「怨嫉(おんしつ)」という言葉があります。一般でも使いますけど、学会では「同志怨嫉」と言う言葉で主に使用されます。「学会員に対して不満を持ち続ける状態」の事です。
同志怨嫉はかなり厄介な問題で、こじれると「退転」の問題にまで発展する事もあります。と言うか、退転者の大半がこの「怨嫉」を基にしたものだと言い切る事も出来るかもしれません。
切っ掛けは小さな事柄なんでしょう。でも、放って置くと収拾がつかなくなってくる可能性も出てきます。誰に何を言われたとか、何をやったとか、また、幹部からこんな事を言われた、更には彼(彼女)が幹部になって自分は…。そして最終的には、池田がこんな事を言ったり、したりしている…。ここまで来ると退転はもう間近で、後はネットの中傷記事を読んで「覚醒」をするだけとなります。
最終退転迄は兎も角として、途中過程までは学会員なら誰もが大なり小なりの経験はある事だとだろうと思います。(一般の社会でも同じでしょう)人を羨(うらや)んだり、妬(ねた)んだりする事は人間の本源的なもののようです。いくら知識として駄目なんだと「知っていた」としても、さていざ当事者として自分自身が渦中に入りこんでしまうと、そんな「教学」など何処かにすっ飛んでしまい、結局頭を真っ白にしながら右往左往するのが関の山です。
「茫然自失」とは、何も考える事が出来ないと言う状態の事を言います。
私は題目に関しては誰にも負けないつもりの人でした。
ある座談会で題目の話をしました。(50時間唱題の話)でも、次の人が何を思ったのか「題目を上げる事は重要では無い云々」の話をしたのです。それも結構な幹部が。そしてそのまま何事も無く会合が終わりました。
当然の事、茫然自失となってしまいました。 「あの幹部の話って、一体なんだったんだろう…?!」 妻もその会合には出ていて、当然私と同じ感想を持ちました。
半年ぐらいその事で悩みました。題目を中心とした教団の幹部が、何故「題目は重要では無い」と話すのだろう?誰でも考える事ですよね。
当然の事、幹部指導も受けました。らちがあきません。で、一時は本気の退転も考えたくらいです。
何とか踏みとどまったのは、妻のお陰です…。そう言う意味でも(まあ、他の数ある意味でも)妻には頭は上がりませんね。
上記の話を読むとその幹部を恨んでも仕方ないと、当然思えるはずです。学会の幹部にそんな事を言われて、どうしてそんな学会に残るのか。しかも、私は別の座談会でも日取りは違いますけど、同じ話を聞いた事があります。学会とは何と恐ろしい組織なんでしょう、と。
当然の感想です。
でも…こんな感じで三障四魔は「粉然」と出てくるのです。「紛然」とは「(自他共に)そう思って当たり前だな」と思える状況を言います。
問題はそこでどう考えるか、どうするか、です。決して簡単に退転の方向に向かわない事です。必死で考えるべきです。上の上の幹部指導を受けるべきです。題目を本気であげ切るべきです。悩み抜いた末の「退転」なら良いとは言えないまでも、少なくとも自分に対しては正直でいられます。
怨嫉で退転した人の気持ちは、個人的には非常に理解は出来ます。理解出来るとしても、でも退転をしてしまったらそれで終わりです。理由がどうであろうともです。
『仏法を究める人は爪上の土、退転する人は大地の土石のように多い』との言葉は、当にこの暗闇に飛び込まないようにとの大聖人からの注意書きなんでしょう。 また、先生がしつこくスピーチしています。
「教学は大事だよ。しっかり学んでいくべきです」
これは仏法の大事な言葉を、本気で腹の底に突っ込んでいないと、簡単に読み飛ばしてしまいそうな簡易過ぎる文章です。でもこの簡単な言葉に無限の意味が込められています。
先生はその事を鬱陶(うっとう)しいぐらいに話し続けています。
信心で腹の据わった人はどんな事が起ころうとも微動だにする事はないはずです。「…そうか、そうか」と言って、平然と御本尊に向かう事が出来るのでしょう。
…言葉で言う事は簡単です。過去学会本部から退転していった人達も、教学的にも信心的にも一流の人々が多かったのにも関わらず、結局学会から離れてしまった事実を見ると、やはり「三障四魔」と言う抵抗力は恐ろしい力を持っていると言わざるを得ません。
頭だけで、また理屈だけで対処出来るような、そんなチンピラでは無いようです。
大聖人の仏法理論を遊び半分で色々騒ぎ立てている人々も、ご存じの通り土石流の如く存在しています。また、学会に対して無責任極まりない中傷を面白半分に掻き立てている人々や組織もあります。
彼等の理由は色々でしょう。しかし、その人達って学会から離れても、兎に角学会の事が気になって仕方ないようです。自分達が感情論(怨嫉)で退転したと言うその後ろめたさからくる気持ちなんですね。その後ろ髪引かれる心残りを、ブログで愚癡っているようです。
でも、彼等は一生その怨念(おんねん)に苛(さいな)まれ続けていくのでしょう(その状態を称して無間地獄?)。
そんな誤魔化しの人生って、一体楽しいのかどうか…。
伊達(だて)や酔狂(すいきょう)で「学会から離れては駄目だよ」と、先生が話されている分けではありません。それを心の中に入れ込む闘いが大事になってくるんでしょうね…。
第三者とのコミュニケーションをしていると時々の
意見の違いによって腹が立つ事もあるかとおもいます。
それ自体は問題ないでしょうけれども、「嫌な思いをした」という
気持ちを引きずりつづけることで「怨嫉」が生まれるように思います。
仮に、学会をやめた、または活動をしなくなったことで「幸せ」になった
のなら、過ぎた事を愚痴る必要はないでしょう。
ところが、アンチさんだけでなく一部の自称学会活動家でも
学会の組織や、読者がしりえない地元の幹部を批判の俎上にあげて
ブログの記事にされたりします。
はたしてそういう行為が「宗教の正当性」や「幸福」を証明する事
になっているのか、甚だ疑問ですよね。
あべひさんへ
内輪の感情劇もブログの記事にされていると言う話も、案外あり得る事だと思います。
でも、人間の感情としてそれもあるとしても、感情論のみのブログとなるとそこはもう信心を中心とした場所としては、かなり厳しい状態になるかも知れません。
管理者としてそこのラインは守るべきものなんでしょうね。
油断せずに私もしっかりした物を書いていきたいと考えています。
>管理者としてそこのラインは守るべきもの・・
感情論というと「感情があってはいけないのか」という反論をされる場合も
あるかとおもいます。
たとえば、「この人を助けたい」とか「精進してほしい」いうのも立派な
個人的感情ですよね。
大事なのは、他と関わって抱いたいろいろな感情を 自己保身
(自己の正当性の照明)のために使わないということではないかと
思います。
武術をされているmonlingenさんなら、まず自分の心を律するという
感覚をおもちではないかとおもいます。
前記事のコメントでは「傲慢」だと厳しい表現をしてしまい気分を
悪くされたかもしれませんが、拙は自分に自信があることと、他人が
劣っているように見えるという感情は、ほぼ表裏一体なのだとおもいます。
アンチさんの記事を読んで所感を書いてみたい・・というこのブログ開設
当初の目的は、そのほかの「アンチさんのブログは見ない見せない話題にしない」
という少々腰の引けた方々よりも、彼等の内心を探りつつも自分の信心を
省みてみるという点で、優れているように思います。
ただ、「他者を論評する」というのは、前述したような傲慢の感情と、自身との
戦いとなります。
もし、アンチさんや組織活動を軽視する学会員さんの“耳あたりのよい正論”の
言にほだされて、ネットにおられないリアルの方々の論評を軽々にされるので
あれば、多くの「元バリ活」を自称するアンチさん同様、そこに信心などないと
拙はおもいます。。
もし、拙が「傲慢」だとおっしゃるのなら是非遠慮なく指摘してください。
できれば、そうおもわれた理由も明記していただきたいです。
拙もmonlingenさんの記事で「?」と感じたところは、聞き直したり
させてもらっています。
これこそが「対話」の秘訣ではないでしょうか(笑)
あべひさんへ
自信と言う事を私の考えを述べてみます。
「自分に自信がある」と言う事と「傲慢」は、次元が全く違うと思っています。
傲慢は、自信の無さからきます。逆に優しさは、自信の強さから出てきます。
私はヤクザのチンピラを相手にした事があります。チンピラは当にチンピラの如くに傲慢で、尚且つ気弱でした。これは自信のなさから来るものです。本気で自分に自信がある人は、どっしりとしています。
アンチのブログでの怒鳴り合いは、彼等の自信の無さから出ています。自分に自信がないので、他人の話を一切聞きません。相手が何を云っているのか、自分自身が何をやっているのかさえ全く理解出来ていない人々です。これを傲慢と呼びます。
池田先生は世界中の人々と対話をされています。自信の無い人にそんな行動が出来るかどうか?
「傲慢」の定義がそれぞれ違っていたような気もします。でも、それでいいのではないでしょうか。同じ考えから「対話」は生まれそうにありません。
感情の話をすると、私は「感情」対「感情」は何処まで行っても感情論でしかないと言いたかったのです。日本対韓国、日本対中国それぞれの世論が当にそれです。どちらかが感情を排した理論の話をしていかないと駄目です。どちらが本当の大人になるか、なんでしょうね。
感情は大事です。そこから様々な思いが出てきますから。でも、一歩引いたやり方も必要だと思っています。
「対話」の要点はここにありそうです。
理性の入り込まない対話は、まともな対話にはなりそうもありません。
こんにちは
退会の殆どは嫌いな学会員がいると言うことだと思います。
アンチ創価の完全撲滅を活動の主目的としてるブログ主の方々とトラブルになりました。
アンチ創価の方は創価時代は大変に折伏人数も多い方が殆どで早い話が馬鹿らしいから退会したわけです。
どう考えてみても反逆者とか増上慢と言うのはあまりに気の毒で、組織の対応に問題が有りました。
法華講と法論や対立してほしくないのです。
法華講をあおってほしくありません。
打算的ですが、法華講も投票権有りますし
学会活動と言うより嫌いな人間の悪口だけを言ってるにすぎません。
俺に意見をするなら学会員だと言う事を証明しろと極悪ブログさんから言われました。
自分の気にくわない事を言う人には証明を求めると言うので、私が友達のメンバーに送ってる文章を3回送りましたが、それでもなお学会員で有ることを証明して下さいとコメントが合ったので、成り済まし学会員で良いです。
リアルでもこうなることは目に見えているので、座談会に参加しないメンバーを集めてグループを作ってます。
生きてるのが嫌と言う人を折伏して私のグループに入ってもらいます。
Miuさんへ
現実とブログの中でとても苦労されている事が理解出来る話と、受け止めました。
「アンチ学会完全撲滅」と言うブログもあるんですね。何ともご苦労様としか言いようのない活動をされていますね…。個人的な感覚で話すと、その活動は世の中から埃(ほこり)を全て無くそうとする様な、そんな無駄骨の話しに聞こえます。
アンチ連は昔も今も、そしてこれからも無数に出てきます。これは間違いない事です。アンチの消滅は、自分の煩悩を全て消し去ろうとする事と同じで、全く意味のない活動と言えます。
アンチを攻撃するのは、自分にとっては「破折」と言う事では無く、アンチの粗(あら)を探す事によって、学会の問題点を浮き彫りにしようと努力しているのです。アンチは私にとっては「自分の信心を写す鏡」です。様々なものがアンチを調べる事によって見えてくるのです。今まで記事にした殆(ほとん)どは、アンチから教えて貰った事なのです。私にとってアンチは「善知識」との存在です。
法華講を煽(あお)っている方も居る事は知っています。でも、法華講員も煽られて楽しんでいるようでもある様にも感じます。お互い様的な世界でもありそうです…。
私は、ブログも現実の活動もどちらも在りだという考えです。足の置き方がどうであろうと、信仰活動としては同じものだと思っています。
でも信心活動であるならば決して避けては通れないものがあります。
「題目」
これを中心にしていかないと、結局全て空回り、下手をすると思わない方向に行ってしまう可能性が出てきます。
陰ながらですけど、お題目を送っています。
毎回真摯な返答ありがとうございます。
また貴重な時間をとらせて申し訳ないです。
—
>傲慢は、自信の無さからきます。逆に優しさは、自信の強さから出てきます。
なるほど。
そういった場合もあるかとおもいます。
拙が「自分に自信があることと、他人が劣っているように見えるという感情は、ほぼ表裏一体」書いたのは、アンチさんをイメージして表現してみました。
チンピラさんの例はわかりやすかったです。
どこか自分に自信が持てないから「他者の権威を借りて」傲慢になる・・という場合もあるでしょう。
チンピラさんの場合なら「代紋の権威」と申しましょうか。
たとえば、退転者が自分の信心の未熟を棚にあげて「幹部」や「組織」のせいに
したいのだが、個人的な感情論になってしまうことがよりあきらかになって
しまいますよね。
それでは単なるヘタレなので「750年の清流」とやらを自称する日顕宗の化義に
相乗りしたり、門徒になることで「御本尊」や「池田大作」がおかしいのだ
という結論を導き出しやすくなります。
たしかにmonlingenさんがおっしゃるように、本来自分自身の生き様に自信がある強い人間なら、「弱い他者」に対して優しくなれるでしょう。
拙がそのように表現せず「表裏一体だ」としたのは、チンピラさんの場合同様
なにがしかの権威に依ったゆがんだ自信・・つまり虎の威を借る狐のような状態
であったり、特定のアンチさんのように学会やめてもなにも起こらなかったというような、自分にさしあたっての損失のあるなしで正邪の判断をしたという愚かな
自信であっても「自信」には違いないということが言いたかったのです。
あべひさんへ
強さ弱さの話は兎も角、自分の失態を退転者連が組織や幹部のせいにして、結局「感情論」でしかものを見れなくなってくると言う流れは、やはり彼等自身にとっても無意識な辛さが感じられているような、そんな気もしています。宗門に頼った場合余計にそれが見えなくなってくるので、精神的な「狂い」に迄進展して行きそうな気がしています。
自分の状況が見えないから余計に怖いですね。
カエルは水から煮ていくと、自分が死んで行くのが分からないらしいと言う話があります。地獄に落ちていると言う事は、自分が認識出来ない状態を言うのかも知れませんね…。
monlingenさんとの対話はともかく、前回、今回の記事で
「ちよ」さん自身と、そのお仲間さんと関わったというmiuさんが
接触をもってきたというのが非常に興味深いことだとおもいます。
実はmiuさんはまだよく存じ上げないのですが、片足を創価学会
におきながらも、ネットで「私のグループ」をつくってネットで募集活動
されているかただとお見受けしました。
じつは「ちよ」さんも同じタイプのかたです。
良くも悪くも、お互いがどこの誰だかわからない状態で星の数ほどある
ブログの中から特定のブログを選んで「人」があつまってこられる
というのは、発言者に対しシンパシーを感じる部分があるということ
であるとおもいます。
また、同じような傾向性があるからこそ、より影響を受けやすいとも
いえるでしょう。
monlingenさん自身、ブログ開設当初の頃からと色合いが変わっているているという趣旨で発言されていたようですがこれから、どんなかたと交流しどういった形に
ブログが変わっていくのか、ちょっと目が離せなくなってきました。
個人的には最近イラストがはいらなくなったなぁ・・とおもっています。
これも拙のようなコメンターへの返答に時間を割いてしまっているから
かもしれませんね(笑)
あべひさんへ
「桜梅桃李」や「三者三様」の世界観がブログで展開されるのを見る事は、結構楽しいと思っています。それによって自分自身の勉強になる事はもっと興味深い話しです。更にそれを元に記事が書けそうですからね…。
絵に関しては、これは「学会ブログ」として全体的にシンプルにしたかったのです。余計な挿入画は必要ないと判断して、こんな感じにしました。絵と信仰はジャンルが余りにも違い過ぎますからね。
現時点ではかなりすっきりして読みやすくなった気が、自分ではしています。
でも、また変わる可能性も残してはいます。
初めまして、面白い記事がありましたのでコメントします。
>ある座談会で題目の話をしました。(50時間唱題の話)でも、次の人が何を思ったのか「題目を上げる事は重要では無い云々」の話をしたのです
嫉妬というのは怖いものです。
恐らく、この話を持ち出したのは自分ではほとんど題目を挙げていない人ですね。
自分も経験しましたが、諸事情により中々題目が挙がっていない時に、何時間題目を挙げました、と宣言されると腹が立って仕方ない。
素直に称賛するより先に、自分はあいつよりも偉いという嫉妬心が湧き上がってくるのです。
でも、まあ時が経てばその題目が本物か偽物か出てくるもの。
何とかして叶えたい願いがあるのなら自然と教学やら折伏やらどんどん実践し、さらに部長、本部長へと上へ登っていく。
単に目立ちたいだけなら、一年もすればそういった発表がなくなり、眠ってしまいましたよ。
身の上話になりましたが、題目を挙げるというのは本当に厳しく、崇高なものです。
本物と偽物を見分け、上がるか下がるか、現状維持を許さない。
題目を挙げるたびに、その試練に晒されていると考えれば、外部の声など気にならなくなると思います。
余談ですが、私の中で教学というのは車で言うとハンドルの位置づけです。
今回の件も、教学が豊かなら『時の貫首(かんず)たりと雖(いえど)も仏法に相違して己義(こぎ)を構へば之(これ)を用(もち)ふべからざる事」(御書1885頁)が頭に浮かび、その幹部の言っていることが間違っていると判断できます。
匿名さんへ
こんにちは、有難うございます。
どんな組織にも「問題」は存在しています。何も問題もなく理想的な場所はあり得ません。
ウチの地区協議会、座談会等の中で「題目」の話がいつの間にか全く出なくなりました。これは致命的な「問題」だと私は思い、そして無理をして自分の唱題体験を妻と相談しながら、その時にしたのです。それが「50時間唱題」の体験のバックボーンになっています。
壮年部は唱題が非常に苦手です。勤行もしていない人も実際に居ます、幹部にも。十時間唱題を実際に出来ている人が幹部の中に「何人」居るかどうか…。
唱題の体験を話すのであればせいぜい頑張っても十数分唱題の話をすべきだったんでしょうけど、地区の雰囲気を変えるにはかなり思い切った事をしないと駄目だと思った結果でした。
一度固定された体制というものは中々変わりません。まあ、当然なんでしょうね。「変わる事」さえ大変な事、ましてや「変える事」は至難の業です。この時は幹部が「三障四魔」となったようです。どこからでも発生しますからね…。
魔を魔として認識すると言う事が一番大事な事なんですね。魔を別の何かと見てしまう処に、「退転者」系統の根本的なズレがあるようです。
なるほど、そのような過去がありましたか。
創価学会は題目根本ゆえ、そこを蔑ろにしてしまうとそれはもはや創価学会とはいえませんからね。
ただ、後の祭り感がありますが、50時間唱題を発表する前に、地区協議会で「題目の話題が上がっていないので、突破口としてこのような体験を発表したい」と事前に根回しすればこのような確執が起こらなかったのではと思います。
地区の中心者はその幹部なのですから、彼のメンツを潰す様な真似は、創価学会は立場よりも唱題や折伏を実践している者が偉いという暗黙の了解がある以上、控えた方が良かったかもしれません。
方法論はここまで。
実際問題としてその地区の中心者とどう接するかが大きなポイントになると思います。
友人になれるなら最高、そこまで気が合わなくとも気安く話せる仲でも良し。地区幹部は基本上からの押し付けと下からの突き上げの板挟みで相当苦しい立場なので、自らを助けてくれる者、新聞や折伏等成果を出す者を可愛がってくれます。
その地区幹部がどのような方なのか、私には分かりませんが、一学会員としては反目せず和解してくれることを切に望みます。
失礼しました。
匿名さんへ
「動執生疑」は、確かに難しい作業だと思います。かなりの学会での訓練、体験等を積んでいない人でないと、的確な時期に的確な話は出来得ないようでもあります。
根回しも確かに大事だったんだろうとは思います。座談会までにも少しずつではありますけど題目の事も協議会で話していました。でも、らちのあかない事しばしば…。まあ、結果はこちら側にモロに跳ね返ってきましたけど、これは「三障四魔」と考えれば、特に大騒ぎする問題でも無い訳です。(まあ、当時はかなりキツかったですがね。今思えばの話です)
変わらなくてもいいと思っています。自分が自分の考えで「何をやったか」ですからね。後は文字通り御本尊任せ…。まあ、適当と言えば言えそうかな?
自分達の「最終兵器」が結局の処「題目」なんだと腹の中に入れておけば、少々の「魔」が出ようとどうしようと何も気にする必要は無いと、そう信じています。
はじめまして。同士の怨嫉は怖いですね。私も以前に辞めたいと思ったことが何回かありまして、きっかけはやはり怨嫉でした。まだ信心も浅く、本当の信心の凄さもわかっていなかったと思います。
人間の集まりである以上、組織において嫌な思いや、納得のいかないことがあったり様々ありますね。でも怨嫉はたとえ相手に非があってもした方に罰が出るとの有名な指導がありますが、本当にその通りですね。
私はまだ信心が良くわかっていなかったこともあり、周りにきちんと話せる幹部もいなく、何故組織内でこんな嫌な思いをするのかと、悶々としていました。ネットを見ると同じ様な思いを感じている人達がいて共感しました。
正に愚痴の命が同じく愚痴の命に共感したのでしょう。
その後色々とありまして、ようやっと少しづつこの信仰の凄さが信心の凄さがわかって来ました。やはりこの信心は全てが自分である。と。
ネット上には本当に人を正しい信心の軌道から外れさせて最終的には退転に向かわせてしまう魔が蔓延っていますね。
今思うのはどうか皆が謗法の網にかからずに地獄に落ちることのないように。1人でも多くの人が正しい信心で幸せの軌道に乗って欲しいと思います。
最終的には全てが自分自身。道を誤るということがどれ程恐ろしいかを知って欲しいです。
お題目は本当に凄いですね。今は何時間あげてもまだまだあげたいです。こんな凄い題目をあげないなんて勿体ないですよね。
またコメントさせてもらいますす
幸さんへ
同志怨嫉の本当の怖さは、自分自身の信心の破壊に留まらずに、組織そのものにその影響が広がってしまうと言うことです。自分が「我慢する」と言う事では無く、そこで、その時点で、自分自身の宿業を転嫁していく、と言う話になります。
幸さんの、当に言われるとおりの話の流れになる様です。
その時に「題目」を挙げきっていくことが出来るかどうか、それが信心なんでしょうね。
更に頑張って下さい。
今日の人間革命に(私は題目が大好きです)と言えるようになって下さいとありましたね。お題目本当に凄いです。
題目あげてなかったら死んでいたかもと思う程の事がありました。せっかく信心して題目あげないなんて勿体ない。こんなに凄い題目を手放してしまう人は可哀相です。
皆でお題目あげ抜いて広宣流布と世界の平和、目指して行きましょう(^o^)
あっ、激励ありがとうございます。ネットの世界でも仏がいっぱい出て来て欲しいですね。
なんか変な表現かな?
幸さんへ
凄く正直で、とてもいい言い方だと思いますよ。
「題目」って、本当に凄いけど、でも、挙げる事自体が大変ですよね。大聖人がそう仰っている訳ですから、本当にそう思います。その題目を、率先してあげていこうと決意されている幸さんは、当に広宣流布の先頭に立つ騎士です。
また、何か経験されましたら、報告下さい。