石破 茂 です。
予算委員会中、質問もせずにただ聴いているのはかなり辛い作業ではあります。うっかり少しでもうつむいている時があると、そこだけ大写しにされてしまい、まるでずっと寝ているかのように思われてしまいます。気を付けてはいるつもりなのですが、見苦しいところをお見せしたこともあったかと思います。どうかご容赦くださいませ。
予算委員会後半は裁量労働制を巡る議論が延々と続いたのですが、結局その対象の拡大は見送られることとなりました。本来比較すべきではないデーターを比較したこと、その数字のとり方が杜撰であったことが見送りの理由であり、これを用いるに至った経緯はいまだ不明であるものの、見送りは当然というべきでしょう。
どのような職に就く、どのような人が裁量労働制のメリットを受け、所得が維持されたままで、生じた余暇を有効に使えるようになるのか。逆にどのような人は残業代も支払われないままに長時間労働を強いられるようになってしまうのか。その裁量は誰が行ない、労使間の合意はどのように行われるのか。労働者に対する健康確保措置は任意なのか、そうではないのか。それはどのようになされるのか。裁量労働制の趣旨に反した労働形態があった場合、どのように是正されるのか、実効性はいかに確保されるか等々が明らかにされるべく、今後、濃密な議論を行い、成案を得なくてはなりません。
労働政策審議会が「おおむね妥当」と答申したのは「すべて妥当」とは異なるのであり、労働側の反対意見を敢えて看過するような印象を与えてしまったことも残念なことでした。
問題の核心は、産業の構造が激変する中にあって雇用にミスマッチが生じ、終身雇用や年功序列という従来の雇用形態が維持不可能になったことにあります。
製造業からサービス業へ、若年層から高齢者層へ、男性から女性へ、正規から非正規へと雇用がシフトし、シフトした人々の賃金が低いために有効求人倍率が高くても賃金が上がらないという状況が生じている中にあって、雇用の健全な流動化は必須ですが、それには労働者のスキルを向上させるための施策とセーフティネットの整備が不可欠です。それなくして労働者の過剰労働だけが増え、多くの人々の賃金が抑制されてしまう結果を生じさせるのであれば、政策として不適切と言わざるを得ません。
議論の最中どうにも気になったのは「者」を「シャ」と発音して質問や答弁がなされていたことでした。これは政界や官界ではよくある言い方なのですが、一般にはあまり用いられておらず、何のことか最初はわからなかった方も多かったのではないでしょうか。私もこの世界に入った当初、強い違和感を覚えたものでした。「モノ」と発音すれば「物」と区別がつかないし、見下したような響きもあるのでそのようにしてきたのでしょうが、「人」(ヒト)でも構わないように思います。永田町や霞が関でのみ通用する用語や論理を多用することの危険性を今更ながらに強く感じています。
若手の中には、冒頭「今日はご質問(『ご』は要らない!)の機会を頂き有り難うございます」と述べて質問を始める議員も多く見られます。礼儀正しいのか、謙譲の美徳なのかわかりませんが、質問するのは有権者から与えられた議員の権利なのであって、委員会の場においては誰にお礼を言う筋合いでもありません。こんなことに違和感を覚えるのはこちらが齢を重ねたせいかもしれませんが。
今週も憲法改正推進本部において第9条に関する議論が行われました。私の考えは今週当欄に記したとおりですが、今回の議論においても正面から反対する論は一切聞かれず、「それは国民に理解されない」「公明党の賛同は得られず国会の三分の二の賛成による発議も不可能になる」という意見が多く述べられました。
しかし、よく考えてみてください。ことは我が国の独立と平和、国民の生命と身体などの安全をいかに守るかに関わることなのです。法的な正当性・整合性と共に、侵略を排除する力についての議論がなされなくてはいったい何のための憲法議論なのでしょうか。
我が国が決して侵略国家とならず、平和主義に徹することは第一項に明確に記すべきです(その意味で、憲法第9条第1項には日本国民のその意思を明確に書き込むべきだと思いますし、国際紛争の主体である「国またはそれに準ずる組織」ではないためにその対象とならないテロリストやテロ組織にも対応できるような改正が本来は必要です)。
しかし、我が国が急迫不正の武力攻撃を受け、それに自衛権によって対応する際に行使する、国際法で明確に認められた「交戦権」をなぜ制約しなくてはならないのか、それによって我が国の抑止力が減殺されることに何のメリットがあるのか、私にはまったく理解ができません。それが明白に侵略であっても、相手国には交戦権が全面的に認められるのです。我が国の権限を制限することに腐心するあまり、我が国が侵略された場合のことを考えてないとすれば、それは想像力の欠如ではないのでしょうか。「交戦権」を単に「戦争ができる権利」と思い込んで議論しているとすれば、これは根本から誤っています。
日本政府もそのことはわかっていて「戦時国際法上、自衛隊の行なう行為について国際法は無縁ではなく、自衛隊は交戦国としての待遇を受けるし義務も果たさねばならない」「国際法から見れば自衛隊は普通の交戦国と似たようなことを国内でやるのだが、非常に制約を受けており、これを交戦権と呼ぶことは誤解を招くので『自衛行動権』と称している」と整理しています(昭和53年8月16日・衆議院内閣委員会真田法制局長官答弁)。
我が国は実は交戦権を保有し、行使もできるのだが、憲法で認められていないので「自衛行動権」と称している、と言っているのですが、それは世界第八位の防衛費で自衛隊を保持しながら「あれは戦力ではない」というのと同様、詭弁以外の何物でもないように思われます。
政府の辛い立場は痛いほどわかりますし、私自身、有事法制における海上輸送規制法審議の際に「これは交戦権ではない」と苦しい答弁を繰り返したことをよく覚えています。単に自衛隊を憲法に書き込むだけなのであり、他は何も変わらないのだとする立場では、このような矛盾や弊害がそのまま維持されることになってしまいます。