代表作の数々
平野啓一郎(以下、平野) 今回は横尾忠則さんをゲストにお迎えしています。この〈現代作家アーカイヴ〉ではゲストの作家に代表作を三作選んでいただき、それを柱として話を伺っていくのですが、今回は美術家の方ということで、かなりの点数を選んでいただきました。その作品を見ながら対談を進めていきます。
それでは、はじめにお選びいただいた作品の紹介をしていきます。まずは有名な横尾さんの子どものときの絵「武蔵と小次郎」。5歳のときに描かれたという作品です。これは絵本のなかに出てくる巌流島の決闘のシーンを模写したというものですね。
「武蔵と小次郎」(1941年 作家蔵)
次は初めて印刷物になった高校時代のポスター「織物祭」。
「織物祭」(1955年 国立国際美術館蔵)
その後、グラフィックアーティストとしての作品が続きます。いわゆる画家宣言以前に描かれたもので、非常に有名な作品の数々(「TADANORI YOKOO」「腰巻お仙」「花嫁」)です。
「TADANORI YOKOO」(一九六五年 ニューヨーク近代美術館蔵)[左]
「腰巻お仙」(1966年 ニューヨーク近代美術館蔵)[中央]
「花嫁」(1966年 東京都現代美術館蔵)[右]
そのなかには三島由紀夫さんの自宅にずっと飾られていた作品(「眼鏡と帽子のある風景」)も含まれています。
「眼鏡と帽子のある風景」(1965年 個人蔵)
そして、画家宣言以降の作品です(「芸術の浄化」「実験報告」)。
「芸術の浄化」(1990年 徳島県立近代美術館蔵)[左]「実験報告」(一九九六年 東京都現代美術館蔵)[右]
「Y字路」のシリーズもとても有名ですね(「暗夜行路 N市‐V」)。
「暗夜光路 N市-Ⅴ」(2000年 個人蔵)
画家宣言以降の作品は大体が油彩だそうですが、「赤い絵」のシリーズはアクリルで描かれています(「ジュール・ヴェルヌの海」)。
「ジュール・ヴェルヌの海」(2006年 世田谷美術館蔵)
後半はごく最近取り組まれている作品になってきます(「A. W. misses M. D.」「Piccaso misses his wives」)。
「A. W. misses M. D.」(2014年 国立国際美術館蔵)[左]
「Piccaso misses his wives」(2014年 国立国際美術館蔵)[右]
お堀で泳いでいる女性の絵がいくつものバリエーションで描かれているシリーズ(「49年後」「未完の人生/未完の芸術」)。もとになった絵は1966年に描かれた「お堀」で、そのリメイクと言いましょうか、50年近く経って女性の顔がだいぶ老けているというふうに横尾さんご自身が仰っています。
「49年後」(2014年)[左]
「未完の人生/未完の芸術」(2015年)[右]
そして「アラビアン・ドリーム」のシリーズですね(「アラビアン・ドリーム 月の砂漠」)。
「アラビアン・ドリーム 月の砂漠」(2015年)
最後のほうは、豊島(てしま)横尾館の作品です(「豊島横尾館」)。豊島横尾館には僕はまだ行ったことがないのですが、「滝のインスタレーション」はポストカードを下から上まで貼って床の鏡に反射して、すごく迫力のある空間になっているということで、それも今回ご紹介いただきました。
「豊島横尾館」(2013年 コンセプト、アートワーク:横尾忠則 設計:永山祐子 撮影=表恒匡)[左]
「滝のインスタレーション」(2013年 コンセプト、アートワーク:横尾忠則 設計:永山祐子 撮影=表恒匡)[右]
通俗的なものにしか興味がなかった
平野 横尾さんとは時々電話などでもお話しすることがあって、存じ上げている話もあるのですが、せっかくの機会なので画家になる以前から最近の話まで、いろいろなことを伺いたいと思っています。
じつは横尾さんは美術作品だけでなく著作物も多く、自伝的な内容のものもあり、そのなかで10代のことは、『コブナ少年』という本にかなり詳しく書かれています。
それからグラフィックアーティストになって、1960年代に上京して以降の話には、『ぼくなりの遊び方、行き方』という本があります。また、インド旅行記の『インドへ』は非常に有名な本です。最近では『千夜一夜日記』という、ここ数年の日記を収録した本を出されています。
これらの著作物からも横尾さんの生い立ちを知ることはできるのですが、あらためてご紹介すると、横尾さんは1936年6月27日、兵庫県の西脇市生まれということで、幼少期、2歳のときに横尾家の養子となられている。子どもの頃、最初に描いた絵はお父様の顔だったというふうに自伝で読みました。
横尾忠則(以下、横尾) それは覚えています。ただ、絵心がついたのは何歳ぐらいかな。とにかく気がついたときは絵本の模写ばかりやっていたんですよね。だから僕の絵の原点というのは、やっぱり模写かと思うんです。
先ほどの「武蔵と小次郎」もそうです。「講談社の絵本」というシリーズがありまして、そのなかの一冊、『宮本武蔵』(石井滴水著)のなかに見開きページで巌流島の決闘のシーンがあって、それを描いたものです。まあ、その絵より前からたくさん描いているんですよ。でもいま手元に残っているのが、あの絵だけということです。
平野 これが5歳のときに描かれたものですか? ちょっと信じられないような緻密な描写で、もとの絵本の絵にそっくりだと思うのですが、当時は周りの大人たちも驚いたのではないでしょうか。
横尾 いや、僕は兄弟がいないからとにかく独りで遊んでいて、楽しみというのが模写だったんですよ。だから、上手いか下手かというのは自分でもよくわかりませんでした。ただ、「できればそっくりに描きたい」、「作者と一体化したい」という気持ちだったんですかね。
平野 横尾さんは人物を描くときも、たとえば実際にそこにいるモデルを描くとか、あるいは「Y字路」などの風景にしても、実際のY字路の真ん前に椅子を持ってきて描くという手法ではなく、それらがいったん印刷物や写真になったものから作品を描いていることが多いと思うのです。昔から物を直接見て描くよりも、絵本などから描くというほうが面白かったということですか。
横尾 そうですね。絵本というのは、マス・プロダクトされたメディアですよね。だから一度メディアに還元されたものを、さらにそれを写し取る、そのことに興味があって。じつは絵とはそういうものじゃないかと考えていたんですよ。写生をするとか、誰かの人物画を描くとか、あるいは空想画を描くとか、そういったことにはまったく興味がなかったですね。
平野 学校では美術の時間に写生をする機会もあったと思うのですが、それもあまり面白くなかったんですね?
横尾 小学校のときは特に専門の先生がいたわけではないので、美術の先生の教育を受けるようになるのは中学校からですよね。でも、美術の教科書はほとんど記憶にないですね。マネとかモネとか、ゴッホとかゴーギャンとかの作品が印刷されていたんでしょうが、そういう芸術作品に関してはまったく興味なかった。どこが面白いのか、さっぱりわからない。
平野 そうですか。そういう芸術作品を「模写してみよう」という気にもならなかったと。
横尾 うーん、やっぱり通俗化されたものでないとね。子どもはああいうハイレベルというのか、純粋絵画に対しては教養主義を押しつけられるので、そういうものから逃れたいんですよね。
僕たちの時代は、めんこ、かるた、紙芝居、見せ物小屋とかサーカスとかがあった。そういう鶴見俊輔風に言うと「限界芸術」に興味があったわけです。僕たちの時代の子どもはみなそうだったんじゃないかなあ。
平野 絵があれほど上手というのは、子どもたちのなかではすごいことで、クラスではヒーローだったんじゃないですか?
横尾 いや、それはやっぱりスポーツが得意な子は人気者になるけれども、絵が上手ぐらいでそうはならないですよ。その人の肉体が発するオーラみたいなものに引かれる、そういう身体性が魅力でしょう。
じっとして指先だけ動かして、絵なんか描いてもね。そういうのはいくら上手くてもヒーロー的要素はゼロに近いと思いますよ。そのために自分が突出しているとか、そんなふうに思ったことはいっさいないです。
次回「細胞のなかに定着した死の恐怖」へ続く
横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年生まれ。美術家。72年にニューヨーク近代美術館で個展。その後も世界各国のビエンナーレ等で活躍する。95年に毎日芸術賞、2001年に紫綬褒章、08年に小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞、11年に旭日小綬章、同年度朝日賞、14年山名賞、15年高松宮殿下記念世界文化賞、16年に『言葉を離れる』で講談社エッセイ賞など受賞・受章。
平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)
1975年生まれ。京都大学在学中の99年『日蝕』により芥川賞を受賞。2009年『決壊』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、『ドーン』でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。14年フランスの 芸術文化勲章シュヴァリエ、17年『マチネの終わりに』で渡辺淳一文学賞を受賞。小説に『葬送』『高瀬川』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』など多数。
横尾忠則さんのインタヴュー動画は
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