【落合陽一徹底解説】「サピエンス全史」続編から見える日本の勝ち筋 ──前編
3月3日(土)11時0分 Forbes JAPAN
マーク・ザッカーバーグやビル・ゲイツといったビジネスリーダーたちから絶賛され、世界的ベストセラーとなった「サピエンス全史」。その続編となる「Homo Deus」は、既に発売されているが、邦訳版はいまだ刊行されていない。
欧米で既に議論を呼んでいる本書を、落合陽一が邦訳に先立って徹底批評。「東洋的発想」がいずれ世界を席巻すると断言する落合が、話題の未邦訳本から読み解く”日本の勝ち筋”とは?(後編は3月4日公開)
はじめに断っておくと、僕は歴史家であるユヴァル・ハラリという著者が好きです。前著「サピエンス全史」は一気に楽しく通読しましたし、その続編で歴史から未来へとベクトルを急転換させた「Homo Deus」の刊行も楽しみで仕方ありませんでした。
読み終えた率直な感想は、「西洋的個人主義の更新の必要性を感じる一冊」というものです。批評性を持って読むと我々と西洋的個人主義の差を認識することのできる良著です。
「Homo Deus」の大筋は下記のような内容になっています。
飢饉・疫病・戦争を克服したあと、人類に残る課題とはなにか。ハラリは大きく「不死の獲得」と「幸福の再定義」をアジェンダに設定します。
永続的な幸福を得るためには、人間のリエンジニアリングが必要になる。そして、人間性がハックされれば、権力は個人主義からネットワーク化されたアルゴリズムへ移行していく。バイオテクノロジーとコンピューター・アルゴリズムによって、私たちはより力強い虚構や完全な宗教を創造する。不死と幸福の獲得により、ホモ・サピエンス(ヒト)はホモ・デウス(神)へ変身していく。
「個人主義からネットワーク化されたアルゴリズムへの移行」──。ハラリが思い描く未来の方向には、おおよそ同意します。人類とテクノロジーの関係を考察すれば、そうした方向に向かうのは当然ともいえるかもしれません。
「人間性をハックせよ」や「私たちは発達したチンパンジーから、大きくなった蟻になるかもしれない」といったハラリの主張は、僕が口癖で普段からツイッターでいうような「人間性を捧げよ」や「インターネット蟻」とほぼ同じことを言っているのです。
同じ未来像を共有しているにもかかわらず、僕と彼の思想はその結論で決定的に異なります。前著「サピエンス全史」を継承する形で、ハラリは大多数の集合的な協働能力が人類と他の生物を分かつと主張しています。
だとすれば、ネットワーク化されたアルゴリズムが僕らの認知的な限界を突破したとき、導かれるべきは「ネイチャー(僕はよく”計算機自然”と表現します)になるはずでしょう。それにもかかわらず、ハラリが結論として導出するのは「超人(Homo Deus=神の人)」なのです。
このズレに気づいたとき、「あ、この感覚の差は思ったより大きいし、これから東洋的感覚を持ち合わせたアジア諸国の行く末は明るい」と改めて思いました。今回の記事では、「Homo Deus」で展開するハラリの主張をたどりながら、なぜ僕が日本の未来に希望を見出したのかを詳述していきます。
キーワードとなるのは、ずばり「東洋」です。
「Homo Deus」の随所随所にその欲求が見え隠れするように、こういったコンピューターテクノロジーによったエコシステムやビオトープを考えたときに、西洋的思想の持つ厳格性やキリスト教的一神教価値観は自然と調和をモチーフにする東洋思想よりも齟齬が出やすい。でも、それを認めてテクノロジーにまつわる思想をアップデートして進んで行くことは、文化的な意味でも、政治的な意味でも、民間の意識的な意味でも難しい。
そもそも宗教的な意味でも、文化的な意味でも、西洋的価値観が強烈に埋め込まれた社会に彼らは生まれ育っていますし、例えばそのコミュニティの中で東洋的な、一は全、全は一のような考え方など、仏教的哲学観や老荘的哲学観などの態度を示すことで、「ヒッピーだね」とか「オリエンタリズムだね」とカテゴライズとレッテルによって唾棄されることを嫌うからです。
僕ら日本人はそうした恐れを抱くことなく、堂々と東洋的価値観と向き合うことができます。むしろ東洋的価値観への自覚を取り戻すことが、我々のような研究者、起業家、ビジネスパーソン、そして学生にとって今後大きなアドバンテージになっていくでしょう。それは、テクノロジー親和性が高い考え方だからです。
では、なぜこのように考えることができるのか。「Homo Deus」を批評的にかつ、ポジティブに読み解きながら、語っていきたいと思います。
超一人称と三人称の違い
「Homo Deus」のなかには、ハラリの主張を明瞭に表すこんな主張があります。
「21世紀のテクノロジーは外部アルゴリズムが人間性をハックし、自分以上に(アルゴリズムが)自分を遥かに知るようになることを可能にするだろう。そうなれば、個人主義への信仰は崩れ、権力は個体的な人間からネットワーク化されたアルゴリズムへと移行する」(twenty-first century technology may enable external algorithms to hack humanity and know me far better than I know myself. Once this happens the belief in individualism will collapse and authority will shift from individual humans to networked algorithms.)
確かに、個人が計算機ネットワークによって接続された集団や統計的学習プロセスをもたらすような機械学習のアルゴリズムに超克されれば、我々の文化がもつ(例えば松尾芭蕉の俳句で詠われるような)「三人称視点の自然」しか残存しないはず。いわば個別の人格は「テクノロジーと人間の掛け算で定義される新しい自然」に溶け出していく。僕はこうした未来像を「デジタルネイチャー」と呼称しています。
ハラリ自身、本の随所で三人称を志向しつつも、結論部では一人称「ホモ・デウス」に固執しています。どうしても、西洋観の一本筋を通そうとする葛藤が見え隠れするのです。これを見ていると歯がゆくもあり、逆に言うとよくぞまとめたとも言いたくもなる。その過程を読み込むことは違ったコンテクストで生きる我々には非常に面白く感じるはずです。
他にも、西洋的価値観に基づいて論拠を固めようとする姿勢は、下記のような記述にもみてとれます。
「芸術性や政治的コミットメント、宗教心の多くの部分は死への怖れに起因する」(A large part of our artistic creativity, our political commitment and our religious piety is fuelled by the fear of death.)
普遍的な語り口で述べられるこの箇所に関しても、コンテクストとして東洋を生きる僕は違和感を覚えます。一神教に依拠しない東洋人にとって、宗教やコミットメントは「死への怖れ」ではなく「然」に由来するからです。もちろん、日本人が戦後培ってきた拝金的現世主義は死への怖れから生じる面も大きいと感じますが、それはおそらく社会制度を個人化する過程で同様に生まれた考え方なのかもしれないと再認識することもできました。
しかしながら本来、「老子」のなかで理想として説かれる「無為自然」が分かりやすい代表的な思想の例といえるでしょう。東洋的思想に立脚したとき、コミットメントが死や契約に結びつくことへの論述がない限り、全体批評性を持った論が成り立たない西洋は堅苦しく思えてなりません。
前提となる論点として抑えておきたいのは、「Homo Deus」が”三人称になりたがっている超一人称の本”であるということです。その葛藤がいろいろなところに出てくることが非常に興味深い。
「手に入れないと、気が済まない」という病
「幸福と不死の追求により、人類は自らを神へと変えようとしている」(In seeking bliss and immortality humans are in fact trying to upgrade themselves into gods.)
「私たちの生涯で不死が獲得されずとも、死を乗り越える戦争は次世代の主題となるだろう」(even if we dont achieve immortality in our lifetime, the war against death is still likely to be the flagship project of the coming century.)
本著を通じ、ハラリは一貫して「幸福」と「不死」の獲得を主題に据え続けます。このアジェンダ・セッティングにも、本著が”超一人称”な本であることが見え隠れしているといえます。つまり西洋的個人主義からみた超一人称が神を目指すという方向性を与えているわけです。
「(不死と並んで)21世紀の人類にとって最重要になるプロジェクトは幸福を確保することであり、それは人間のリエンジニアリングを喚起する」(it seems that the second great project of the twenty-first century - to ensure global happiness - will invoke re-engineering Homo sapiens so that it can enjoy everlasting pleasure.)
僕たち東洋人はそもそも「幸福」といった考え方をしておらず、元来「自然」な状態を求めていました。「happy(幸福)」よりも「comfortable(快適)」です。快適であるためには、心技体が一致している必要があります。価値観として幸福と言われる状態にいる人でもこの社会や自分自身に対して不快な状態にあると感じている人がいるのはそのためでしょう。
より分かりやすい例として、近年アメリカを中心に流行している「マインドフルネス」が挙げられます。「イマ・ココ」における内面的・外面的な経験に注意を向けることそのものが瞑想であるべきにもかかわらず、心理的に獲得したい成果や効果を求める時点でそれはマインドフルネスではありません。
内面的な自然と一体化して無目的な平穏を求めようとすることを目的とする……この大いなる矛盾は、死と幸福の概念でパラダイム設定を試みるハラリの議論にも通底しているのです。この矛盾に向かい合いながら西洋個人の更新を目指す論は力技を感じますし、ハラリにしか書けないのかもしれません。
そういった意味では、難病を治癒することも寿命を最大化することも、それがテクノロジーによって我々全体が手にできる状態として一般化したあかつきには「個人のエンパワー」という機軸では語られなくなります。「整形手術をするのは当たり前」や「車を持っているのは当たり前」といった話は、社会的インフラの議論にたどり着きどこまでいっても東洋の自然を出ません。
確実に歩みを進める歴史のなかで、過去に克服したであろう障害を僕たちは容易に忘却します。「みんなは」とか「普通は」などといった言い回しを会話のなかで日常的に使う僕たちは、一人称のコンテクストよりも全体の議論に流れがちです。例えば、メガネができるまで近視は重大な身体欠損でしたが、今はそんなことを気にする人はいません。それが、個人のオーグメンテーションか? という問いを立てることは稀なのではないでしょうか。
言い換えれば、私たち東洋人は一人称と三人称を常に行き来します。東洋人が「芸術」を理解できないのは、一人称からなる、その個人の到達点と個人が歴史や文化との間に育むコンテクストを理解しにくいことの裏返しかもしれません。その観点をこの本を通じて得ることで、我々の持っているコンテクストと西洋コンテクストの間にあるギャップへの理解が進むかもしれません。(後編は3月4日公開)
欧米で既に議論を呼んでいる本書を、落合陽一が邦訳に先立って徹底批評。「東洋的発想」がいずれ世界を席巻すると断言する落合が、話題の未邦訳本から読み解く”日本の勝ち筋”とは?(後編は3月4日公開)
はじめに断っておくと、僕は歴史家であるユヴァル・ハラリという著者が好きです。前著「サピエンス全史」は一気に楽しく通読しましたし、その続編で歴史から未来へとベクトルを急転換させた「Homo Deus」の刊行も楽しみで仕方ありませんでした。
読み終えた率直な感想は、「西洋的個人主義の更新の必要性を感じる一冊」というものです。批評性を持って読むと我々と西洋的個人主義の差を認識することのできる良著です。
「Homo Deus」の大筋は下記のような内容になっています。
飢饉・疫病・戦争を克服したあと、人類に残る課題とはなにか。ハラリは大きく「不死の獲得」と「幸福の再定義」をアジェンダに設定します。
永続的な幸福を得るためには、人間のリエンジニアリングが必要になる。そして、人間性がハックされれば、権力は個人主義からネットワーク化されたアルゴリズムへ移行していく。バイオテクノロジーとコンピューター・アルゴリズムによって、私たちはより力強い虚構や完全な宗教を創造する。不死と幸福の獲得により、ホモ・サピエンス(ヒト)はホモ・デウス(神)へ変身していく。
「個人主義からネットワーク化されたアルゴリズムへの移行」──。ハラリが思い描く未来の方向には、おおよそ同意します。人類とテクノロジーの関係を考察すれば、そうした方向に向かうのは当然ともいえるかもしれません。
「人間性をハックせよ」や「私たちは発達したチンパンジーから、大きくなった蟻になるかもしれない」といったハラリの主張は、僕が口癖で普段からツイッターでいうような「人間性を捧げよ」や「インターネット蟻」とほぼ同じことを言っているのです。
同じ未来像を共有しているにもかかわらず、僕と彼の思想はその結論で決定的に異なります。前著「サピエンス全史」を継承する形で、ハラリは大多数の集合的な協働能力が人類と他の生物を分かつと主張しています。
だとすれば、ネットワーク化されたアルゴリズムが僕らの認知的な限界を突破したとき、導かれるべきは「ネイチャー(僕はよく”計算機自然”と表現します)になるはずでしょう。それにもかかわらず、ハラリが結論として導出するのは「超人(Homo Deus=神の人)」なのです。
このズレに気づいたとき、「あ、この感覚の差は思ったより大きいし、これから東洋的感覚を持ち合わせたアジア諸国の行く末は明るい」と改めて思いました。今回の記事では、「Homo Deus」で展開するハラリの主張をたどりながら、なぜ僕が日本の未来に希望を見出したのかを詳述していきます。
キーワードとなるのは、ずばり「東洋」です。
「Homo Deus」の随所随所にその欲求が見え隠れするように、こういったコンピューターテクノロジーによったエコシステムやビオトープを考えたときに、西洋的思想の持つ厳格性やキリスト教的一神教価値観は自然と調和をモチーフにする東洋思想よりも齟齬が出やすい。でも、それを認めてテクノロジーにまつわる思想をアップデートして進んで行くことは、文化的な意味でも、政治的な意味でも、民間の意識的な意味でも難しい。
そもそも宗教的な意味でも、文化的な意味でも、西洋的価値観が強烈に埋め込まれた社会に彼らは生まれ育っていますし、例えばそのコミュニティの中で東洋的な、一は全、全は一のような考え方など、仏教的哲学観や老荘的哲学観などの態度を示すことで、「ヒッピーだね」とか「オリエンタリズムだね」とカテゴライズとレッテルによって唾棄されることを嫌うからです。
僕ら日本人はそうした恐れを抱くことなく、堂々と東洋的価値観と向き合うことができます。むしろ東洋的価値観への自覚を取り戻すことが、我々のような研究者、起業家、ビジネスパーソン、そして学生にとって今後大きなアドバンテージになっていくでしょう。それは、テクノロジー親和性が高い考え方だからです。
では、なぜこのように考えることができるのか。「Homo Deus」を批評的にかつ、ポジティブに読み解きながら、語っていきたいと思います。
超一人称と三人称の違い
「Homo Deus」のなかには、ハラリの主張を明瞭に表すこんな主張があります。
「21世紀のテクノロジーは外部アルゴリズムが人間性をハックし、自分以上に(アルゴリズムが)自分を遥かに知るようになることを可能にするだろう。そうなれば、個人主義への信仰は崩れ、権力は個体的な人間からネットワーク化されたアルゴリズムへと移行する」(twenty-first century technology may enable external algorithms to hack humanity and know me far better than I know myself. Once this happens the belief in individualism will collapse and authority will shift from individual humans to networked algorithms.)
確かに、個人が計算機ネットワークによって接続された集団や統計的学習プロセスをもたらすような機械学習のアルゴリズムに超克されれば、我々の文化がもつ(例えば松尾芭蕉の俳句で詠われるような)「三人称視点の自然」しか残存しないはず。いわば個別の人格は「テクノロジーと人間の掛け算で定義される新しい自然」に溶け出していく。僕はこうした未来像を「デジタルネイチャー」と呼称しています。
ハラリ自身、本の随所で三人称を志向しつつも、結論部では一人称「ホモ・デウス」に固執しています。どうしても、西洋観の一本筋を通そうとする葛藤が見え隠れするのです。これを見ていると歯がゆくもあり、逆に言うとよくぞまとめたとも言いたくもなる。その過程を読み込むことは違ったコンテクストで生きる我々には非常に面白く感じるはずです。
他にも、西洋的価値観に基づいて論拠を固めようとする姿勢は、下記のような記述にもみてとれます。
「芸術性や政治的コミットメント、宗教心の多くの部分は死への怖れに起因する」(A large part of our artistic creativity, our political commitment and our religious piety is fuelled by the fear of death.)
普遍的な語り口で述べられるこの箇所に関しても、コンテクストとして東洋を生きる僕は違和感を覚えます。一神教に依拠しない東洋人にとって、宗教やコミットメントは「死への怖れ」ではなく「然」に由来するからです。もちろん、日本人が戦後培ってきた拝金的現世主義は死への怖れから生じる面も大きいと感じますが、それはおそらく社会制度を個人化する過程で同様に生まれた考え方なのかもしれないと再認識することもできました。
しかしながら本来、「老子」のなかで理想として説かれる「無為自然」が分かりやすい代表的な思想の例といえるでしょう。東洋的思想に立脚したとき、コミットメントが死や契約に結びつくことへの論述がない限り、全体批評性を持った論が成り立たない西洋は堅苦しく思えてなりません。
前提となる論点として抑えておきたいのは、「Homo Deus」が”三人称になりたがっている超一人称の本”であるということです。その葛藤がいろいろなところに出てくることが非常に興味深い。
「手に入れないと、気が済まない」という病
「幸福と不死の追求により、人類は自らを神へと変えようとしている」(In seeking bliss and immortality humans are in fact trying to upgrade themselves into gods.)
「私たちの生涯で不死が獲得されずとも、死を乗り越える戦争は次世代の主題となるだろう」(even if we dont achieve immortality in our lifetime, the war against death is still likely to be the flagship project of the coming century.)
本著を通じ、ハラリは一貫して「幸福」と「不死」の獲得を主題に据え続けます。このアジェンダ・セッティングにも、本著が”超一人称”な本であることが見え隠れしているといえます。つまり西洋的個人主義からみた超一人称が神を目指すという方向性を与えているわけです。
「(不死と並んで)21世紀の人類にとって最重要になるプロジェクトは幸福を確保することであり、それは人間のリエンジニアリングを喚起する」(it seems that the second great project of the twenty-first century - to ensure global happiness - will invoke re-engineering Homo sapiens so that it can enjoy everlasting pleasure.)
僕たち東洋人はそもそも「幸福」といった考え方をしておらず、元来「自然」な状態を求めていました。「happy(幸福)」よりも「comfortable(快適)」です。快適であるためには、心技体が一致している必要があります。価値観として幸福と言われる状態にいる人でもこの社会や自分自身に対して不快な状態にあると感じている人がいるのはそのためでしょう。
より分かりやすい例として、近年アメリカを中心に流行している「マインドフルネス」が挙げられます。「イマ・ココ」における内面的・外面的な経験に注意を向けることそのものが瞑想であるべきにもかかわらず、心理的に獲得したい成果や効果を求める時点でそれはマインドフルネスではありません。
内面的な自然と一体化して無目的な平穏を求めようとすることを目的とする……この大いなる矛盾は、死と幸福の概念でパラダイム設定を試みるハラリの議論にも通底しているのです。この矛盾に向かい合いながら西洋個人の更新を目指す論は力技を感じますし、ハラリにしか書けないのかもしれません。
そういった意味では、難病を治癒することも寿命を最大化することも、それがテクノロジーによって我々全体が手にできる状態として一般化したあかつきには「個人のエンパワー」という機軸では語られなくなります。「整形手術をするのは当たり前」や「車を持っているのは当たり前」といった話は、社会的インフラの議論にたどり着きどこまでいっても東洋の自然を出ません。
確実に歩みを進める歴史のなかで、過去に克服したであろう障害を僕たちは容易に忘却します。「みんなは」とか「普通は」などといった言い回しを会話のなかで日常的に使う僕たちは、一人称のコンテクストよりも全体の議論に流れがちです。例えば、メガネができるまで近視は重大な身体欠損でしたが、今はそんなことを気にする人はいません。それが、個人のオーグメンテーションか? という問いを立てることは稀なのではないでしょうか。
言い換えれば、私たち東洋人は一人称と三人称を常に行き来します。東洋人が「芸術」を理解できないのは、一人称からなる、その個人の到達点と個人が歴史や文化との間に育むコンテクストを理解しにくいことの裏返しかもしれません。その観点をこの本を通じて得ることで、我々の持っているコンテクストと西洋コンテクストの間にあるギャップへの理解が進むかもしれません。(後編は3月4日公開)