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2018年03月04日 (日) | Edit |
前回エントリで書いた通り、オリンピックが終わって1週間も経つと、アスリートたちに対して「調子に乗っている」とか「かわいこぶっている」等々批判が巻き起こりつつあるようですが、その主体となるのがちょっと前までちやほやしていたマスコミであり、その視聴者であることは銘記しておくべきでしょう。わかりやすい感動は商売になりますが、それ以上にわかりやすいやっかみは商売になるんですよね。

その一方で裁量労働制をめぐる議論が盛り上がっているようでして、まあこれもわかりやすい敵失を狙った野党の思惑通りにコトが進んでいるわけですが、では裁量労働制とはどんな制度であり、その適用に必要な要件や手続きはどのように定められているのかを正しく知って批判されている方はあまり多くはないだろうと思われるところです。ということで、某世界的大企業(特に隠す必要もないだろうと思いますが)で人事労務に携わっていらっしゃったroumuyaさんがその議論のダメダメさを指摘されているので、この問題に関心のある方はまずは一読しておくべきですね。

ホワイトカラー・エグゼンプションや各制度についての考え方については過去繰り返し書いてきましたのでできれば事前にお目通し願えればと思うのですが(左上の検索窓にエグゼンプションとか裁量労働とか高プロとか入れて検索していただければ多数ひっかかると思います)、とりあえず現時点で簡単にまとめるとこんな感じでしょうか。

 ホワイトカラー・エグゼンプションは「目先の収入より、将来の仕事やキャリアのほうに関心が高い、「自分の仕事は時間の切り売りではない」というハイパフォーマーおよびその予備軍が、働き過ぎにならない範囲で、残業予算や限度基準といった事実上の労働時間の制約を気にせずに、思う存分仕事ができる制度」。

 議論において重要なポイントは以下の3点。ここを外した議論は基本的にダメ。


【1】ホワイトカラー・エグゼンプションは限られた一部の人たち(≒エリート)のもの

【2】ホワイトカラー・エグゼンプションは「残業代ドロボー対策」ではない

【3】ホワイトカラー・エグゼンプションで労働時間は短縮しない



おそらくは現在議論されているあれこれとずいぶん違うなあと感じられると思いますが、要するにその違うところがダメだという話です。でまあそんなんお前がそう思っているだけだろうというご感想もあろうかと思いますが、実は現行制度は制度としてはきちんと上記【1】【2】【3】にあてはまっているのです。迂遠な感じで面倒かもしれませんが、まずはそこの確認から入らないと次の話に進めませんので長くなりますがおつきあいください。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(1)(2018-03-01)」(吐息の日々)
※ 太字強調は原文による。


裁量労働制の議論なのになぜ「ホワイトカラー・エグゼンプションの議論」となっているかという点にも解説が必要かもしれませんが、この制度が設けられた経緯については、菅野『労働法』で確認しておきます。

2.裁量労働制
(1) 趣旨・沿革 従来の労基法は、管理監督者等の労働時間規制の適用除外労働者(41条)を除くすべての労働者について、始業・終業時刻、法定労働時間、時間外労働などの法規制下に置き、かつ労働時間の厳格な計算を要求してきた。また、いったん法定労働時間をこえる労働が行われた場合には、その労働について割増賃金の規定(37条)によって労働の長さに比例した賃金支払を要請してきた。しかしながら、近年における技術革新、サービス経済化、情報化などのなかで、労働の遂行の仕方について労働者の裁量の幅(自由度)が大きく、その労働時間を一般労働者と同様に厳格に規制することが、業務遂行の実態や能力発揮の目的から見て不適切である専門的労働者が増加した。これら労働者は、多くの場合に、労働の量よりも質ないし成果によって報酬を支払われるのに適している人々でもある。
 1987年の労基法改正(昭和62法99)は、このような社会経済の変化に応じて、従来の一律的労働時間規制を改め、一定の専門的・裁量的業務に従事する労働者について事業場の労使協定(102〜3頁)において実際の労働時間数にかかわらず一定の労働時間数だけ労働したものとみなす「裁量労働」制度を設けた。
p.376

法律学講座双書 労働法 第十版
定価: 5,724円(5,300円+税)
著者名:菅野和夫 著 出版社:弘文堂

(やや古いのですが手元にあるのが10版なもので)

ということで、一般の労働者と異なる「業務遂行の実態や能力発揮の目的から見て不適切である専門的労働者」に対する規制を実態に合わせるための制度であり、その専門的労働者向けの制度をroumuyaさんは「ホワイトカラーエグゼンプション」と表現されているわけです。そして、そのような労働者向けの裁量労働制の導入に当たっては、どこにも労働時間短縮を目的とするとは書いていませんね。いやもちろん、実際の日々の労働時間の中でやりくりしてある日は早く帰ることができるということはありうるでしょうけれども、それはあくまで個別の事情によるものであって制度の目的ではないわけです。

ではなぜ労働時間規制を緩和しなければならなかったかというと、日本の労働法では法定時間内の賃金の基準は特に規定がないものの、法定時間を超えた途端に時間給となってしまうため、日本型雇用慣行で正規労働者の多くが日給月給であって、特に高給な労働者に対しては、その高額な日給月給を基礎とする高額の時間外手当を支払うことの合理性も問われていたわけでして、再び菅野『労働法』から引用すると、

…裁判例においては、労働時間の管理を受けず高額の報酬(基本給と業績賞与等)を得て自己裁量で働く専門的労働者について、時間外労働手当は基本給の中に含まれているので別個の請求はできないとしてものがあるが(モルガン・スタンレー・ジャパン事件—東京地判平17・10・19労判905号5頁)、これは実質的には自己管理型労働者に関する時間外労働規制の適用除外を先取りした判断といえる。

菅野『労働法 第10版』p.380

という判断が示されたこともあったわけですね。まあこの事件そのものは、パワハラで懲戒解雇されたプロフェッショナル人材が、その懲戒解雇取消訴訟と合わせて所定外時間の会議分の時間外手当を払えと請求した事案ですので、hamachan先生も指摘されるように「あんまり筋のいい事件でもない」のですが、まあそうした判断も現行法で可能である事例があるにはあるといえます。

もちろんこれは特殊事例ではあるとしても、そうした判断が合理的である場合があるのに対して、現行法がそれを認めないというのであれば、それは現行法の改正によって対応することが必要であることは明白であるとは思うのですが、ではどうやって労働者の労働時間管理を実効性あるものとするべきかが問題となります。この点はroumuyaさんが指摘される通り、

【3】は今回の政府がダメだった(そして上記日経新聞もダメ)なポイントですが、ホワイトカラー・エグゼンプションが上記のような(エリートが)「思う存分働ける制度」であり、かつ(これは多かれ少なかれホワイトカラー労働全般に言えることですが)仕事のペースを自分で調整できる、「マイペースで働ける」制度である以上、常識的に考えて労働時間が短くなるわけがないわけです(もちろん個別には短くなるケースもあるだろうとは思いますが例外的でしょうし、ホワイトカラー・エグゼンプションか否かと独立の事情も多いだろうと思います)。したがって働き過ぎ防止と健康管理措置が重要になっているわけで、安衛法上の安全配慮義務とかいったものに加えて、それぞれの制度においてさまざまに追加的なものが定められていることは周知のとおりですし、重点的な監督も行われているわけです(今回問題になったデータについてもそうした監督にともなうものですね)。

(略)

ここまででかなりムカついている方も多いのではないかと思いますが、私が申し上げたいのは、行き過ぎた長時間労働や過労死といった問題を引き起こしているのは、要件も手続も満たしていないにもかかわらず「わが社は裁量労働です」とか言って長時間労働や不払い残業を強いるブラック経営者であり、ファーストフードの店長を管理監督者扱いして人手不足下での過重勤務の構造を放置しているブラック人事であり、残業予算を超える分はサービス残業での対応を強要するブラック上司なのであって、これらはすべてすでに違法です。悪事を働くのは人間であって制度には罪はないわけですよ。ここを踏まえない議論はなかなか建設的なものにはなりにくいのではないかと思います。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(1)(2018-03-01)」(吐息の日々)

「思う存分働ける制度」を導入するに当たって、「働き過ぎ防止と健康管理措置が重要になっているわけで、安衛法上の安全配慮義務」を追加的に盛り込んだのが今回の法案であったものの、わかりやすい「裁量労働制憎し」の声に押されてそうした健康管理措置についての議論が深まらないのは、現行法で働く労働者にとってもあまりいい影響はなさそうです。

さらにいえば、「残業代ゼロ」とかいって騒いでいる方々は、残業代さえ払えば労働時間が青天井でもよいという議論にも与することになるので、ちょっと慎重になるべきではないかとは思います。この点roumuyaさんは上記のエントリの続編で、

それと関連しますが、ホワイトカラー・エグゼンプションについて「効率化して短時間で仕事を終わらせても別の仕事を押し付けられるから早く帰れない」というようなことを鬼の首を取ったように指摘してドヤ顔になっている(いやなっているかどうかはわかりませんが。失礼しました)向きもあるらしく、これもあえて申し上げれば、ダメ。本来ホワイトカラー・エグゼンプションというのは昨日の【1】で書いたように少数のエリートのためのものであり、そういう人たちは空いた時間に新しい仕事を割り当てられることは基本的に歓迎だと思われるからです。

「■[労働政策]ホワイトカラー・エグゼンプションの議論はなぜダメなのか(2)(2018-03-02)」(吐息の日々)

と指摘されていて、「空いた時間に新しい仕事を割り当てられることは基本的に歓迎」とまではさすがに言い過ぎではないかとは思いますが、相当の給料を受け取りながら早く帰ってもいいということが制度として認められれば、それが一つのインセンティブになるとはいえるでしょう。もちろん、それは相当の給料を払うという前提に加えて、ノーワークノーペイの原則によらない給料負担を使用者側が引き受けるという取引によって成り立つ制度である以上、労働者にはそうした使用者側の引き受けた負担に見合う働きが求められるわけです。逆にいえば、裁量労働制の対象とならないような一般の労働者は、強大な人事権をもって配置転換しながら雇用を維持するという負担を使用者が引き受ける取引の代償として、どんな業務でも長時間労働によってこなすという働きが求められているわけですが、裁量労働制のように対象が限定されていないために、多くの一般の労働者に過重な負担を押し付ける原因となっていることを考えなければならないわけですね。

裁量労働制の運用が問題だからといって、専門的労働者が業務を効率化して新たなスキルを身につけようとするインセンティブそのものを否定してしまうと、上記の通り労働時間問題を健康問題ではなくゼニカネの問題に帰結させてしまい、結局一般の労働者が過重な負担を押し付けられる現状を肯定することにもつながるわけでして、今回の敵失でいきり立っている反対派の皆さんにおかれては多少自制されることが望ましいのではないかと愚考する次第です。

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