寝太郎
寝太郎のおはなし
寝太郎物語 むかしむかし厚狭の里にものぐさな若者がありました。毎日毎日寝てばかりいるので、村のみんなから「寝太郎」と呼ばれ笑われていました。村一番のお金持ちで庄屋のお父さんも困り顔。それにはおかまいなく寝太郎は三年三月、まるまる寝て暮らしました。 |
湿地帯だった厚狭の「千町ヶ原」を瑞々しい水田に変え、村おこしを成し遂げたと伝えられる「寝太郎」。日本各地に伝わるこのお話は、そのほとんどが民話として語り継がれているだけですが、厚狭の町では、実在の人物であったかのように「寝太郎」が生活の中に息づいています。
いつ誰の手によって厚狭川が堰き止められ、厚狭盆地に縦横に水路を構築する事業が行われたか公的な記録は残っていません。しかし、膨大な資金と労力を要したことは疑いようがなく、この偉業に対する人々の感謝の気持ちが、寝太郎物語として語られるようになったのでしょう。
1842年の「防長風土注進案」に物語の原型と言える次のような記述があります。『15~16世紀の頃、一人の翁が仕事もせず、いつも寝てばかりいるので、世人から「寝太郎」と呼ばれていた。やがて彼は沓村に大きな堰を造って厚狭川の流れを引き、千町ヶ原を開いて美田とした。』これに、寝太郎の父が庄屋であることや三年と三月寝て暮らしたこと、佐渡金山で資金を調達した話などが加えられて現在の厚狭の寝太郎物語が形成されていったと思われます。
この堰により厚狭が発展、今日の繁栄の基礎が築かれたことは事実であり、今も寝太郎人気は衰えることなく、毎年祭祀が行われ、人々に信奉され親しまれています。厚狭の人々の心の中に生き続ける「寝太郎」、ふるさと文化遺産として登録するのにふさわしいと言えるでしょう。
寝太郎と厚狭の人々 | 寝太郎が残したもの寝太郎への感謝 |
寝太郎が残したもの
厚狭では寝太郎物語が語り継がれるだけでなく、現在も『寝太郎さんが造った』堰と用水路が人々の暮らしを支えています。
大井手(寝太郎堰) 厚狭川を柳瀬付近で堰き止め、土地を穿(うが)ち水路を敷くことで、厚狭盆地を永年にわたり潤してきた大井手。開拓史に深く関わり、寝太郎物語と相まって厚狭の貴重なシンボルとなってきました。 | |
寝太郎用水路 大井手(寝太郎堰)から引き入れられた水は厚狭盆地をくまなく流れています。 | |
千町ヶ原(せんちょうがはら) 大井手(寝太郎堰)の築造及び導水により拓かれた美田は「千町ヶ原」と呼ばれています(受益面積383ha)。 |
寝太郎への感謝
全国各地に伝わる寝太郎の民話と厚狭川の堰や用水路が結びついたのは江戸時代中期だと考えられています。
それ以来、厚狭の人々は、寝太郎に感謝する気持ちを捧げてきました。今も寝太郎人気は衰えることなく、毎年祭祀が行われ、人々に信奉され親しまれています。
寝太郎荒神社 厚狭駅新幹線口近くの「寝太郎荒神社」。ここは千町ヶ原のほぼ中央に当たり、寛延3年(1750年)、広瀬地区の吉井又左衛門ほか農民たちが、石祠を建て松の木などを植えて、荒地だった千町ヶ原を美田に変えた寝太郎に感謝を捧げたものです。 | |
旱魃(かんばつ)記念碑 寝太郎荒神社の敷地内には「旱魃記念 自昭和14年6月22日至同年9月11日迄晴天 大井手掛のみ満作」と刻まれた石碑があります。 | |
円応寺(権現堂/稲荷木像) 千町ヶ原の最北にある円応寺は曹洞宗の寺院で、天保末年には本堂、境内には薬師堂と荒神堂がありました。荒神堂は千町ケ原鬼門に当たることから、権現・住吉・三宝荒神を安置し、権現は千町ケ原を開墾した寝太郎を祀ったとされています。 | |
寝太郎之像 厚狭駅在来線口に降り立つと稲束とくわを持った「寝太郎之像」が、まず目に入ります。 |
参考文献
- 山陽町史(山陽町)
- 山陽小野田観光検定ガイドブック(山陽小野田観光協会)
ちょっと足をのばせば
厚狭川河畔寝太郎公園
厚狭川河畔には、寝太郎物語をテーマにした千石船の公園、わらじの公園、桶の公園、砂金の公園、ゆめ広場の5つの公園があります。その中で最上流にあるゆめ広場は、野外ステージ、おまつり広場、あじさいロードなどが整備されており、桜やつつじ、藤などの花見を楽しむこともできます。そばを流れる厚狭川の支流には、ホタルが生息し、夜になるとホタルを鑑賞する人々でにぎわいます。