ファンキー加藤が「そだねー」と言った
先週末、ファンキー加藤のライブを観に行った。いつの日か、誰かから「お前の書いたファンキー評は、分析じゃなくて、ただの悪口じゃん。ライブ観てから言えよ」と言われた時に「観てます」と即答するために観に行ったのだ。詳細は端折るが、彼はMCで、平昌五輪カーリング女子チームの口癖である「そだねー」を使って笑いをとった。急速な勢いで流行している言葉を臆面もなく使える自分ではないので、彼が嬉々として使う様子に、むしろ胸を撫で下ろす。
流行語を、「逆に今こそ」とか「それでもなお」といった段階に入らないと使えない。斜に構えず素直で熱い人間が「そだねー」を使うならば、斜に構える卑屈な人間は「そだねー」を絶対に使わないようにしよう、と心掛ける。この時期、「そうだね」と答え、「あ、今、そだねー、って言った?」との展開を呼び込む可能性があり、それはたちまち自己の崩壊に繋がるので、誤解を招かぬように「本当にそう思うよ」などと丁寧に返す。ファンキー加藤が「そだねー」で笑いをとっていたのだから、私は「本当にそう思うよ」を徹底する。
「確認を怠った本当に申し訳ございません!」
数ヶ月前、ネットで注文した商品がなかなか届かず、業者にメールをしてみると、その業者が中国の会社だったことを初めて知る。日本語で送られてきたメールにはこのようにあった。
「予想外、前日中国税関で数日間止まれました。確認を怠った本当に申し訳ございません! 弊社はもう配送業者に連絡させていただきました。予定により1週間ぐらい遅くなるかもしれません。もう少し待って頂けませんか?」
「はい、お待ちしております」と返す。丁寧な文章にしたい気持ちは伝わるが、その気持ちを注ぐ箇所が押し並べて間違っている文章を、繰り返し読んでしまう。日本語能力が低い、と笑うのではなく、むしろ、この手の文章に懐かしさを覚えたのである。
英語の宿題で「長い英文を日本語にする」という課題が苦手だった。ひとまず辞書で調べ、単語の意味を書き出す。それを無理やりくっ付けて文章にしてみるのだが、どうもうまくいかない。それでも強引にくっ付ける。「ジョナサンを見送ったエミリーは、1人でスーパーで買い物をした。なぜならば、ジョナサンは息子のスイミングスクールまで行って、喫茶店でスバゲティを食べた」と直訳しておく。この時、喫茶店でスパゲティを食べたのはジョナサン親子だから、ジョナサンとエミリーを「なぜならば」で繋げるべきではないような気がするのだが、辞書でひいたら「なぜならば」が出てきたので、そう記してくっ付けてしまう。何とか伝わるはず、と祈るような気持ちで宿題を提出する。
違和感や異物感を残す日本語
滝沢カレンのインスタグラムを見ると、ある日の投稿には、トレーナーを着た写真にこのような文章が添えられている。
「最近はこんなお洋服が大好きで理由を突き詰めていたら、謎とまでもなかったのですが言ったら、一日中家から出たらどんなに渋くたって外にいる事には変わらないので、ついつい折り曲げやすい洋服になっているのでしょうか」(2月16日)
滝沢カレンの日本語は、独特だと言われる。上記のように、意味が伝わるような、伝わらないような日本語が多い。何かを強く伝えたいことだけは分かる。言語能力って、卓越すればするほど理解させやすくはなるけれど、それは、伝えたい感情をそのまま伝えられる、ということではない。むしろ、逆だったりする。「確認を怠った本当に申し訳ございません!」のほうが、「この度は確認を怠りまして、誠に申し訳ございませんでした」よりも、謝る気持ちが強い。「お洋服が大好きで理由を突き詰めていたら……」のほうが、「お洋服が大好きなので、好きな理由を探ってみたら……」よりも、好きが伝わる。
違和感や異物感を残しておいたほうが、言葉にはパワーが漲るのか。滝沢カレンの日本語を探究しながら、そのことを思う。スタイルブック『地球はココです。私はコレです。』のあとがきで、滝沢は「人生を130ページに押し込むのは人間としてできるのか不安でしたが、思っていたより伝えたいことは絶対に明確でブレることなどなく、一筆一筆が決して止まることはありませんでした」と振り返る。無難な日本語では「人生を130ページにまとめることができるかどうか不安でしたが、思っていたよりも伝えたいことは明確で、一気に書き上げることができました」などとなるだろう。「人間として」というスケール感や、「一筆一筆」という重厚感が、言葉のセレクトとしてだいぶ浮いているが、それらの言葉が文章をぶっ壊さないという摩訶不思議。違和感や異物感を残しながら、純粋なメッセージとして伝わる力強さ。
石原良純「小言鉄道」、ヒロミ「愛妻大工」
日めくりカレンダー『滝沢カレンダー』の、ある日のメッセージはこうだ。
「#基本や普通ってなんだろう/#思い返せば変な話だ/#じゃがいもにんじんたまねぎは言う/#オレらはカレーや肉じゃがでおなじみのなんて思われてるのか?/#もっと知りたいもっと探りたい/#カレーに入りたい仲間を見渡して/#お決まりなんてとっぱらえ」
カレーや肉じゃがに必要なじゃがいも等が、世の中が定める「基本」や「普通」に疑いを持っている。気になる例え話だ。で、その疑いがどこへ向かうかといえば、どこへも向かわず、むしろ、じゃがいも等は「カレーに入りたい仲間」を見渡すのだった。いつのまにか方向が変わっている。あと、肉じゃがはどこへ消えたのだ。しかし、そうやってわざわざ困惑せずに、一気に読み飛ばせば、何かを言い切っている感じがする。先述した、ジョナサンとエミリーの日本語文に近い。
彼女が芸能人につけた「四文字熟語」には批評性がある。石原良純に「小言鉄道」。ヒロミに「愛妻大工」。宮迫博之に「男前意識」。2つの単語を強引に接続することで、言葉の摩擦熱を生む。不十分な日本語のほうが、日本語としての体温が高いことを知る。そして、提示した議題を説明せずにそのまま放っておいてもいい、という勇気を知る。だから例えば、冒頭で話したファンキー加藤の話題を、特に何の話にも繋げないのは、滝沢カレンを見習ってのことである。
(イラスト:ハセガワシオリ)