2018年02月28日

「荒らしは放置」的な考え方は、もはや妥当なスタンスではないのかも知れない

昔、といってもまあ1年半くらい前ですが、こんな記事を書きました。


ちょっと長いですが、いちいち書き直すのもなんなので、上記記事の内容を引用します。


最近、この「荒らしはスルー」という言葉について思い出すケースが増えました。

勿論ケースバイケースだとは思うんですが。webには「PV至上主義」及び「PVをお金に変える仕組み」というものが存在しておりまして、中にはPVを欲するあまり、意図的に炎上を引き起こすような言論を駆使する人、というものが見受けられます。注目中毒、影響力中毒ですね。

こういう人は、上記のような言葉でいうところの「荒らし」と認識してしまっても問題ないように思います。

そういう人たちは、自分に批判的な指摘や意見がいくら舞い込んでも、却って「これでPVが増えた」と喜んじゃうんですね。更に、Webには「注目されている人」を無条件でもてはやすような勢力もいて、炎上することで却って「信者」を増やしてしまうことすらあります。彼らが寄せられた意見によって考えを変えることは決してありませんし、2度、3度と同じような炎上を狙う為に、また同じ行為を繰り返すだけです。


私はかつて、旧2ちゃんねる的な「注目されたくて暴れている困った人はスルーが一番」という考え方の、割と単純な信奉者でした。結局ああいう人達にとって注目はPVという餌にしかならないんだから、放置出来るなら放置が一番いい、というスタンスです。

ただ、この記事を書いてからも色々考えまして、ここしばらく、ちょっとこの記事は妥当とは言えなかったかな、と思うようになっています。


つまり、「放置した時のデメリット」と「きちんと批判・反論した時のデメリット」では、実は前者の方が大きいんじゃねえか?放置するよりちゃんと批判や反論を可視化した方がいい場合が多いんじゃねえか?


という考え方に傾きつつあるのです。


まず、一言に「注目されたくて暴れている困った人」といっても、勿論様々な種類があります。かつての2ちゃんねるであれば、コピペ荒らしもグロ画像貼る人も暴言吐きまくってるだけの人も十把一絡げに「荒らし」と呼んでいましたが、昨今、むしろそういうシンプルな荒らしはあまり観測出来なくなっています。また、基本的には「その板・そのスレッド」の中でしか暴れられなかったかつての荒らしと、webで縦横無尽に暴れられる現在とでは事情も違います。


ここでは、「注目されたくて暴れている困った人」のことを、


・主にPVやPVからの収益を目当てに、デマ・誤情報・明らかに妥当ではない極端な意見などをwebに公開しまくっている人


という程度の多少ふわっとした定義をさせて頂ければと思います。まあ、ふわっとしてはいますが、よく見る類型だなーとは思って頂けると思います。

また、「注目されたくて暴れている困った人」というのも長いので、これ以降は古き良き2ちゃんの用語を借りて、「注目されたくて暴れている困った人」のことを「荒らし」と呼称したいと思います。

では、この「荒らし」に対して、周囲が放置した時と、きちんと反論・批判した時では、それぞれどんなメリット・デメリットがあるでしょうか?


〇荒らしを放置した時のメリット

・反論記事を経由してPVを供給してしまう、ないし荒らしサイトの知名度を高めてしまうことがない
・検索エンジンの評価が低くなる可能性がある
・反論するコストがかからない

〇荒らしを放置した時のデメリット

・デマ・誤情報や極端な意見が、継続して拡散・展開され続けてしまう
・情報リテラシーが低い人が、荒らしの言葉を信頼・信奉するようになってしまう


〇荒らしに反論・批判した時のメリット

・批判的な見解があることを可視化することが出来る
・検索エンジン等で、反論を拡散・展開することが出来る
・情報リテラシーが低い人に、反論を共有することが出来る可能性が高まる

〇荒らしに反論・批判した時のデメリット

・反論を経由して、荒らしの知名度やPVを高めることに繋がってしまう
・単純に反論・批判する為のコストが非常に高い



ざっくりとはこんな感じなのかなあ、と。

で、一番のポイント、かつ反論記事や批判記事を書いた際、一番指摘されるのが多い論点が、

「反論を経由して、荒らしの知名度やPVを高めることに繋がってしまう」

という点なんですよね。放置しておけば皆が知ることもなく、webの山にうずもれているだけなのに、わざわざ指摘・反論してしまうから却って注目が集まってしまったじゃないか、というヤツ。

私、この意見はこの意見で正しいと思いますし、以前まではそういうスタンスに近かったんです。「荒らしは放置が一番嫌い」の体現ですよね。誰からも顧みられないことによっていずれは収束するだろう、という待ちの姿勢でもあります。

ただこれ、本当に零細のサイトであればともかくとして、「既にある程度拡散してしまっているサイト」「運営者がある程度展開・拡散のノウハウを持っているサイト」について言えば、「放置することによって本当に収束するか」というのが極めて怪しいと思っているんです。というか、多分収束しない。現状してないし、恐らく今後もしない。

昨今のGoogle検索結果のアレさは皆さんご承知の通りとは思いますが、現在Googleの検索アルゴリズムがhackされ過ぎていて、マイナー単語のある程度の検索順位ならかなりお手軽に確保出来てしまう状況です。はてブやら、SNSやらでも、「仮にみんなが放置しようとしても」無理やり露出を確保出来てしまうインフラが、現状既に整ってしまっている。

これによって何が起きるかというと、「詳しい人達が反論しないまま放置されたデマや極端な意見が、GoogleやらSNSに拾われて、あまり詳しくない人たちにどんどん展開されてしまう」という事態が起きる可能性がある、というか現状既にバンバンそういう事態になってしまっていると思うんですよ。

「放置して待つ」が、既に有効な対策ではなくなってしまった。


昨日の記事ともちょっと絡むんですが、「反論や批判が可視化されているかどうか」というのはかなり重要です。検索した時に、荒らしの意見と同時に批判的な意見も引っかかれば、少なくとも「ああ、賛否ある話なんだな」ということは最低限理解することが出来る。これが荒らしの意見だけだと、「そうなんや」と納得してしまう人をどうしても食い止められない訳です。


これは、例えばゲーム系迷惑サイトやら、海賊版サイトやらでも同じことだと思います。こういうのも批判する度に、「こういう批判が却って人を呼び込んじゃう」みたいに言う人いるんですけど、んなこと言ってるうちに現状既に散々人が集まってるやんけ、と。もはや放置しようにも出来ない状況なんだったら、それはもうきちんと批判して、通常攻撃に遷移した方が遥かにマシなんじゃないか、と最近は思うようになったわけです。

「きちんとした反論」「きちんとした批判」を可視化しておくメリットは、放置するメリットに勝る。現状、そういうことなんじゃないかなあ、と。



勿論、

・単純に反論・批判する為のコストが非常に高い

というのはどうしようもない問題であって、何でもかんでも批判していたら体がいくつあっても足りませんし、現状Googleに拾われてすらいないサイトをわざわざ批判しに行く必要は流石になかろうとも思いはする訳ですが。

ただ、「放置が一番」というのは必ずしも妥当ではなく、「批判の跡を残す」ということが重要なシーンも結構あるんじゃないか、というのはおそらく確かだろうと思っておりまして、今後とも出来る範囲では批判していこうと考えた次第なんです。


以上、「荒らしは放置」というのも、時代が変わり、環境も変わり、良し悪しになったなあというお話でした。

今日書きたいことはそれくらいです。





posted by しんざき at 08:16 | Comment(0) | ネットの話やブログ論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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