国際政治学者・三浦瑠麗氏の「スリーパーセル」発言で、工作員やスパイの存在や活動に注目が集まっている。いい機会なので、今回は戦中の「防諜」キャンペーンを振り返ってみたい。
防諜は「敵の諜報活動を防ぐ」という意味だが、当時のそれは「スパイに警戒せよ」や「秘密を漏らすな」にはじまり、次第により広い内容を指し示すようになった。
結論からいえば、戦中の防諜は、最終的に「真の日本人ならば不平不満をいわないはずだ。それともお前はスパイか?」と脅しつけ、国民に無限の服従を求めるマジックワードとなりはてたのである。
なぜ、防諜はそんなことばに変化してしまったのだろうか。
歴史は、1937年7月の日中戦争の勃発にさかのぼる。これを受けて、翌月「軍機保護法」が全面改正され(10月施行)、防諜が盛んに唱えられるようになった。
それまでの防諜は、おもに官憲が行うものだった。だが、総力戦の時代には、一般の国民も防諜に努めなければならないとされた。
というのも、「工場でなにを生産しているのか」「交通機関でなにを輸送しているのか」といった情報も、すべて戦争の帰趨に密接に関わってくると考えられたからである。
もっとも、この時点ではまだ防諜ということばが珍しかったため、一般国民に「スパイに警戒せよ」「秘密を漏らすな」と啓発することに重点がおかれた。
日本政府の広報誌『週報』では、防諜は「対諜防衛」または「諜者(スパイ)防止」の略称だと説明され、「全国民の一人一人が之に対する理解と認識を養ひ、官民協力の下に真に挙国一致の体制に於て外諜の防衛に当り、彼等[スパイ]をして暗躍蠢動の余地なからしむるに努めなければならない」とされている(内務省「時局と防諜」『週報』56号、1937年11月10日)。
ただし、いかにスパイに警戒するといっても、「外国人を見ればスパイと思へ」などと考えてはいけないとも釘が刺されている。当初の防諜キャンペーンは、まだ常識的で、比較的穏やかなものだった。