ベトナムの物語
- ①J.サリバン:「海外旅行ガイド ベトナム」、小笠原他7名訳、日経ナショナル・ジオグラフィック社、'07 、②M.フローレンス、V.ジェラス:「ロンリープラネットの自由旅行ガイド ベトナム」、(株)トランスワード訳、(株)メディアファクトリー出版、'03、③ファン・ゴグ・リエン監修:「ベトナムの歴史~ベトナム中学校歴史教科書~」、今井昭夫監修、伊藤悦子他訳、明石書店、'08を千葉市図書館から借りだした。
- 来年寄港するとすれば、私にとって2回目のベトナムである。フエの旧市街の王城と郊外の皇帝陵を訪れたい。初回は'12年の飛鳥Ⅱのアジア・オータムクルーズで、ハロン湾、ダナン、ホーチーミンを訪れた(「ベトナム紀行」('13))。このHPには他に「ベトナム国道1号線」('05)、「漢文と東アジア 」('10)、「戦闘ヘリ:アパッチ」('10)、「メコン圏」('11)などでベトナムに触れている。
- 林芙美子の小説「浮雲」に、彼女が従軍記者的に経験した戦中のベトナム髙地(フランス人避暑地)が描写してあった。屈曲したベトナム人の心境を短い言葉で表現してあった。中国、フランス、米国などの大国を相手に、独立を戦い抜いた小国ベトナムに寄せる私の関心は深い。もう記憶が薄れているし記事そのものの真偽も定かでないが、フランス侵略軍に敗れ追い詰められて、国王が何かを叫びつつ井戸に身を投げたという話を思い出す。対仏抵抗運動を報じた新聞が、明治の新聞記事を引用していた。
- 中部ベトナムのフエはベトナム最後のグエン王朝が150年に亘り首都を置いていた。グエン王朝成立(1802年)前はベトナムの混乱期で、西山兄弟による内乱に乗じ、北からは清軍、南からはシャム王朝軍が攻め入っている。フランスがベトナム植民地化に手を染め始めた頃でもある。フランス植民地時代が100年あり、そのあと20年に及ぶアメリカの介入があった。
- だが10世紀までの中国の1000年に及ぶ支配は、ベトナム文化に圧倒的な影響力を及ぼした。我が国には元の来寇は2回だった。ベトナムは3回侵入されている。我が国は「神風」のおかげもあって首尾良く撃退した。ベトナムも血戦を挑んで成功している。③には中国からは、元以外にも秦、漢、唐(末期)、宋、明、清の時代に、侵略戦を仕掛けられ、支配された時期があったことを記している。①には中国の影響を「小さな竜ベトナム」と表現した。竜は中国を意味する。儒教的倫理観、官僚制度、科挙の制から漢字使用まで挙げてある。
- ベトナム語の語彙の1/3は中国語を起原とする。ベトナム生まれの表意文字チュノムは漢字のベトナム化(Wikipedia:意味を表す漢字(意符)とベトナム語固有音を表す漢字(音符)の組み合わせによる形声文字的造字法にり作られた文字(狭義のチュノム))で、日本の仮名文字が音節文字であるのと違う。
- チュノムが普及したのにも関わらず、学問分野や公文書では漢字が20世紀初頭まで使われ続けた。我らも明治に入るまで漢字をありがたがる風潮があったのと似ている。今彼らはローマ字表記だ。日本語のローマ字化は、中国では異音だが日本語では同音になってしまう語彙の処理に困るから、不可能だった。ベトナム語ではこの問題をどう避けているのか、聞いてみたい。
- 中国文化の影響力を形で表すのが3重の城壁に囲まれたフエ旧市街である。この王宮都市は、最内部が紫禁城になっている。門や建造物は形から名称まで北京のそれとそっくりにしてある。その多くが米越戦争で失われたが、かなりが復旧されたという。グエン王朝の帝廟は墓とその付属施設からなる壮大な寺院で、最後のカイディン帝までの7代が同じ地域に固めて置かれている。拝謁の庭には永遠に不動の姿勢のまま並ぶ役人たちの石像が建っているそうだ。中国の皇帝陵参道にも、そんな石像(ただし各国大使だった)写真を見た記憶がある。
- 我々もそうだが、ことに欧米人中でもフランス人とアメリカ人はベトナムに負い目を感じている。この国を旅するとき初めのうちは緊張するそうだ。当然だろう。だが、私が初めて訪問したときも感じたのだが、決してとげとげしい雰囲気でない。植民時代日本は韓国に歳入を上回るインフラ改良投資をし、戦後は戦後で韓国予算の何倍もの経済支援をし、慰安婦問題でも相応の貢献をしている。しかし嫌日感情が年ごとに盛り上がる。それは日々のニュースによく現れている。賠償も援助もなかったベトナムの穏やかさとまったく好対照である。我らと違い、両国とも中国と国境を挟んで接している中国文化圏国なのに、いったいその理由は何だろう。
- ①に「ベトナムの宗教」という項がある。儒教は紀元前2世紀にもたらされた。仏教も中国経由だから大乗仏教(メコン・デルタ域のクメール人は小乗仏教)で、2-3世紀には入っている。僧侶の抵抗運動への加担は歴史に多く見られる。カトリック教徒優遇政策と仏教徒に対する弾圧を推し進めた南ベトナム・ジエム政権に抗議して、ガソリンをかぶり自ら火を放って焼身自殺した僧の話は有名である。ジエム実弟の妻がアメリカTVに「人間バーベキュー」と冷笑したことが、アメリカのその後の政策に微妙に影響したという。
- 道教はエリート層の心を捉えつつ、多くの土着の霊への信仰を取り込みながら浸透したとある。カトリック信者は人口の8%におよぶ。新興宗教のカオダイ教はこれら4大宗教の良いとこ取りの姿らしい。信仰を問われたら大半が仏教徒と答えるが、彼らの信仰対象は多岐多様で、単純な区分など不可能であるらしい。我らもごく最近まで仏壇あり神棚あり自然の御霊ありの精神生活だったから、この話はよく分かる状態だ。
- ベトナムの教育制度は、5・4・3制という。③は中間の6-9年生に対する国定教科書で、世界史とベトナム史を一貫して教える。日本は8年生(日本の中学2年生)の近代世界史の第12課「19世紀半ばから20世紀初めの日本」、第19課「戦間期の日本(1918~1939年)」、続いて9年生の現代世界史の第9課「日本」と独立の3課として扱われている。ちなみに中国の現代世界史における扱いは、第4課「アジア諸国」の中の1項である。まずこの日本関連3課を読んでみる。
- 侵略の危機に直面し、日本は明治維新を実行した。封建制から資本主義に移行した。農奴制度の廃止、義務教育政策、科学・技術の重視、西洋への留学生派遣、徴兵制と洋式軍制度、造船業と兵器製造業の重視が述べられている。ブルジョアの政権掌握と言う認識はどうかなと思う。植民地化の危機を脱した日本は帝国主義に移行する。国民経済に占める工業の割合は、一次大戦勃発の1914年には42%に達していた。日本勤労人民の闘争は、'17年にはストライキが398回を数えるほどになった。
- 一次大戦により工業生産高は戦前の5倍ほどの規模まで拡大したものの、戦後の好況は5年で終わり、そのあとの長い不況に関東大震災が重なり、'27年田中義一首相は天皇に侵略戦の上奏文を奉る。支配拡大は、まずは日本の投資総額の82%が集中する中国から始まった。'31年に満州、今の中国東北部に進撃を開始する。
- 戦後の日本をこの教科書は、「戦争で壊滅的に破壊された敗戦国から、日本は大きく成長し、世界第2位の経済大国になった。「日いずる」国のその「奇跡的」発展から、発展途上国は自国の工業化、現代化にとって多くの教訓を引き出すことが出来る。」と総括した。面映ゆく感じるほどに評価してある。民主的改革から始まり、経済の奇跡的な発展を解説し、農業に関しても、近代的手法の適用で、国内食糧需要の80%以上を供給するまでになったと書いている。だが90年代に入り成長が止まり四苦八苦中である。短期間の政権が次ぎ次に交替し、日本は政治の分岐点にあるとしている。'08年の出版だからこう見るのも仕方がない。
- ①には、「歓迎の国ベトナム」という項目があって、アメリカとの戦争で戦闘員100万人超、市民400万人を失ったが、国民には「明らかな」反米感情は見られない。ベトナム人には、憎しみに固執しない国民性があると書いている。我々の反米嫌米感情も占領軍の姿が消えると納まってしまった(沖縄を除く)。ベトナムの国民性は我らと似ているのかも知れない。私のベトナムと韓国を比較しての対日感情の違いに関する疑問は、どうやら国民性の差というのが答なのだろう。②の旅行中の注意事項にも、外国人をカモにする話はいっぱい入っているが、悪感情には触れていない。
- ベトナムは多民族国家で、構成までミャンマーに似ている。人口は現在1億弱、人口増加率1%強、人口ピラミッドのピーク位置が20歳あたりの若々しい国である。②によると84%がベト族、2%が中国系、あとクメール族、チャンパ、そして民族言語学上50以上に分かれると云われる少数民族から成り立っているという。
- ベト族は南進によって、かってはダナン以南で栄えたヒンドゥー教チャム族のチャンパ王国を破り、クメールからはメコン・デルタを手に入れた。中国系とは華僑のことで、かっては国の経済の大半を握っていた。ベトナム共産党は「有産階級分子」排除を進めたため、中国と摩擦を生じ、いわゆる彼らの砲艦外交に痛めつけられる。今も仲が良くない。
- ②には、中国の1000年に亘る支配にもかかわらず同化しなかったのは、それ先だっての強大な地域文化~ドンソン文化~が存在したからだとしている。ベト族は、タイ族同様、揚子江下流の渓谷から土着民と融合しつつ南下してきた民族である。中国でも長江文明の流れで、黄河文明の中国本土人とは違った存在だったのだろう。
- 日本軍の仏印進駐、二次大戦後の対仏独立戦争、米越戦争から南北統一を経て今日までの出来事は、そこそこに記憶しているが、副次的事件ももういちど確かめておかねば今後の展開の理解に穴が開く。
- 私が気掛かりであった一つは、米越戦争における米以外の外国軍である。中国とソ連は対越軍事物資援助だけだった。韓国は約5万の兵士を送った。オーストラリアはピーク時には朝鮮戦争の時の70%増しという8300人を派兵している。ニュージランド、タイ、フィリッピンも派兵。台湾の蒋介石は2万を派兵し、20万に増加させると云った。これは中国本土奪還作戦含みだったので、アメリカは早々に撤兵をお願いしたという。
- もう一つの関心事はカンボジアとの紛争である。南ベトナムが'75年に崩壊し、北に併合された。ベトナムは'78年にカンボジア侵攻によりクメール・ルージュを瓦解させた。クメール・ルージュが国境を越えてベトナムの村々を荒らしたのが事の起こりという。もともとはクメール人が支配した地域であったろうから、クメール・ルージュにしてみれば、南ベトナム崩壊の混乱期に失地回復を狙ったのであろう。クメール・ルージュは中国と親交を結んでいた。それが中国のベトナム侵攻の理由の一つになる。
- 中小民族国家が、大国に飲み込まれずに、自らの文化を守り通し、発展させるには、大変な犠牲を支払わされる。ベトナムはその好例であった。
('17/11/19)