この日、私が出勤すると店の中はいつもと違う、ただならぬ雰囲気が漂っていた。
出入り口に一番近いテーブルに、アイちゃんと常連客のカワダさんが向かい合って座っている。
カワダさんが小声で一所懸命に何かを話しているのに、アイちゃんは下を向いたまま押し黙っている。
他の客は常連のキタノさんだけで、タエさんと雑談するふりをしながら、アイちゃん達の様子を伺っていた。
私は、アイちゃんのところには入り込めそうもないので、タエさんのいるテーブルに着いた。
すると、突然アイちゃんが立ち上がり、バタバタと厨房の奥に消えてしまった。
泣いているように見えた。
カワダさんは茫然とし、我に返ると苛ついたように赤いソファーの座面を拳で強く叩いた。
それを見てタエさんは、すぐカワダさんのテーブルに移動して、いつもの調子で明るく話しかけた。
キタノさんが私に顔を寄せてきて、ヒソヒソ声で言った。
「なあ、あの野郎とアイって、デキてたのか?」
「まさか。うちは、お客様との恋愛は禁止だもの…」
タエさんはすぐに、こちらの席に戻ってきた。
「私じゃダメだ。次、ユキちゃん。カワダさんのとこお願い」
「えーっ?」
タエさんでダメなものが、私に何か出来るわけないのに。そう思いながら渋々とカワダさんの前に座った。
項垂れていたカワダさんが顔を上げ、私の顔を見るなり
「ああ、ユキちゃんか。もう、俺の所はいいから、向こうへ行きなよ」
と言った。タエさんの方を見ると(いいからお喋りしなさい)と言う風に、ジェスチャーを送っている。
「うーん。それが、そうもいかなくて…」
「じゃあ、アイちゃんをここに呼んでくれ」
一体どうしたのだろう。カワダさんは、アイちゃんの騒がしい取り巻き達とは違って、とても紳士的で穏やかな印象だったのに。
カワダさんが私に「飲めば?」と言って、自分のボトルを差し出した。
「じゃあ、いただきます」
私はグラスに氷を入れて、薄い水割りを作った。
私はお酒が強くないので、本当はジュースがいいのだけれど、ジュースは高くつく。お気に入りでもない私が頼んだら、忌々しく思うだろう。
空になっているカワダさんのグラスにも水割りを作ると、カワダさんはそれをあおるように飲み干した。
「ねえユキちゃん。アイちゃんって、付き合ってる男がいるの?」
「そういう話は、聞いた事がないけど…」
「いるんだろうな…きっと…」
「カワダさん、アイちゃんが大好きなんですね」
余計な事を言ってしまったと、後悔した。カワダさんは、少し驚いたような顔で私を見た。
「うん。好きだ。好き過ぎて俺はおかしくなりそうなんだ。いや、もうおかしいのかも知れないな」
店の扉が開いて、社長が入ってきた。
「やあ、カワダさん。毎度どうも。キタノさんも、いつもありがとうございます」
社長はふたりに挨拶すると厨房に行き、マスターとアイちゃんと何か話していた。
社長はこのビルのオーナーでもあり、最上階に家族と住んでいる。
おそらくマスターが電話をして、社長を呼び出したのだろう。
カワダさんが「帰るから、お愛想して」と言った。
タエさんが会計をしてお釣りを渡すと、奥から社長が出て来て
「カワダさん、外で、少しいいかな?」と言い、二人は外に出て行った。
それと同時にアイちゃんがフロアに現れた。
「キタノさん、ごめんなさい。せっかく遊びに来ていただいたのに、店で泣いたりして」
「気にしなくていいって。どうせあいつが悪いんだろ?」
「社長がカワダさんに上手く話してくれるんじゃないかな。大丈夫だよ、アイちゃん」
私達は、ウサギのように赤い目をしたアイちゃんを慰めた。
「カワダさん、アイがここで他の客と話すのが耐えられないから、辞めてくれって言うんです」
「えーーーーっ?」
私達は皆、驚いて大声をあげた。
「アイは、別にカワダさん嫌いじゃないけど、大勢の中の一人だし、そんなこと言われても困るし」
「そりゃそうだ。うん」
「店が終わるといつも駅にいて、家まで送りたいって。断っているうちに終電に乗り遅れた事もあるし。家とか学校とかしつこく聞いてくるし」
「うわぁ。カワダさんたら、もう周りが見えなくなっちゃってるのね」
「教えていないのに、この前、家の近くにカワダさんがいるのを見て、どうしているんだろうって、アイ、怖くて…」
「カワダさんは、アイちゃんと付き合いたいって言ったの?」
「言われました。でも、まだ彼氏とか全然欲しくないから、ちゃんと断ったんです。アイはお客さんのみんなが好きなのに。それじゃダメですか?って聞いたら、カワダさん、すごく怒っちゃった…」
すると、立て続けに客が訪れて、にわかに忙しくなった。
アイちゃんはいつものように取り巻き達に囲まれて、元気を取り戻していた。
0時近くになり、社長が店に戻ってきた。
「どうでした?社長」
「カワダさん、だいぶ飲んでたけど大丈夫かなあ。カワダさんは、どうも本気でアイが好きになったらしい。いや、あの人は別に悪い人間じゃあないんだ。ちゃんとした所に勤めているし、うちの店にとってもいいお客さんだしな。アイはカワダさんをどう思っているんだい?」
「何とも思っていません。ただのお客さんです」
「そうか。それならそれでいいんだ。カワダさんには、少し頭を冷やしてからまた来てくれって。うちの子達が嫌がるような真似をしたら、許さんよと言ってあるから、まあ大丈夫だろう」
「わぁ、さすが社長!頼りになるぅ!」
タエさんがいつものように社長に抱きつき、アイちゃんはふふっと微笑んだ。
思わせ振りが、男を狂わせる。
けれど、思わせ振りが出来なければ、夜の蝶には絶対になれない。
その次の出勤日には、ミホさんと一緒のシフトだった。
ミホさんは、あの夜の顔色の悪さが嘘のように、綺麗に化粧をしていた。いつも通り客の輪の中心にいて、まるで大輪のバラのように美しい。
いつもと違うのは、お酒ではなくウーロン茶を飲んでいる事だった。
ミホさんは酒が強く、客のボトルから濃い目の水割りを作って何杯も飲んだ。それでいて、少しも乱れないのだ。
そのミホさんが、客が誰もいなくなった隙を狙って、私に言った。
「ねえ、ユキちゃん。ちょっとお願いがあるんだけど」
「何ですか?」
「来週の月曜日、私の替わりに店に出てくれないかなぁ。病院の検査なんだけど、終わったらその日は家でゆっくりしていたいからさ」
「検査!やっぱりミホさん、この頃具合が悪かったんですね」
「そんな大した事じゃないのよ。でも、もし当日になってお店に出られないと悪いから、お休みをいただこうと思って」
「わかりました。私、月曜日に出ますから。お店の事は心配しないで、ちゃんと診てもらって下さいね」
「うん、ありがとユキちゃん。」
この時私は、どうして気付かなかったのだろう。
ミホさんはいつも、ひらひらとしたシフォンのブラウスにロングスカートをはいていた。
薄い生地のブラウスは、形の整った胸が透けて見えそうで見えない。そして、細いウエストを強調するように、サッシュベルトを締めていた。
それなのに、この日のミホさんは珍しくワンピース姿だった。口の悪い常連客が
「何だ、ミホ。今日はネグリジェじゃないか。色っぽいな。じゃあ、これから俺とおネンネするか?」
「もう!〇〇さんたら!ネグリジェじゃないわよ。ワンピースですぅ」
「そうだ、確かミホは寝る時には、香水しかつけないんだよな?」
「えー?どうしてそれを知ってるのぉ?〇〇さんて変態ね。ユキちゃんも気をつけた方がいいわよ」
「おいおい、酷いなあ。変態はないだろう」
私達は笑った。ミホさんもキラキラと眩しい照明を浴びて、笑っていた。
心の奥底に隠した、途方もない寂しさなど、微塵も感じさせないように。