老子が書いた「上善は水の若し」の真意
理想的な無為のあり方を表現した言葉に、老子の「柔弱(じゅうじゃく)」がある。柔らかくて弱い(しなやかな)状態をいう「柔弱」の象徴として老子が挙げているのが「水」だ。
水の存在をたいへん尊重した老子。農業社会における水の重要性はいうまでもないが、水の性質を人の生き方に結びつけたところが老子の特徴といえる。東京大学名誉教授の蜂屋邦夫(はちや・くにお)氏に、老子における「水」の考え方を聞いた。
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水についてのもっとも有名な文言が第八章です。
上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。
(最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。)
非常にわかりやすいたとえです。水は大地に恵みを与え作物を育てたり、人々の喉を潤したりと、さまざまな利益を私たちに与えてくれます。さらに川を流れる水に目を移すと、しなやかに方向を変えながら岩を避けるようにして流れていきます。そして最終的には、人の嫌がる低い場所(濁っていたり、湿地であったりする場所)に落ち着きます。こうした水のありようを人間にたとえてみると、争いを好まない謙虚で善良な聖人の姿になります。
孔子の儒家思想でも「水(川)から学べ」といっていますが、老子と孔子とでは川のとらえ方が異なります。儒家は、川の流れが蕩々(とうとう)としていて尽きることがないことから、水(川)を「絶えざる努力の象徴」ととらえました。絶えず流れ動いている様子を勤勉な人間の姿にたとえたのです。一方、老子は、第八章のように、水を「何事にもあらがうことなく生きるものの象徴」ととらえていました。
衝突や争いをみずから避けて人よりも低い場所に留まるという生き方を現実世界で想像すると、謙虚というより腰の引けた卑屈な人物を思い浮かべてしまいます。しかし、老子は水がもっと大きな力を秘めていることも、ちゃんと認識していたようです。第四十三章には、こんな文言があります。
天下の至柔(しじゆう)は、天下の至堅(しけん)を馳騁(ちてい)し、無有(むゆう)は無間(むかん)に入(い)る。
(世の中でもっとも柔らかいものが、世の中でもっとも堅いものを突き動かす。形の無いものが、すき間のないところに入っていく。)
この「天下の至柔」(世の中でもっとも柔らかいもの)を「水」と言い換えると、次のようになります。
柔らかくてしなやかな水は、時には金属や岩のような頑丈で重いものを動かすこともある。さらにどんな形にも姿を変えることができる水は、ちょっとした隙間にも入っていくことができる——たしかに普段は穏やかな川の流れも大雨ともなれば増水し、濁流となって重い岩を動かしたり、山を削り取って地形を変えてしまうこともあります。さらに現代では、水をノズルで噴射して金属を切断することだってできます。
古代中国において、水は四角い器に入れれば四角になり、円い器に入れれば円くなるように、柔軟なものの代表でした。老子はもっとも柔らかい水に大きな力が潜んでいることも理解したうえで「上善は水の若し」と述べたのです。
■『NHK 100分de名著』2013年8月号より