父親が本格的に衰え、介護が必要になった。
昨年は三度転倒し三回入院。最後の入院で、認知機能と運動機能の両方が一気に衰えた。
退院直後の父をみて愕然
退院直前には独力でトイレに行けるという報告を受けていたのだが、帰ってきた直後から一人では歩行もままならず、ほぼ全ての日常動作に介助が必要なことがわかり愕然とした。
先晩、「横になったまま3時間以上起き上がれなくて困っている」という母からの電話を受けて、自分は妻と一緒に実家に向かった。
少し脱水を起こしていた父を2人がかりで介助してトイレに連れて行き、ベッドに横たわらせるまでに要した時間はおよそ1時間。
父の様子をみた妻は、翌朝から子供を学校に行かせた後に実家に向かい、父に30分のストレッチとリハビリを行い、その後クリニックに来て仕事をするというルーティンを組んでくれた。
いつも思うことだが、このような時の妻の行動力には端倪すべからざるものがある。有り難いことである。
父に残された時間を考える
昨年は祖母を見送ったが、
80歳をとうに超えた父を見送る日は、そう遠くないことに気づかされた。あとどれぐらいの時間が残っているのだろう。1年ほどだろうか?
祖母を見送って1年も経たないのに次の介護が始まった母のストレスは、それはそれは凄まじいものである。
子としての自分がすべきことは、呪詛のような母の悲鳴を聞き、受けとめ、時には宥めることである。
主治医としての自分がすべきことは、余計な薬を省き、良いと思われる薬を少量だけ使い、自主訓練の仕方や食事の注意点を伝えることである。
子の立場と医者の立場を自在に使い分けるのは不可能だが、一つハッキリとしているのは、自分が話すことは母にとって「『医者』が言っていることではなく、ただの『息子』の言っていること」ということだ。
権威には従順だが、子の言うことには昔から耳を貸さないのが母の性格である。
父に厳しく言うことで、母は自身の介護ストレスを「その時点では」多少解消出来るのかもしれないが、父にとっては何も良いことはない。以前、そのことをやんわりと伝えたことはあったが、「だったら、お母さんが我慢すればいいんでしょ!」と憮然とした表情でいじけてしまったことがあった。
先日、父の通院リハビリ先で担当医から「ご主人を甘やかしてはダメですよ。ある程度厳しく言って、自覚を持ってもらうことが大事ですよ」と言われた母は相当嬉しかったのか、「専門の先生が言っていたよ、お父さんを甘やかしてはダメだって!」と電話をかけてきた。
これがどういう結果を招くのか、想像しただけで気持ちは暗くなる。
医者をしている息子の言うことよりも、医者である他人の言うことなら心に入る。その言葉が、自身の持つバイアスを高めてくれる内容だったら尚更嬉しいのだろう。
これは母の気質・性格なので、残念ながら変えようがない。そこには触れずに何か良い方法を模索するしかない。
母にとって全てが腑に落ちるのは父が旅立った後なのだろうかと思うと、いま親のために自分がしていることが虚しいことのように思えなくもない。しかし、やるべきことは、やらなくてはならない。
「その日」が来るまで、やり続けなくてはならない。そして、その日を迎えた後に来るであろう、新たな「その日」までまた、やり続けなくてはならない。
医者としては、これまでの知識と経験が。
子としては、これまでの親子関係が。
いずれも試される刻がきた。
前者にはいささか自信はあるものの、後者には残念ながら甚だ自信がなく、totalで考えると全く自信がない(苦笑)。
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