急死のインド女優シュリデビさん追悼にムンバイ大混雑
インド映画界ボリウッドの大スターで「シュリデビ」として知られるシュリデビ・カプールさんの葬儀が2月28日、インドの都市ムンバイで行われ、最後のお別れを告げに数千人のファンが集まった。シュリデビさんは2月24日、ドバイのホテルで浴槽で溺れて急死した。54歳だった。
28日にはバラの花を手にした多くのファンが、火葬を前にシュリデビさんに別れを告げようと、遺体が安置されたムンバイのセレブレーション・スポーツ・クラブの外に列を作った。
特別に装飾されたトラックは、シュリデビさんの亡きがらを乗せ、墓地までの7キロをゆっくり数時間かけて移動した。葬儀は国葬で、国の要人が大勢参列した。
アラブ首長国連邦(UAE)の警察は死因について、「意識を失った後、溺死した事故」と説明している。シュリデビさんは親類の結婚式参列のためにドバイを訪れており、宿泊先ホテルの浴槽で遺体となって発見された。
当初は死因は心不全と伝えられていた。詳細な検死調書はまだ発表されていない。
シュリデビさんは男性俳優の主演がなくても作品を大ヒットさせられる、非常に数少ないインド女優のスーパースターと考えられていた。50年以上にわたり300本近い映画に出演した。
ボリウッドの本場ムンバイ・アンデリウェスト地区にあるスポーツクラブには、ボリウッド映画界や南インド映画界のスター俳優たちも集まった。
「訃報を聞いて以来、一目見ようとシュリデビさんの自宅前に毎日2〜3時間立っていた」と女優の卵バージラティさんが、BBCマラーティーのアブヒジート・カンブル記者に話した。シュリデビさんの影響で、ボリウッド挑戦を決意したという。
子供のころからシュリデビさんのファンだったというラジャン・ナイドゥさんは、娘の名前をシュリデビさんにちなんで付けたほどの熱心なファン。シュリデビさんの最後の映画「マダム・イン・ニューヨーク」が2012年に公開された当時、ムンバイの映画館1軒をまるまる借り切ったという。
ファンのカルパナベン・コデカルさんは、シュリデビさんを「最後にもう1度だけ」見るために隣のグジャラート州からはるばる駆けつけたと話した。
「有名人だけでなく私たちも中に入れてくれて、本当に感謝している。シュリデビさんの旅立ちによる喪失感を、私たちはずっと抱き続けると思う」とコデカルさんは加えた。
シュリデビさんの自宅前や葬列の道筋、そしてシュリデビさんの遺体が運ばれたバイル・パール・セバ・サマジ火葬場には大勢の警察官が配置された。
BBCニュース・ムンバイのサミール・ハシミ記者によると、シュリデビさんの棺が「かたつむりのような速度」で火葬場に運ばれる間、ムンバイの道路は「完全なカオス状態」だった。警察が道路の片側車線を封鎖し、周囲の交通は完全に停止したという。
「混沌とした中、空気には目に見えて悲しみが漂っていた。そしてファンの人たちは、大女優を最後に一目見ようと必死だった。道路沿いには人々が群がり、頭上の橋には人だかりができた」と、ハシミ記者は現地から伝えた。
「弔問のために並んでいた人たちは、葬列が近づくと、遺体を見ようと一気に前に出た。警察が参列者を制止しなければならないほどだった」
大人気の理由は
シュリデビさんの映画人生は、わずか4歳で始まった。南インド映画界でキャリアをスタートし、現地の四大言語全ての映画に出演した。
初めて大人の役に配役されたのは、13歳の時だった。殺された恋人の敵を討つ女性の役だった。
ヒンディー映画業界の言葉も文化も知らなかったが、1978年までにはボリウッドで活躍し始め、やがてボリウッド最大級のスターへと上り詰めた。
「Mr India」、「Chandni」、「ChaalBaaz」、「Sadma」などの名作に出演し、南インドとボリウッド映画のいずれでも成功を収めた数少ない女優となった。
シュリデビさんの出演料は同僚たちの間では最高額と噂され、スターとしての力やカリスマは、何年も続いた。
プロデューサーのボニー・カプール氏との結婚、そして1997年の「JUDAAI(ジュダーイ)~欲望の代償~」の公開を機に、いったん映画界を退いたが、2012年に「マダム・イン・ニューヨーク」主演で復帰した。
インド政府は2013年、シュリデビさんにインドで4番目に高い民間人栄誉賞「パドマ・シュリ賞」を授与した。
(英語記事 Sridevi Kapoor: India crowds say goodbye to Bollywood star)