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はたらくということ

今回もひきつづき就職についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います(僕は就職や仕事について考えることこそが、新しい産業やベンチャーの振興を考えるにおいてまずはいちばん大事なことだと考えているので、このテーマについてはしつこく書いていこうと思っています)。

仕事ってなんだ?

人生を彩る要素はいろいろありますが、 人がどんな人生を生きるかというとき、仕事は人生において占める時間がもっとも多いもののひとつですよね。その意味で、どんな仕事をするかというのはどんな人生を生きるかということと関係が深いことはまちがいありません。

では、私たちはどんな仕事をどんなふうにすればいいのでしょうか。

どんなふうに自分の仕事を決めればいいのでしょう。

そもそも、仕事ってなんなんだろう?

その問いに率直に答えるならば、仕事というのは一義的には「生計を立てるためにすること」だと思います。人はなんのために働くのかと問われるとまずはそう答えるものだろうし、実際多くの人がそのように答えるだろうとは思いますが、はたして現代の人間は生計のためだけに働くのでしょうか。

いいえ、それだけではないと少なくとも僕は思っています。

ただ生活費を稼ぐためだけに人生の大半の時間とエネルギーを費やし、本当に自分のやりたいことや楽しいことを行うのはそれ以外の余暇の時間、ということだとするとそれはちょっと寂しいなあと思います。どうせだったら自分の人生の大半を費やす仕事の時間さえも自分の好きなこと楽しいことをやり、朝から晩まで充実した幸せな気分でいられたら絶対いいに決まってるって思うんですよね。

そりゃあそうだけどさ、そういうふうに生きれる人というのは才能や経済的に恵まれたごく一部の幸運な人だけであって、自分もそうしたいけどなかなかそうできないのが現実じゃん、と言う人も多いでしょう。うん、僕だって単なる理想主義者の夢追い人というわけではないので、その意見もよくわかりますし、現実はそんなに甘くないということもわかっています。

それでもなお僕は働くということについてもっと深く考え、こだわりを持って生きるべきだと思っています。先に結論をいうならば、働くことを通じて楽しくて幸せな気分でいっぱいになるように仕事をするべきだと思います。

しかしながらたぶんとても多くの人がそのように幸せいっぱいには働けていないだろうという気がしています。時々は楽しいこともあるけれど、ほとんどの時間はつまらなかったり、時にはとても苦しかったりするような感じで仕事をしているのではないでしょうか。

僕はその原因として、現代社会のあり方というか経済観、そして現代人の仕事に対する考え方に問題があり、21世紀になって時代や環境はだいぶ変わりつつあるにもかかわらず、いまだに20世紀資本主義的な価値観をひきずってしまっているからだと思っています。

なぜそういうふうに言うかというと、僕はその分野に詳しい方々や書物などから江戸時代の江戸の人々の生活や価値観、とくに仕事観について教えてもらうことがあり、眼から鱗というかハッとさせられたというか、これまで自分が持っていた現代人の考え方(経済観・職業観・仕事観)が唯一無二のものではないということに気づかせてもらったからです。つまり比較対象ができたことにより現代の人々の考え方も所詮ひとつの考え方に過ぎないと相対化できたからなのです。

江戸人の働きかた

昔から「そんなの朝飯前だよ」という言葉があります。たやすく簡単にできることをよくこんな言い方をしたりしますが、 江戸人の「朝飯前」は意味合いがちょっと違ったそうで、「朝飯前」とは文字どおり朝ご飯を食べる前にする働きのことを言ったそうです。向こう三軒両隣に声をかけ、母子家庭、父子家庭、あるいは老人の一人暮らしの中で困ったことが起きていないか様子を見てその手当てをするのが 江戸人の日課でした。もちろんこれは浮世の義理で無報酬です。

そして朝ご飯を食べたら身過ぎ世過ぎ(生活)のために働いてお金を稼ぎます。これが今でいう「仕事」にあたるのですが、しかしそれも昼飯までには終えてしまいます。その意味では3~4時間しか働いていないことになるので江戸っ子はなんと気楽な人たちだろうという気がしますが、実際にはそうではありません。昼食が済んだ午後からは人のため町のために「はた(傍)をらく(楽)にする」働き、今でいうボランティアに精を出していたのだそうです。 江戸っ子は宵越しの金は持たないわ、ろくに働かないわ、浮世をのらりくらりと楽しく遊んでいたと言われることがありますが、実はそうではなくいろいろなことをして多彩に働いていたのです。ただ現代人とは働くということの概念が違っただけなのです。ちなみに人の評価は午後の「傍を楽にする」働きの多い少ないで決まったそうで、 地位や財産でなく自分以外の人や世間のために働くことに人間としての価値をみるような価値観だったといいます。

最近「プロボノ(各分野の専門家が職業上持っている知識・スキルや経験を活かして社会貢献するボランティア活動)」という言葉がさかんに言われるようになりましたが、そんな言葉を待たずとも百年以上もずっと前からそういう活動を江戸っ子たちは「朝飯前」にやっていたのです。もちろん朝だけでなく夕飯前にも。

そして夕方になると、夏などはみんなで一斉に打ち水をして明日も元気で働くために備えました。「あそび」に引っかけてこれを「明日備(あすび)」といい、リフレッシュ、レクリエーションの時間だったといいます。よく働きよく遊びストレスをためないというのが江戸の暮らし方だったようです。

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僕はこの話を知ってから江戸人に対するイメージがガラリと変わりました。なんと洒脱な人たち、なんと素敵な働き方をしているのでしょう。庶民の知恵という言葉に象徴されるように、お上に頼らずみんながうまく生きて行くためにどうしたらいいかという工夫が巧みになされ、お互いが気を遣い助けあって生きていたきわめて民主的で共同体のつながりが豊かな社会だったのです。

傍を楽にする働きを通じてお互いに感謝しあうことで幸せを感じるような、そういう社会だったにちがいありません。きっと「いつもすまないねえ」「いいってことよ。こんなことくれえは朝飯前だからよ」というような会話が爺さん婆さんとおっちゃんおばちゃんとの間で頻繁に交わされていたことでしょう。僕はこのような光景が今の時代でも「朝飯前」だったらとても素敵だと思います。日本には今こそお手本にすべきライフスタイルやワーキングスタイルが実は古来からあったのです。

「働く」=「傍(はた)を楽(らく)にすること」

今述べたように、江戸人の働き方にはこれからの時代を幸せに生きて働くための大きなヒントがあるように思います。

  1. 「傍を楽にする」ことを心がけて働くことで幸せをダイレクトに感じることができる
  2. 「よく働きよく遊びストレスをためない」ということが健やかに幸せに生きる上でとても大事

ここでいう「傍」とは自分の周りのことですから、仕事でいえば職場の同僚や上司、パートナーなど一緒に働く人達のことを指しますが、「傍」を「楽」にするとはすなわち、そういう仕事仲間の負担を軽くするように楽になるように一所懸命下働きをするということを意味します。お互いがお互いをそのように思い合って感謝しあって働いたら、自分はみんなの役に立っているという手応えから幸せを感じ、そのチームはそれは素晴らしいパフォーマンスを出せるのはまちがいありません。まさにこの言葉一言でチームワークの極意をズバリ言い表していると思います。と同時に、この「傍」は仕事仲間だけでなく価値を提供する顧客のことも指していますので、自分たちが提供する価値によって顧客が「楽」になる、すなわちお客さんが便利で楽しい気分になって感謝してくれれば、それにともない自分も「ああ、喜んでもらえてよかったなあ」と充実感や満足感からとても幸せに感じることができるでしょう。「傍を楽にする」、なんてイカしたコンセプトでしょう!これって絶対現代にも通用すると思います。

ということで、君はなんのために働くのかと問われたとき、冒頭で僕は「生計を立てるため」というふうに答えましたが、そうではなく「傍を楽にするため」に働くのだ、というふうに言い直したいと思います。みんながお互いに傍を楽にするために働いたとしたら、絶対みんな生計を立てていくことはできるはずだからです。それにぐちゃぐちゃイチャモンをつけてくる人がいたら「べらんめえ!しゃらくせえ!」と言ってやりたいと思います(笑)僕は九州男児で、江戸っ子じゃありませんが(^^)

また、よく働いたらおもいきり遊んで、そしてまたおもいきり働く、ということがとても大事ということは僕もとりわけ強調したいと思います。なぜかというと、現代は高度かつ複雑な社会になっており、統治機構も仕事の内容も仕事の分業も高度に進んだ結果、わかりやすい仕事の成果が見出しにくい世の中になってしまったからです。仕事の成果が見出しにくいということは、どこが始まりでどこで終わりかがわかりにくい、つまりいつ区切りをつけていいかわからないということにほかならず、いつもスッキリせずストレスが溜まりがちです。そうやってストレスを溜めたまま次の仕事、さらに次の仕事というふうに積み重なっていくとそのストレスは古層のように堆積して最終的には人の精神を蝕んでしまいます。

それに対する対策は二つ。①この仕事はなんのためにしているのかを常に問い、成功・失敗の定義を必ず定めてから仕事をすること、②マイルストーン(仕事の課程の中間目標)を達成したらイエーイ!とそのポイントごとにそこでおもいきり遊ぶこと、だと思います。

昔は、ストレスや不安など嘆いたり困ったりする原因や行為そのものを「気の毒」と呼んだそうです。反対に気を病みそうな人には、それとなく助言したり安心させたりという思いやりのしぐさや気遣いを指す「気の薬」をあげたそうです。そういう言葉があるくらい、江戸人たちは精神的なストレスや病に対して細心の注意を払い気をつけるようにしていたようです。

僕は無学の頃、人間も社会も時代と共に必ず進化するものだ、つまり世の中というのは時が経てば経つほど昔よりも改善され良くなっている、というふうになんとなく感覚的に思っていました。しかしながら実際は全然そうでもなく、昔のほうが現在よりもはるかに優れていた例は枚挙にいとまがないということを知りました。

20世紀は科学技術の大きな発展、工業の発展による世界規模での大量生産・大量消費社会の形成などがある一方、戦争の大規模化や環境問題など様々な問題が深刻化した時代でもありました。いま多くの人々が感じていますが、あまりにも経済一辺倒に傾斜しすぎた価値観が様々な不安感や不幸感を募らせる原因となっています。といっても、今までの価値観の中でそれができないから妥協するとかあきらめるということではなく、それにかわるもっと魅力的で楽しい価値観とライフスタイルを創りだしていくことでその不安や不満・不幸を乗り越えていければと思いますし、その具体的な例を創りだしていくことが起業家の社会的な使命のなかでも最も崇高な使命のひとつではないかと最近考えています(ちなみに雇用の創出なども起業家・事業家の社会に対する大いなる貢献で、他にもいくつかありますがそれはまた後に解説します)。

そのブレイクスルーとして江戸の社会や江戸人の価値観は大いなるヒントになると僕は思います。宵越しのカネなんかなくたって生きていけるし、長屋にはプライバシーなんかなかったけれどそのぶん隣人との関係はとても暖かかったし、衛生観念もしっかりしていて町はきれいでエコだったし、江戸人の就業観・仕事観のほうがあきらかに現代人よりも優れていると思います。

閉塞感でいっぱいの今こそ、ITなどの最新技術や世界の最新事例などを活用したりしながらも、一方で日本の素晴らしい伝統からのインスピレーションを温故知新で活用し、新しいライフスタイルやワークスタイル、価値観を創りだしていくべきだと考えています。これまでの制度、社会構造、産業構造、経済構造の一部は明らかに陳腐化して時代遅れとなっており、このまま放置しておいて良いはずがありません。

僕はよく海外に行く(というか1年の半分ほどは日本以外の場所にいる)ので、日本を見て良いところ悪いところを客観的に相対化することができると思うのですが、日本は清潔で技術も進んでいてインフラストラクチャもとても充実している一方、決定的にダメだと思うのは人々が自信を失い、不安に駆られ元気がないことです。ずっと日本にいるとわからなくなってしまうのですが、海外から戻ってくると一目でわかるくらいそのことは明らかです。それがいつもとても残念に思います。なぜアジアやアメリカ、ヨーロッパに行くと日本よりもインフラはひどいのに、あちらの人達のほうがイキイキとしているのだろうかと不思議に思います。日本人は本質的にはなにも落ち込む必要がないのに。私たちが閉塞感や不安、不満を感じているのはこの陳腐化した制度や構造が放置されたままなかなか変わらないことに起因すると思います。これを何とかしていかないと、今は全然ダメじゃないけど、いつかほんとうにダメになるんじゃないかと心配です。

ともかく、働く=「傍」を「楽」にする、このアイデアを気に入った人はぜひいろんなところで話題に出してみんなでシェアしていくところから始めましょう。日本人(日本語を熟知している人)なら誰しもがピンとくる言葉ですから!