ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

行けなかったライブのこと

ぼくにとって銀杏BOYZ、ゴイステの曲は、峯田が歌うものじゃなくて、ぼくらが歌うものだった。

 

童貞ソー・ヤング、もしも君が泣くならば、星に願いを、駆け抜けて性春、グレープフルーツ・ムーン、援助交際夢で逢えたら銀河鉄道の夜、惑星基地ベオウルフ、夜王子と月の姫……ぜんぶぼくらの歌だった。沖縄にいた高校時代、廃部同然だった軽音楽部に籍を入れ、白球を追う青春からはほど遠い校舎の4階いちばん端っこの小さい部屋で下手くそなギターを歪みでごまかし“夢で逢えたら”を叫んだ。

放課後のカラオケは、ゴイステと銀杏が流れれば、いつでも全員で歌った。“童貞ソー・ヤング”、「やればできるなんて嘘っぱちだ!」を仲間うちで唯一童貞を捨てた男に叫ばせる。それがぼくらのセックス経験者への復讐だった。若者よ童貞を誇れ! 童貞!万歳!に続いて、今でも弾ける唯一のイントロが鳴る。
銀杏BOYZはぼくらが歌う歌で、だからぼくは銀杏BOYZのライブそのものには、いまにして思えば驚くほど興味がなかった。峯田のパーソナリティーに想いを馳せることもまったくなかった。峯田はライブで全裸になるらしい!そんな話を友だちから聞いてもどこか現実味がなかった。

 

ぼくにとっての大森靖子は、ぼくだけのものだった。高校時代から遠く離れてしまった東京のワンルーム、薄暗くほこりっぽいその部屋で若い時間をゆっくりと殺しながらぼくは、大森靖子の歌を聞いていた。“Over The Party”の「いかれたニートで いかしたムード」のフレーズに救われていた。「脱法ハーブ握手会 風営法 放射能」というフレーズを聴くだけで涙を流した。ぼくがちゃんと生きられなかった日々を、大森靖子が歌に遺してくれた。

親の金でだらだらと生き延びていたあの頃、変わりたいと思いながら一歩目を踏み出せなかった700日、大森靖子の歌がひとりぼっちのぼくを支えてくれた。彼女のライブに行っていることが唯一の誇りだった、親の金だったのにね。

『Tokyo Black Hole』というアルバムは、すべてがぼくのためにあるようで、特に、“給食当番制反対”と“少女漫画少年漫画”の2曲には、忘れていた情けない自分の過去を思い出し、見ないふりをしていた孤独を突きつけられた。明るい未来ではなく、その瞬間の悲しみや孤立無援に寄り添ってくれるのが大森靖子の歌だった。

思えば銀杏BOYZの歌もそういう類のものだったのかもしれない。みんなで歌っていたけれど、声を合わせながらもぼくらは、やっぱりどこかひとりぼっちで、ぼくらの声はひとつひとつだった。いっしょになることはなかった。

 

だから、ぼくにとって銀杏BOYZ大森靖子のツーマンは、ふたりを見にいく・聞きにいくんじゃなくって、あの頃の自分を肯定する行為だった。高校のころに聞いていた峯田の歌、ニート時代に寄り添ってくれた大森さんの歌、そのふたつに対するお礼参りのようなものだった。

 

ぼくは大森靖子銀杏BOYZのツーマンに行けなかった。ニートだったぼくはいつしか働くようになり、結婚した。4ヶ月間楽しみにしていたライブの1週間前、急な仕事が入ってしまった。その仕事はぼくがニートから脱出するきっかけのひとつとなった関係の継続だ。個人的に思い入れもある。相手の人にはとてもお世話になっている。だから、とても迷った。「すみません、先に決まっている予定があって」と言えば、カドが立つことはなく、すんなり断れたはず。とっさに迷った。仕事、断りたい。

 

仕事の依頼メールが来た瞬間、一緒にライブへ行く予定だった妻に「仕事断ってライブ選んだらどう思う?」と聞いてしまった、半ベソかきながら。かっこわるい。それくらい自分で決めろよ。
妻は「ライブを選んだら、まだ子供なんだなって思う」と言った。だよねー、と思った。子供はもうイヤだった。子供じゃないもん27だ。だから、ぼくは、仕事を選んだ。それはすごく正しくて、取材のあった乃木坂から海の近くにある妻の待つ家に帰る電車の車内、今ぼくはたしかに、自分を誇りに思う。でも、でも。

 

“駆け抜けて性春”って曲をはじめてCDで聴いた時、爆走するトロッコに乗りながら演奏する男たちをイメージした。今にも投げ出されそうになりながら、投げ出されてもいい、かまいやしない、そんな気迫でもって叩き、弾き、歌う男たちを想像した。こんなに疾走する曲をほかに知らなかった。とことん前のめりで、いつ顔面からズッコケてもおかしくない。

そんな曲がスローダウンすると、突如YUKIの声が入ってくる。彼女の歌声は生き急ぐ彼らをたしなめるように響いた。そこにYUKIをおいた銀杏BOYZ、彼らの女性に抱く幻想、憧憬、畏怖を感じた。だからこそ、高校生のころのぼくは、YUKI以外の人間があのパートを歌うのを聞きたくなかった。「私は幻なの」嘘つけ、と思う。同級生の女子がそのフレーズを歌っても、それはあまりにもリアルで、なんのイリュージョンもかかってなかった。YUKIが歌わなくては幻はほんとうにならない。

 

そのフレーズを、大森靖子が峯田と歌ったという。ツーマンが決まったときから、それを聴くのを楽しみにしていた。聴けなかった。大森靖子が歌う“駆け抜けて性春”はまぼろしになってしまった、ぼくにとっては。

 

今日のツーマンはまったく幻になってしまった。ぼくが選んだ現実、仕事のほうは散々な出来だった。そこにいる誰も、ぼくを望んでいないように感じた。義理とか、お金とか、これまでとか、そういうのを安易に選んではいけないと思った。ぼくの行動はぼくの気持ちの正直な現れで、ぼくはほんとうに嘘がつけない人間で、仕事中、ふわふわしてしまった。自分の意志ですべてを選びとらなくては、選択の結果に責任を持たなくては。

 

ぼくがいま焦がれている女性は海に近い部屋で待っていて、ぼくが焦がれる音楽は、別の海の近くで鳴っていた。

ぼくはまだ子供なんだろうか、イヤだな。夢で逢えたらいいな夜の波を越えていくよ、おもしろいことほんとうのこと愛してる人ふつうのことなかったことにされちゃうよなかったことにされちゃうよ。

 

妻の待つ部屋に帰る。
けっきょく、妻も体調を崩してしまって、この日のライブに行けなかった。ぼくはちゃんと生きようと思った。今日のまぼろしを誰よりも鮮明に覚えながら。