で綴った」映画だ。 血の契りで始まり、変な爺さんに弄ばれたあげく捨て子を抱き上げる件は、まさに小豆が「女」になっていく過程だ。
阿片に溺れる蝶衣が母親への手紙を書いたというシーンがある。 これを素直に「母への慕情」と考えるのはたやすいが、いささか早計だろう。何故この歳になって阿片に溺れながら、あれほど強烈に我が身を捨てた母を想うのか。 それは「慕情」ではなく「トラウマ」なのだ。捨てられることへの恐怖なのだ(これであの指切りに意味が出てくる)。 このトラウマが、「淫売の子」として産まれた自分を純愛に走らせる。しかも恋敵は、自分を捨てた母親と同じ遊女だ。ますますもって意固地になる。
「蝶衣が本当に愛したのは京劇なのだ」という評をよく目にするが、それは違う。京劇を愛したのでもなければ芸に身を捧げたわけでもない。京劇が彼の全てであり、彼自身が京劇なのだ。彼のアイデンティティーそのものが芸であり、虞姫であったのだ。
惜しむらくは段小樓(トァン・シャオロウ)役のチャン・フォンイーの演技だ。ちなみにレスリーは「彼は役のとらえ方を間違いました。だから私は俳優として彼を認めないし、再び共演したいとは思いません」と言っている。
いい映画の後は酒を飲みたくなる時がある。立ち寄った店にサンザシ酒というのがあった。 砂糖漬けのサンザシなんて、きっと駄菓子なのだろう。そう思うとひどく悲しい。サンザシ酒をロックで飲んだ。
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