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皇室全般画像掲示板
母は三笠宮家自助、父は裏千家家元 33歳菊菊地明史さんの選択母は大正天皇の孫にあたる三笠宮家の第二皇女・容子(まさこ)さん父は茶道の裏千家家元の千宗室(政之)の長男として跡取りとして誕生する昭和59(1984)年11月10日に誕生。京都にある裏千家の総本山で育つ。重要文化財に認定されている重厚な兜門、家元が住む今日庵、茶道会館、茶道専門学校。住み込みスタッフの寮、菊地さん一家の住む一軒家がある。明史さんは、父は厳しく叱られるハードルが低く、ちょっとしたことでもしょっちゅう怒る、「蔵に閉じ込める」がよく言われ、最上級バージョンは寺に出す。三笠宮家との関係は、「寛さん(寛仁親王)が『俺は子供が嫌いだけどこいつはかわいい」とおっしゃってくださるいとこにあたる承子女王殿下をつぐちゃん、彬子女王殿下を彬子ちゃんと呼びお会いすればいっしょに過ごす裏千家と一般家庭とは違うこと実家は常に10人のお弟子さんやお手伝いさんいて、習い事など遠出するときはボディーガードと運転手つき呼び方は「あきちゃま」や「明史さま」とちやほやされてましたが、跡取りだからそのように接していると自覚していた」
茶道の稽古6歳の誕生日後の6月6日に初めての稽古。楽しいことはなかった。明確にお点前が上達していることもわからず、勝ち負けのもありません。中学受験の勉強が忙しくなる小6から一時的にお稽古を中断し、私は手を挙げ喜ぶ学歴について勉強は得意ではなく、中学進学後も海底教師に時間を取られ、お茶の稽古は中断したまま。次第に自立心が芽生え、無意識のうちに自分とは何かと考え始めただんだんと裏千家の跡取りという肩書が窮屈になる。4年かけて高校卒業し親の希望を受け入れて大学へ進学。19歳に投稿し続けていた雑誌「詩学」で最優秀新人賞を受賞。大学は2単位とっただけで3回生の時に中退。本来、家元を継ぐなら20代に入ったらお稽古ではなく青年部の集まりに参加、家元の名代で行事に出席、大徳寺にかよって得度することが必要でも、家元の準備は一切しない詩人だけでは生活ができないのでライブハウスの社員で収入を得ている24歳の時に営業係長になったとき、窓同年代で肩書がある友人がいなかったからめちゃくちゃうれしくて、母親に報告。「私はあなたを係長にするために育てたんじゃない」と言われた。
そんなもんどーでもいいよ!小室圭の父の自死の真相でも記事にしろ!ホントは保険金○人だろ?
貴族をディスるのも、美智子の仕事なのよ