まなざし村のロジック
まなざし村のロジックは、表現そのものじゃなくて見てる者のまなざしがギルティであるという論法なんだから、この絵柄が性的であるとかそうじゃないとかいう議論自体がそもそも無価値なんじゃよ。
彼らのロジックでは見る者の「まなざし」がギルティなので、個別の絵柄の議論に意味がないのと同様に、それがどの場所にどのような形式で掲示されているかを議論することにもなんの意味も持たない。実際、問題視する側はそれがどこにどうやって使われているかの確認すらしていないことからも明らか。https://twitter.com/tari_tipa/status/788254607319244800 …
いずれにせよ、この(いや一連の)萌え絵批判の問題は、表現規制の問題ではなくて、「まなざし」すなわち他者の内心を否定・規制したい人とそれに抗う人間との戦いなので、批判者が「まなざし」論法を使う限りにおいて批判の対象を精査する必要など全くなく、すべからく反対しなければならないのだ。
こういう言い方をすると面倒くさい人達が寄ってきそうではあるけど、差別者と被差別者の問題であるといったほうが近い。
この例が言い得て妙なんだけど、この問題は公共の場所でエロいのが良いか悪いかなどという議論は全く意味がなく、公共だろうとなんだろうと実在の人物に欲情するのは「健全」で、非実在の絵柄に欲情する人間は被差別民であるというだけの問題なのだ。https://twitter.com/kmuramatsu/status/788214991862112256 …
その連投の最後のツイートだけが拡散して、何バカなことを言ってんだコイツみたいな反応があるんだけど、私は単にかぶとむしを始めとするまなざし界隈の論法をそのまま掲示して批判してるだけなので、アホな論法だと思うならその批判はかぶとむしの方によろしくお願いします>エアリプ各位
絵柄がエロいだとか公共の場所ではフンダララというのがあくまでも後付の理屈でしかないというのは、まなざし論でもってやつらに吊るし上げられた最初の例が「「ロングスカートで掃除の合間に読書している女性型アンドロイドの絵」だったことから明らかなんだけど、みんな忘れちゃってるのかな。
逆!逆!アレがそもそも「まなざし」だったの。それを提唱者がそのままこっちにもってきてるの!https://twitter.com/xhioe/status/788402803592925184 …
そもそもエロくもなんともないアンドロイドの絵を批判するために「まなざし論法」を持ち出してきたんだけど、まなざし論法というのはその論法からして「任意の対象を任意に否定することが可能になる」無敵の論法だから、とにかく自分の気に入らないものを否定する理屈に常に適用できるのだ。
それがそのまま「まなざし論法」を使う限り、常にその意見には反対しなければならない理由なのだ
これは、ある犯罪容疑者が居たとして、捜査の過程で警察や検察が違法捜査や捏造した証拠を持ち出してきたら、たとえ真犯人だろうとも無罪にしなければならないのと似たような理屈なんだけど、多分この例を持ち出すと、「それ無罪にするのおかしいじゃん」と言い出す人が大量に出てくると予想される。
世間では目的が正しければ手段が邪悪でも構わないと考える人が驚くほどに多いことには驚いた(悪文)
私が批判している対象は、その個別の絵に不快感を表明している人ではなくて、あくまでも「まなざし論法を振り回す人」ですので念の為。
しかし感覚的に気に入らないならそういえばいい(というか大半の人はそういってる)のだが、下手に社会学っぽい人が「まなざし」とか言い出してそれっぽい理屈を付けてしまったばっかりに、それがどんなに(たとえ私自身にとっても)不快なものであったとしても、全力で異を唱えなければならないのだ。
しかし、さっきからゲイ差別との共通性がなんども流れてくるんだけど、「まなざし論法」ってセクシャルマイノリティを社会から排除するのにすごく使い勝手の良い論法なんだよね。むしろそれを正当化するためにキリスト教圏で発展してきた概念なのかもしれん。
マイノリティ排除を正当化するための論法。いかにもザ・社会学って感じだ。
まなざし村において重要なのは、この「おまえのまなざし」と指摘されている事象は「実際に私自身の脳内で発生しているまなざし」ではなくて、あくまでも批判者の脳内で想起された妄想により勝手に想定された「実在しないまなざし」であるという点で、それにより任意の表現を規制することが可能となる。
「『まなざし論法』は任意の表現を規制することを可能にする」という話は何度もしているけど、もちろんその「表現」ってのは2次元絵に限るわけなくて、絵や写真どころか、文章や音楽にだって同様に適用できる。
自分の過去のツイートが掘られて思い出したけど、この辺のこと言及してなかったね。てか、当然の前提として飛ばしてたね。
誰がどんな理屈でなにを批判しようと批判という言論自体は好きにすりゃいいんだけど、まなざし村界隈がまなざし論を振り回して批判するなにかがあればそれはその中身がなんであろうとも全力で擁護し、彼らの意見には常に異を唱え続けなければならないという話をしています。人間の権利を守るために。
腐女子界隈は、自分たちは隠れていなければならない存在であるという規範をもっていて、かつ、それが当然であるとも思っているので、他人に対してお前も隠れていろ命令することになんの躊躇も無いのじゃよ。 https://twitter.com/Ponkom/status/788719680391262208 …
「『萌え絵・萌え文化』は身内ネタなんだよ」 ←このどういう根拠で出てきたのかわからない断定は、そのまま「排除する理由」として使われてきたんだよね。「教室でキモい絵描いてるやつがいてキメエ→追い出しちゃえ」といって排斥する行為に尤もらしい理由がつけられていたのがなぜか固定化した。
これはツイッターでわかったんだけど、一部の創作者(特に腐女子に多い)には、「自分たちは公の場に出てはならない」という強い意識があって、しかもそれを守らなければならないという意識まである。でもそれは、腐女子キメえといって排斥したがっていた側が目の前から排斥するために作った規範だよ。
これはまぁ、全ての被差別問題に共通していえることなんだけどね。私は「だからそんな声は無視してガンガン前に出ていかなければならない」と主張しているわけじゃなくて、「排斥を肯定するロジックには常に異を唱えていかなければならない」という話をしています。人間の権利を守るために。
参考資料:オリジナルのまなざし論法についてはここらへんを参考にしてください → from:kabutoyama_taro ”まなざし” - Twitter検索 https://twitter.com/search?f=tweets&vertical=default&q=from%3Akabutoyama_taro%20%E2%80%9D%E3%81%BE%E3%81%AA%E3%81%96%E3%81%97%E2%80%9D%20&src=typd …
明らかに地味な服装ですが、このイラストでも蔑視だ媚態だエロだと散々批判されましたから、性的な表現というのは批判者の不快感さえあれば何でも指摘できるということですね #まなざし村pic.twitter.com/qKqreA0dJp
あの絵がエロいわけじゃなくて、あの絵を見る人の「まなざし」がエロいという話だからね。そこを取り違えてはいけない https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/453218825010282496 …
まぁ、かぶとむしに知的誠実さを求める方が間違えているのだが。
その次号のこの絵をみて「貧ぬー」がまっさきに思い浮かぶようなエロい目線の人もこの広い世の中には実在するわけだから、なにごとも「いない」などと断定してしまうのは危険だということが判る。 https://twitter.com/kabutoyama_taro/status/465365095904587776 …
「甲虫氏の思考パターンは、むしろ同性愛者を差別する側のそれにちかい」 / 甲虫先生との論争について http://yamakawa1977.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html …
「(ただしぼくは、オタクが同性愛者並みの差別を受けているとかいうつもりはない。オタクがマイノリティであるとは、ぼくも思わない。あくまで甲虫氏の内面のメカニズムが差別者に似ているというだけの話である)」 さすがしんかいさん。私が昨日つぶやいたようなことが2年前に書かれていた。
「私は気に入らない」で不快感の表明だけをしてくる分には不毛な言い合いだけをしていれば済むんだけど、一般の市井の人達までこういった「社会学」からの「論理」を組みいれてしまったばっかりにそれでは済まない問題になってしまったのだ。
まぁ、私はあれがエロいから嫌だとか、役割固定だから嫌だという人達が、その排除の論理にまなざしを持ち出さなくなる(できればまなざしを持ち出す人にそれはおかしいと言う)ようになってくれればそこそこ満足するのだが、
まなざし村のタグ化以降話が発散してしまって、まなざし論だけを批判してているつもりでもいろんな反論がついてくるようになってしまった。
やはり一度はきちんと整理しておいたほうがいいな。
まなざし村もネトウヨと同程度に雑な罵倒用語になっている印象
日々変遷する言葉の定義を誰かが勝手に決めることに意味はないのだが、今の段階で確実に言えそうなのは、現在ツイッターランドで流通している「まなざし」の源流はかぶとむしが言い出した「まなざし」で、そこから発展したものであるということだけは確実にいえよう。
こういうのは文字にして残しておくことが大事。先日「メンヘラ」の源流を探るブログが話題になってたけど、あれだってまだ16年前の話で、リアルタイムで見てた人も多いはずなのにもう史学的な研究になっちゃってた。インターネットミームの変遷の速さは異常。
私が日々批判しているのはオリジナルのまなざしだと言う話はマメにするようにしているが、それは多分多分いちばん狭義のものなんだけど、人工知能学会誌以降同じロジックを使う人が増えてきたからずっと「かぶとむしの亜種」と私は呼称してたんだよね。流行らなかったけど。
「まなざし村」というタームを開発した人はすごいと思う。
いずれの呼称にしても、オリジナルの「まなざし」論法自体は、ある気に入らない事象を排除する論理としてもっとも手軽で、もっとも適用範囲が広いから、その使い勝手が知れ渡るにつれみんなすぐに使うようになる。
だから最初は「学会誌で性別役割の固定化はよくない」だとか、「公的機関がエロを押し出した展開をするのはよくない」といったある程度穏当なクレームをつけていた人達が、私企業の制服キャラにまで文句をつけることまで可能になるという、強烈な「刃物」になってしまっているという問題点がある。
☓文句をつける ○排除を求める
「私はそんな気の触れた論法で排除までは求めていない」というまっとうな批判者の存在が増えるのを祈るばかりである。
これまでの人類の歴史を鑑みると、こういった「じわじわと押し寄せてくる排斥運動」には、早い段階から強く反発することが肝要だと思う。
ニーメラーの出番である
しかし、一部の反差別論者に見られる、マイノリティを叩くのは絶対に許されないが同じ棒(ロジック)でマジョリティを叩くのは正義として許されるという感覚は一体どこから来てるんだろう?
長い人類史のなかでは、弱者を救済する論理よりも、より合理的に弱者を排斥する論理のほうがはるかに発達している。
そうした論理の元、合理的に排斥されて然るべきと判断された人間が排斥されていてもだれも文句はつけないし、それは弱者とは呼ばれない。
実際の活用事例はこの辺を参考にしてください / 【駅乃みちか】萌え絵好きの人に読んで欲しい、街なか風景の萌え絵問題 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/1038572
「性的かどうかなんて判断する側の妄想力次第でいくらでも範囲が広がる」ってのは「有害都市」のこのシーンが伝わりやすいね!! このおっさん、実にスケベだ!!pic.twitter.com/Z4QJGrGk6T