ミホさんの代わりに出勤したものの、ミホさん目当ての客ばかりだったらどうしよう。皆、がっかりするんだろうな…
私はそんな心配をしていたが、全くの杞憂だった。
ミホさんは前もって自分の客に、今度の月曜日は休むと知らせていたようだ。
そのせいか、代わりなど要らなかったと思うほど、店は暇であった。
あるいは、ミホさんの休みとは関係ないのかも知れない。理由なく混んだり、閑古鳥が鳴いたりするのが水商売なのだから。
それにしても客がいないと、なかなか時間が過ぎてくれない。
少し早上がり出来るかしら?月曜日からダブルワークだと、週末まで体が持ちそうにない…
やっと客が入ってきた。
私の知らない顔ぶれだったが、2度目の来店という二十代後半のグループだった。
そのテーブルに着いたものの、彼等は熱心に仕事の話を続けていた。隅っこでお酒を作りながら聞いていると、ソフトウェア開発の仕事のようだった。
私は耳を傾けながら、自分の会社との関連がないかどうかを探っていた。何しろ世間は狭いので、どこで何が繋がっているか解らない。
話が一段落した頃、客のひとりが私に話しかけてきた。
「すまなかったね、仕事の話ばかりして。聞いても面白くなかったでしょう?」
「そんな事ありませんよ。だって、皆さんのお仕事、私の昼の仕事と同じ職種みたいだから…」
「えっ?そうなの?」
「シーッ、ここだけの話ですよ」
「へぇー、君もプログラマーなんだ。何ていう会社?」
彼等はもの珍しそうに私を見た。思いがけず彼等に興味を持たれてしまったので、私は少し慌てた。
「それは…あの…秘密です」
「どうして夜の仕事を?」
「実は…ワケありで。言えません」
「それもそうだな。でも、昼も夜もじゃキツいでしょ」
「ええ。正直言って、結構大変なんですよね…」
「これは驚いたなぁ」
質問攻めにあった私は、他の用があるフリをして一旦席を離れた。
いけない、ついうっかり昼の仕事の話をしてしまった。話題を他に逸らさなくては。
彼らはまだ、私が気になっているようで、視線をずっと感じていた。
女のプログラマーがそんなに珍しいだろうか。私の会社でも、女性は2割以下だけど…
席に戻っても彼らの関心事は、私のダブルワークについてだった。
「君の事を見ているとさ、こう言っちゃ悪いけど、夜の仕事はあまり向いてないんじゃないかな」
「あはは、やっぱり?そうですよねー」
「こういう仕事は、辞めた方がいいよ」「そうだ。夜は辞めた方がいい」
「僕らで今、話してたとこなんだけど、良かったらうちの会社で働かない?」
「えーーーっ?」
思いがけない言葉に、私は大きな声をあげてしまった。
「今の会社に何か問題があるから、バイトなんかしているんでしょう?僕等がうちの社長に話してあげるから、ぜひ来なよ」
「いえ、そんな訳には…」
「まだ新しくて規模も小さいけれど、結構いい会社だよ。社長はすぐOK出すと思う」
熱心な勧誘が続いたが、私は彼らが気分を害さないよう、丁寧にお断りをした。
夜の仕事も向いていないけれど、プログラマーとしてのスキルもないので、せっかく紹介していただいても皆さんに迷惑をかけてしまうから…等と説明すると
「それなら、事務をやればいい。うちは、事務社員も募集中だから」
とまで言われた。
有難い申し出ではあったが、その話に乗る気は毛頭なかった。
スナックの仕事でお金が貯まったら、会社に借りたお金を返す。そして、スナックも会社も辞めると決めていた。
それから先は、何ひとつ考えていない。
だからと言って、この人達の会社に入れてもらう訳にはいかなかった。
私にプログラマーの適性がない事は、自分でも十分過ぎるほど解っていたから。
今の会社に入った時と、同じだった。
あの時の私も、何も出来なかったのに
「仕事は少しづつ覚えていけばいいさ。若い女の子が入ってくれれば、他の社員達がやる気を出すから」
と言われ、入社したのだった。
私は変わりたい。一体何に?どんな風に?
私は、私でなければ出来ない「何か」がしたかった。
でも、私でなければ出来ない「何か」って、何だろう…
グループが帰った後、すぐにタエさんが聞いてきた。
「ねえ、ユキちゃんのとこ、珍しく盛り上がってたけど、何事なの?」
「あのお客さん達、うちで働かないか?ですって。本当にまいっちゃう」
「ちょっと!それって引き抜きじゃない」
「あ、夜ではなく昼間の方です。同業の人達だったので、つい、私も同じ仕事…って話をしたら…」
「なあんだ、ビックリした。でも、いい条件なら考えてみたら?」
「だって、今の会社も、このお店も辞めてからの話なんです」
「ダメーっ!そんなのダメダメ。今、ユキちゃんに辞められたら困るもの。アイちゃんは夏休みで帰省中だし」
「ですよねー」
「ミホちゃんだって、いつ来られるようになるんだか…」
えっ?
「ミホさんのお休み、今日だけじゃないんですか?」
「あっ、そ、そうだよね。でもほら、検査の結果次第では、わからないじゃない?」
タエさんは、少し慌てた様子だった。
この時のタエさんは、ある事を隠していた。でも、私はそれに気が付かなかった。
その3日後。
店に入ると、タエさんが暇をもて余し、ソファーにしな垂れ掛かっていた。
もう来ているはずのミホさんが、まだいなかった。
「おはようございます。あの、ミホさんは?」
「おはようさん。ミホちゃんねぇ、やっぱりあれから来てなくて、昨日も一昨日も私ひとりで大変だったのよ。でもね、これから来るみたい」
「そうだったんですか…」
「あっ!そうそう。ほら、この前のグループ、あの翌日も来たよ。まだ若そうな社長さん連れて、ユキちゃんいますか?って」
「本当ですか?」
「大丈夫。ユキちゃんの引き抜きならお断りですよって、ちゃんと言っといたから」
「ああ、よかった。タエさん、ありがとうございます」
あの話が冗談ではなく、本当だったなんて。私が休みの日で良かった。ひとりで忙しかったタエさんには申し訳ないけれど…
扉が開き、タエさんとふたりで「いらっしゃいませ~!」と声を揃えたが、入ってきたのはミホさんだった。
「おはようー。遅れてごめんなさい。ずっとお休みして、本当にすみませんでした」
「いいからいいから。ご覧の通り、ガラガラだもの」
「ミホさん、体の具合いかがですか?胃カメラ、苦しくなかったですか?」
「ユキちゃん、月曜日はありがとう。実はね、私」
ミホさんは、私とタエさんしかいないのを確かめるように、辺りを見回した。
「検査って言ったの、あれ、嘘だったの。ごめんね」
「嘘?」
「本当はね、お腹に赤ちゃんが…私、妊娠したの」
ミホはまるで他人事のように、あっけらかんと話した。
「もう、堕ろしてきた。
私ね、彼氏と同棲していたの。
でも、別れた。彼氏に出て行ってもらった。
だって、私が働かなきゃ生活出来ないんだもの。
子どもなんて、育てられないもの」
突然のミホの告白に、私は激しく動揺した。
「驚いたでしょう?お願いだから、ふたりとも普通にしてね。
私は全然平気。あんな男と別れて、せいせいしているんだから。
あ、社長とマスターには絶対に言わないでね」
言えるわけがない。
ミホさんはこの時、ひらひらの花弁のような深紅のブラウスと黒のロングスカートで、細いウエストをベルトでキュッと締めていた。
華やかで美しい、いつものミホさんだった。
全然平気なはずがない。
本当は、ミホさん、赤ちゃんを産みたかったのでしょう?
だから、あのワンピースを買ったのでしょう?
その言葉を私は、泣きだしそうになりながら飲み込んだ。
ミホさんのお腹に授かった命は、もう、葬り去られてしまったのだから。