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スナック花水木③

この日、私が出勤すると店の中はいつもと違う、ただならぬ雰囲気が漂っていた。

出入り口に一番近いテーブルに、アイちゃんと常連客のカワダさんが向かい合って座っている。

カワダさんが小声で一所懸命に何かを話しているのに、アイちゃんは下を向いたまま押し黙っている。

他の客は常連のキタノさんだけで、タエさんと雑談するふりをしながら、アイちゃん達の様子を伺っていた。

私は、アイちゃんのところには入り込めそうもないので、タエさんのいるテーブルに着いた。

すると、突然アイちゃんが立ち上がり、バタバタと厨房の奥に消えてしまった。

泣いているように見えた。

カワダさんは茫然とし、我に返ると苛ついたように赤いソファーの座面を拳で強く叩いた。

それを見てタエさんは、すぐカワダさんのテーブルに移動して、いつもの調子で明るく話しかけた。

 

キタノさんが私に顔を寄せてきて、ヒソヒソ声で言った。

「なあ、あの野郎とアイって、デキてたのか?」

「まさか。うちは、お客様との恋愛は禁止だもの…」

タエさんはすぐに、こちらの席に戻ってきた。

「私じゃダメだ。次、ユキちゃん。カワダさんのとこお願い」

「えーっ?」

タエさんでダメなものが、私に何か出来るわけないのに。そう思いながら渋々とカワダさんの前に座った。

項垂れていたカワダさんが顔を上げ、私の顔を見るなり

「ああ、ユキちゃんか。もう、俺の所はいいから、向こうへ行きなよ」

と言った。タエさんの方を見ると(いいからお喋りしなさい)と言う風に、ジェスチャーを送っている。

「うーん。それが、そうもいかなくて…」

「じゃあ、アイちゃんをここに呼んでくれ」

一体どうしたのだろう。カワダさんは、アイちゃんの騒がしい取り巻き達とは違って、とても紳士的で穏やかな印象だったのに。

カワダさんが私に「飲めば?」と言って、自分のボトルを差し出した。

「じゃあ、いただきます」

私はグラスに氷を入れて、薄い水割りを作った。

私はお酒が強くないので、本当はジュースがいいのだけれど、ジュースは高くつく。お気に入りでもない私が頼んだら、忌々しく思うだろう。

空になっているカワダさんのグラスにも水割りを作ると、カワダさんはそれをあおるように飲み干した。

「ねえユキちゃん。アイちゃんって、付き合ってる男がいるの?」

「そういう話は、聞いた事がないけど…」

「いるんだろうな…きっと…」

「カワダさん、アイちゃんが大好きなんですね」

余計な事を言ってしまったと、後悔した。カワダさんは、少し驚いたような顔で私を見た。

「うん。好きだ。好き過ぎて俺はおかしくなりそうなんだ。いや、もうおかしいのかも知れないな」

店の扉が開いて、社長が入ってきた。

「やあ、カワダさん。毎度どうも。キタノさんも、いつもありがとうございます」

社長はふたりに挨拶すると厨房に行き、マスターとアイちゃんと何か話していた。

社長はこのビルのオーナーでもあり、最上階に家族と住んでいる。

おそらくマスターが電話をして、社長を呼び出したのだろう。

カワダさんが「帰るから、お愛想して」と言った。

タエさんが会計をしてお釣りを渡すと、奥から社長が出て来て

「カワダさん、外で、少しいいかな?」と言い、二人は外に出て行った。

それと同時にアイちゃんがフロアに現れた。

 

「キタノさん、ごめんなさい。せっかく遊びに来ていただいたのに、店で泣いたりして」

「気にしなくていいって。どうせあいつが悪いんだろ?」

「社長がカワダさんに上手く話してくれるんじゃないかな。大丈夫だよ、アイちゃん」

私達は、ウサギのように赤い目をしたアイちゃんを慰めた。

「カワダさん、アイがここで他の客と話すのが耐えられないから、辞めてくれって言うんです」

「えーーーーっ?」

私達は皆、驚いて大声をあげた。

「アイは、別にカワダさん嫌いじゃないけど、大勢の中の一人だし、そんなこと言われても困るし」

「そりゃそうだ。うん」

「店が終わるといつも駅にいて、家まで送りたいって。断っているうちに終電に乗り遅れた事もあるし。家とか学校とかしつこく聞いてくるし」

「うわぁ。カワダさんたら、もう周りが見えなくなっちゃってるのね」

「教えていないのに、この前、家の近くにカワダさんがいるのを見て、どうしているんだろうって、アイ、怖くて…」

「カワダさんは、アイちゃんと付き合いたいって言ったの?」

「言われました。でも、まだ彼氏とか全然欲しくないから、ちゃんと断ったんです。アイはお客さんのみんなが好きなのに。それじゃダメですか?って聞いたら、カワダさん、すごく怒っちゃった…」

すると、立て続けに客が訪れて、にわかに忙しくなった。

アイちゃんはいつものように取り巻き達に囲まれて、元気を取り戻していた。

0時近くになり、社長が店に戻ってきた。

「どうでした?社長」

「カワダさん、だいぶ飲んでたけど大丈夫かなあ。カワダさんは、どうも本気でアイが好きになったらしい。いや、あの人は別に悪い人間じゃあないんだ。ちゃんとした所に勤めているし、うちの店にとってもいいお客さんだしな。アイはカワダさんをどう思っているんだい?」

「何とも思っていません。ただのお客さんです」

「そうか。それならそれでいいんだ。カワダさんには、少し頭を冷やしてからまた来てくれって。うちの子達が嫌がるような真似をしたら、許さんよと言ってあるから、まあ大丈夫だろう」

「わぁ、さすが社長!頼りになるぅ!」

タエさんがいつものように社長に抱きつき、アイちゃんはふふっと微笑んだ。

 

思わせ振りが、男を狂わせる。

けれど、思わせ振りが出来なければ、夜の蝶には絶対になれない。

 

 

その次の出勤日には、ミホさんと一緒のシフトだった。

ミホさんは、あの夜の顔色の悪さが嘘のように、綺麗に化粧をしていた。いつも通り客の輪の中心にいて、まるで大輪のバラのように美しい。

いつもと違うのは、お酒ではなくウーロン茶を飲んでいる事だった。

ミホさんは酒が強く、客のボトルから濃い目の水割りを作って何杯も飲んだ。それでいて、少しも乱れないのだ。

そのミホさんが、客が誰もいなくなった隙を狙って、私に言った。

「ねえ、ユキちゃん。ちょっとお願いがあるんだけど」

「何ですか?」

「来週の月曜日、私の替わりに店に出てくれないかなぁ。病院の検査なんだけど、終わったらその日は家でゆっくりしていたいからさ」

「検査!やっぱりミホさん、この頃具合が悪かったんですね」

「そんな大した事じゃないのよ。でも、もし当日になってお店に出られないと悪いから、お休みをいただこうと思って」

「わかりました。私、月曜日に出ますから。お店の事は心配しないで、ちゃんと診てもらって下さいね」

「うん、ありがとユキちゃん。」

 

この時私は、どうして気付かなかったのだろう。

 

ミホさんはいつも、ひらひらとしたシフォンのブラウスにロングスカートをはいていた。

薄い生地のブラウスは、形の整った胸が透けて見えそうで見えない。そして、細いウエストを強調するように、サッシュベルトを締めていた。

それなのに、この日のミホさんは珍しくワンピース姿だった。口の悪い常連客が

「何だ、ミホ。今日はネグリジェじゃないか。色っぽいな。じゃあ、これから俺とおネンネするか?」

「もう!〇〇さんたら!ネグリジェじゃないわよ。ワンピースですぅ」

「そうだ、確かミホは寝る時には、香水しかつけないんだよな?」

「えー?どうしてそれを知ってるのぉ?〇〇さんて変態ね。ユキちゃんも気をつけた方がいいわよ」

「おいおい、酷いなあ。変態はないだろう」

私達は笑った。ミホさんもキラキラと眩しい照明を浴びて、笑っていた。

心の奥底に隠した、途方もない寂しさなど、微塵も感じさせないように。