「兄の問いかけは、ゆづがもう一度スケートに対する思いを確かめる、いいきっかけになったようです。
それ以来、兄は決してスケートに対しては、口を出しませんでした。ゆづに『もっと頑張れ』、『もっと練習しろ』とは言わず、一歩下がって、『おっ、頑張っているな』と声をかけて、見守るというのが、兄のスタンスでした。
ゆづの運動神経と、あの体型は奥さん譲りでしょう。うちの家系は野球好きですが、運動が得意な家系ではないし、手足も長くないですから(笑)」(叔母)
前出の都築氏は、羽生の両親の教育方針についてこう語る。
「羽生家の場合、あるときは密接で、あるときは突き放すという教育をされていた気がします。子供にやらせるのではなく、子供が関心を持ったことに、可能な限り協力する。子供の『自主性』を尊重するのが、羽生家の教育方針でした」
そうして続けたスケートで、羽生はますます才能を開花させていく。小学4年生の時にノービス(ジュニアの下のクラス)の全国大会で初優勝。中学1年では、ノービス選手にもかかわらず、全日本ジュニア選手権で3位に輝いた。
羽生が中学、高校と進学するにつれ、両親は「自主性」を重んじる一方で、スケートだけの人間にならないよう、口を酸っぱくして言い聞かせてきたという。羽生が通っていた東北高校の五十嵐一彌校長が明かす。
「羽生君は勉強もスケートもきちんと両立していました。やはり親御さんの教えがあったからだと思います。お父さんは『フィギュアだけでなく、勉強もしなければダメだ』と羽生君に常日頃言っていたようで、遠征先にも教科書や参考書を持ち込んで勉強していました。中学のころから成績もよくて、特に理数系が得意でした。お父さんが数学の先生という影響があるのかもしれませんね」
'10年にはシニアデビューを果たし、'11年、四大陸選手権で銀メダルを獲得。史上最年少のメダリストとなった羽生は、高校3年時の'12年5月、さらなるレベルアップを目指して海を渡る。
バンクーバー五輪金メダリストのキム・ヨナの指導者だったブライアン・オーサーに師事するため、地元仙台を離れ、カナダのトロントに母と二人で移住したのだ。父と姉を地元仙台に残し、異国の地で、母と羽生の二人の生活が始まった。
「最初は言葉の壁や生活環境に馴染めず、苦労したみたいです。カナダは肉料理が多いのですが、結弦は食が細いので、外食で胃がもたれることもあった。そこで、お母さんは家で消化の良い鍋を食べさせるなど、結弦の健康管理には相当気を遣ったみたいです」(前出の友人)
献身的な母の支えもあり、なんとかカナダでの生活が軌道に乗ると、羽生はオーサーの指導をどんどん吸収し、メキメキと腕を上げていった。