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東京の街に響くアイヌの歌声~フィールドワーク「アイヌと歩む……東京アイヌ史」に参加して

小宮朗 2007/08/26
2007年8月11日午前10時、芝公園・4号地。射るような日差しの中、東京タワーの近くにあり、周囲には高層ビルが建ち並ぶ都内の公園の一角に、40名ほどの人が集まりました。


 2007年8月11日午前10時、芝公園・4号地。

 射るような日差しの中、東京タワーの近くにあり、周囲には高層ビルが建ち並ぶ都内の公園の一角に、40名ほどの人が集まりました。フィールドワーク「アイヌと歩む……東京アイヌ史」(※)に参加するために集まった人たちです。今年はじめて開催されるというフィールドワークには、北海道から来たアイヌの人たちや、関東在住のアイヌの方、研究者、関心のある和人などが参加し、用意された資料が足りないほどでした。

(※)このフィールドワークは、イチャルパという、8月12日に実施されたアイヌ民族の伝統的な先祖供養(主催東京イチャルパ実行委員会)の前日、11日にはじめて企画されたもの。東京イチャルパは2003年から始められ、今年で4回目を迎える。(編集部)


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芝公園内にある石碑

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宿舎があったあたりにてアイヌの歌を唄う

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東京イチャルパの主催は東京・イチャルパ 実行委員会
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ハモテの埋葬された青松寺にてオンカミ(アイヌ民族の作法で拝む)を行う
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周辺に建ち並ぶ高層ビル
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天光院
 このフィールドワークは、1872年(明治5年)、この辺りにあったという「開拓使仮学校付属北海道土人教育所」とその周辺をたずねるためのもので、主催は東京・イチャルパ実行委員会です。

 当日配られた資料のなかには、当時の写真などが掲載された冊子のほかに、周辺の古い地図と新しい地図がありました。当時、増上寺は、敷地がとても広かったのですが、現在は土地の区画が大きく変わってしまっています。そのような中、長い時間をかけて、東京に連れてこられたアイヌたちの寝泊りしていた宿舎があった場所や埋葬された場所をつきとめた、研究者と長谷川修(関東のアイヌ民族団体「レラの会」事務局長)さんの苦労が偲ばれます。

 当日配られた資料よると、総勢38名のアイヌが北海道から東京に連れてこられ、「北海道土人教育所」と開拓使官園で、農業、日本語、算術、裁縫などの教育を受けました。出京するアイヌの選出は性急かつ強引に行われ、その生活になじめなかったアイヌたちは脱出を試みたり、病気になったり、挙句の果てに5人もの死者を出しました。その舞台となった学校は、現在の芝公園内にあたる元増上寺の敷地内に、宿舎はその近くにあり、今回はその周辺をたずね歩きました。

 はじめは、当時宿舎となっていた清光院というお寺があったであろうあたりに行きました。近くの木陰にて、研究者で案内役の狩野さんの説明を聞いた後、北海道から来たアイヌの人たちと、関東在住のアイヌの方が一緒に歌を歌いました。このような場所で聞く、アイヌのために唄われる、本来そうあるべきアイヌの歌はとても感慨深く、心に響きました。

 次は天光院に移動。ここのお寺は、清光院とも縁があり、長谷川さんたちの仕事にいろいろな面で協力してくれている所だそうで、建物の中に入りいろいろな話を聞きました。長谷川さんは、「ここが関東のアイヌの出発点」とおっしゃっていました。これは、最初に東京に連れてこられたアイヌたちと、その後も続く、さまざまな理由により故郷を離れ東京に出てきたアイヌたちの、出発点がここである、という意味だと思います。ここでは、関東在住の弓野さんのカムイユカラが披露されました。ユカラは、アイヌの口承文芸で、神々や英雄の物語とともに、アイヌ民族の歴史や精神が謡われているものです。繰り返される「ハンチキチ」という節が、心地良かったです。

 それから、東京に連れてこられて亡くなったアイヌのうち、埋葬場所が分かっている「ハモテ」(享年27歳)が埋葬されたという青松寺に向かいました。当時の建物は、関東大震災・太平洋戦争の際に被災したため当時の建物は残っておらず、現在では綺麗な建物が建ち、新しい感じのするお寺でした。ハモテたちがここで生きていた頃は、東京も今とはずいぶん違っていたのでしょう。現在の東京をハモテが見たら、どう思うのでしょうか。ここでもハモテを想い、歌が唄われました.

 最後に、皆で愛宕山(あたごやま)に登りました。愛宕山は、山と名前がついていますが、丘と言った方が良いような、小さなものです。 今は整備され公園のようになっていますが、当時は木が生い茂り、もっと山のようだったのかもしれません。長谷川さんは、学校とも宿舎とも近いこの場所に当時のアイヌたちも登り、遠い故郷を思い出していたのではないかと想像する、と語られていました。

 また、フィールドワークを開催するにあたって、当時のことについて書かれた、いろいろな資料に目を通した際、ハモテ達とほぼ同じ時期に、台湾から14歳の先住民の少女が東京に連れてこられ、似たような生活をし、やはり体調を崩し、故郷に帰った後、20歳の若さで亡くなってしまう、ということがあったことを知ったと話してくれました。このことからは、当時の日本政府の先住民政策とはどのようなものであったかをうかがい知ることができます。このような、当時の政府の考え方を、もっと研究し、しっかりと認識する必要があります。

 そして、それは長谷川さんが指摘するように、「私たち(和人)の問題」です。最後に、「北海道土人教育所」のことは、いろいろな人がバラバラに研究をしていたので、まとめるのに時間がかかってしまったが、こうして初のフィールドワークを行うことができて嬉しい、また、連れてこられたハモテたちだけではなく、いろいろな事情で東京に出てきて、亡くなっていった多くのアイヌたちの為にも、イチャルパ(アイヌ民族の伝統的な先祖供養)を続けていきたい、と語られました。

 この翌日、芝公園内にて、アイヌの人たちによるイチャルパが行われました。

 東京で暮らしている私たちは『アイヌ』というと、どこか遠くの人たちのように思ってしまいます。ですが、この東京や関東、それだけではなく北海道以外の地域には、私達が想像するよりもはるかにたくさんのアイヌの人たちが生活しています。仕事を求めて、差別を逃れて、あるいは受験で、転勤で……移り住むことになった理由は、ひとによってさまざまですが、身寄りもない土地で生活を築いてゆくのには、大変な苦労があったのだろうと思います。そして、そのような、アイヌの人たちなら誰もが知っているような事を、私たち和人は、まったく知ることがなく、気がつくこともなく生活しています。

 私の故郷である東京は、アイヌの人たちにとっては、心休まることのない、冷たく厳しい土地であると思うと、激しく心が揺れました。

Q:ハモテの死因はなんだったのですか? 他のアイヌの人たちのお墓はどこにあるのですか?

A:はっきりとはわかりませんが、他のアイヌたちの死因やかかった病気に脚気(かっけ)が多いので、それが原因ではないかと思います。北海道から東京に連れてこられ、向こうで食べていた稗や粟など栄養価の高い穀物から、白米を中心とする食生活へと急激に変化したためではないでしょうか。また、他のアイヌの人たちのお墓のある場所として、うち1人は函館に埋葬されている可能性があるそうです。それ以外のアイヌについては、分かっていません。ハモテについては、当初、宿舎近くの愛宕山にある愛宕神社に墓がないか尋ねてみた際に、青松寺ではないかと教えてもらいました。また、青松寺に埋葬されたのは史料から確認したことで、愛宕神社の情報は青山墓地の可能性があるという指摘でした。

Q:浄土宗のお寺に開拓使仮学校ができた理由は何ですか? 浄土宗とアイヌには特別な関係があったのですか?

A:特別に浄土宗だから、という理由は、ないのではないかと思います。仮学校が置かれたのが開拓使東京出張所があった場所で、転用が可能であった、というのが理由ではないかと思います。 明治維新以後、かつて徳川によって保護されていた増上寺は後ろ盾を失っており、土地の一部が切り売りされていました。ただし、浄土宗は開拓使のできる60年も前から、北海道で布教を行っており、そういった意味では繋がりがあります。なぜなら、布教とはアイヌ側から見れば侵略の第一歩だからです。このような歴史を、浄土宗の関係者にも、しっかりと認識して欲しいと思います。
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