アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は 今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている [橘玲の世界投資見聞録]
2018年03月01日 21時00分 ザイ・オンライン
「愛国」とはなにかが気になって、マーサ・C・ヌスバウム他の『国を愛するということ』を読んだ。これは1990年代半ばにアメリカのアカデミズムで起きた「愛国」論争の記録で、本稿はその備忘録だと思ってほしい。
■愛国者ローティは非愛国的なサヨクに我慢ならなかった
論争の発端は、アメリカの高名な社会学者リチャード・セネットが、「全米人文科学協会」の「アメリカの多元主義とアイデンティティについての国民的対話」プロジェクトを『ニューヨーク・タイムズ』紙(1994年1月30日)ではげしく批判したことだ。プロジェクトの趣旨は、「テレビ中継される一連の「市民集会」を通じて、アメリカ国内のエスニックな分裂や対立を克服すべく国民共同体の紐帯やアメリカ人のアイデンティティについて確認しなおそうというもの」だったが、セネットはこれを「存在しなかったアメリカを回顧することに他ならない」と難詰した。「アメリカは、当初から富や宗教、言語の相違、奴隷容認州と奴隷反対州の対立によって断片化されていたのであり、南北戦争以後および近年、人々の間にある考え方や生活形態の多様性はますます増大している。そのような歴史と現状において「アメリカ的性格」や「国民的アイデンティティ」を要求することは、「紳士面したナショナリズム」を表明していることにほかならない」のだ(以上、辰巳伸知氏の「訳者解説」より)。
これに対してこちらも高名な哲学者のリチャード・ローティが、同じ『ニューヨーク・タイムズ』紙(1994年2月13日)に「非愛国的アカデミー」という反論を載せた。